佐々木美咲 1
平日、午前十一時半。
営業開始して間もないカラオケボックスの個室に女性の泣き声が響き渡っていた。
個室にいるのは見本のようなオフィスカジュアルを着た二十代前半の女性と、はるひだ。
「だいたいねえ! やりたいことなんてなかったの!」
「そうなんですか」
「受けても受けても落ちてさ、心折れるじゃんそんなの。しまいにはエントリーシートの時点で結構落されて…………ねえ、聞いてる?」
「はい、聞いています」
指摘されたので赤べこのように相槌を打っていたのを止めて、話のタイミングにちゃんと合わせて頷く方針に変えた。
ぼろぼろと涙をこぼす女性をはるひも最初は心から心配していたのだが、途中から嗚咽よりも涙の間に挟まる愚痴が増えていった。
今ではもう、愚痴九割、泣き一割と圧倒的に愚痴の量が増えている。
「それで極めつけはね! 最終面接まで何とかたどり着けたと思って安心してたら、その最終面接であっけなく落とされたの! この気持ちが分かる?」
「ええと、中学で……、部活の大会に負けた気持ちみたいなものですかね?」
まったく気持ちが分からなかったので振り絞って例えを出した。しかし、言いながらすでにこれ違う気がするなと思ったせいで返答は尻すぼみになる。
「何回戦?」
「に、二回戦です。地区大会の……」
急に真顔で聞かれ怖かったがはるひは正直に答えた。
「中学生の地区大会の二回戦と就活じゃ全然違う」
「すみません」
「考え直して」
「え、ええっと……」
どうしてこんな目に、と傍らに置いたリュックサックに目を向けた。
黒いリュックのチャックは半分開いていて、中でふわふわした茶色の毛が動いているのが見える。
「茶太郎を連れていけ」
小説を書くための取材に行ってもらう。と言った榊は、続けて茶太郎をお伴に任命した。
「お待ち下さい!」
「名付けもされたし、お前が適任だろう。フォローしてやれ」
「……かしこまりました榊様」
はるひに向けて不服そうに唸りながらだが茶太郎は了承した。フォローしてやれと榊に任されてしまっては、断れなかったのだ。
「茶太郎を連れていくのはいいんですけど、私はどこに行けばいいんですか?」
「行けば分かる」
まただ。説明をする気はさらさらないらしい。
「説明って、大事だと思いますよ」
「ついて来い小娘」
ぴょん。と、茶太郎は小さい身体をジャンプさせて、崩れたままになっている本を飛び越えた。
茶太郎はさっさと部屋から出ていって、戸惑っている内に姿が見えなくなる。
「待ってよ茶太郎」
このままでは見失ってしまう。
追いかけるためにはるひは立ちあがった。ずり落ちていたリュックサックも背負い直す。本を踏まないように足元を見ながら、部屋の敷居を跨いだ。
そうやって気をつけながら敷居の外に一歩足を踏み出すと、ローファーを履いた足元からじゃりっという音がした。
あれ? と思い顔をあげると、そこに板敷の廊下はもう影も形もない。
さわさわと風が木々を揺らす林の中にはるひは立っていた。
「なんで林?」
障子の向こうには廊下が見えていたはずだった。絶対に林などではなかったはずだ。そう思い振り向くと、背後にも林の木々しか見えない。
榊やシロ、あの本で埋もれた部屋がすっかり姿を消してしまっていた。
「早くしろ」
慌てて声の聞こえた方向を探すと、一メートルくらい先に茶太郎の小さな姿があった。
小走りにそちらに近づくと、追いつく前に歩き出す。短い手足で進んでいるわりに歩みが速い。
「ここどこなの? あの部屋はどこに消えたの? 榊様とシロはどうしたの? そもそも榊様って何者?」
置いていかれないように足を動かしながら、矢継ぎ早に尋ねた。
「榊様は榊様だ。そんなことも分からないのか人間の小娘は」
犬はやはり飼い主に似るらしい。榊と同じで茶太郎も答えが答えになっていなかった。
「小娘って言うの止めて。はるひって呼んでよ」
「では、はるひ。きりきり働くのだ」
「働くっていっても、取材ってどうすればいいのかさっぱり……」
榊や茶太郎のペースにのまれてしまって、思考が追いつかないままとにかく足を動かしていたが、一度考え始めてしまうと歩みが鈍くなる。
はるひがとぼとぼとした足取りになると、後ろを気にせず進む茶太郎との距離はどんどん開いていった。
一人と一匹の間にある距離が五メートルは離れてしまったところで、近くに気配がないのを察したのか、茶太郎は歩みを止め振り返ろうとした。が、勢いまでは止まらなかったのかころんと転がる。
手を貸すために駆け寄ろうとしたが、茶太郎は転んだことを対して気にしていないようだった。
距離は離れていてもはるひがちゃんとついてきているのを確認すると、さっと起き上がり歩みをまた進める。
その姿を見たら、可愛いから細かいことはもういいか。とはるひは思った。
「こっちだ」
大人しく後についていくと、林から舗装された道に出た。
はるひにも見覚えがある道で、この大通りを十五分ほど真っ直ぐ進めばいつも使っている最寄り駅にたどり着く。
歩いている内に、先程の林は毎年初詣に行く神社の裏手にある林だということに気づいた。
「おそらくここだな」
茶太郎はそう言うと駅前の広場で足を止めた。
時刻は九時四十分。
スマートフォンで時刻を確認するまでもなく広場の時計台が時間を示している。
通勤ラッシュのピークも過ぎ、駅構内に向かう人影はあまり見当たらない。
「誰がいるの?」
「それは知らぬ」
「知らない人にどうやって取材するの?」
「知らなくともあちらから来る」
「向こうは私が分かるってこと?」
「そうではない」
禅問答のようなやりとりに頭が痛くなってきた。うろんな目で茶太郎を見ると、仕方ないとでも言うように渋々だがやっと説明らしい説明を始める。
「榊様にご加護を授かっただろう」
「ごかご?」
「手に、ほれ」
ふうっと茶太郎は榊のように息を吹きかける真似をした。短い前足を持ちあげてそこに息を吹きかけている。
「かわいい……、じゃなくて、手ってあれね。でも、ごかごって何?」
「ご加護も分からんのか!」
「だってそんな言葉普段使わないもん」
悪びれなく言うとため息をつかれた。
「あとで辞書でも使え。自分で学ばねば身にならん。とにかく榊様のお力でなんとかなるのだ」
「なんとか、ねえ」
はるひはちっとも茶太郎の言うことを信じていなかった。
正しくは信じていないというよりも、何もかもがよく分からないのだからなるようにしかならないとさっき思うことにしたのだ。
だからご加護の意味が分からなくても気にしないし、なんとかならなくて取材相手がみつからなかったとしてもそれはそれで構わないのだ。
そんな風に開き直り、二月の肌寒い風を我慢しながら手持ち無沙汰に駅前広場の時計台の下で待つこと五分。彼女はやって来た。
彼女はよたよたよろけながらも必死に走っていた。
適当に一つに括ったのであろう髪はしばりそこねた毛先が汗で首筋に張りつき、ボタンをしめる時間もおしんだのか寒いのにコートは前が開いたままだ。ストールは巻かずに腕に抱えている。
女性は左手に巻かれている腕時計を確認しながら走っていたが、息をぜいぜいさせると早歩きになり、時計を確認するとまた駅に向かって小走りになった。
履いているパンプスが走るたびにパカパカ脱げていて危なそうだ。そんなことを思いながらはるひは駅に向かって走って来る彼女の姿をぼんやり眺めていた。
女性はどうにか転ばずに走っていたが、懸念通りとでも言うべきか、駅前広場にさしかかった辺りでバランスを崩した。
踏み出した右足の足首がぐにゃりと曲がり、走ったことによる疲労からか崩れた体勢を持ち直せなかったようだ。
「わ!」
かろうじて転ぶ時に手を着いて顔を守っていたが、豪快に転倒してしまった。
ふわりと腕に抱えていたストールが広がり地面に落ちた。勢いよく転んだため鞄からも中身が飛び出して地面に散らばる。
「大丈夫ですか?」
咄嗟に近づきはるひは声をかけた。
「……多分、大丈夫です」
大丈夫かと問われると、つい大丈夫と返してしまうものだ。
反射で返事をしたようだったが、人に見られていたことに女性は頬を赤く染めた。大人になってから転ぶと子供時代の十倍は恥ずかしい。
羞恥と痛みに耐えながら彼女はのそのそと起きあがった。
「膝、痛いですよね。……絆創膏とか持ってますか?」
聞きながら、はるひはしゃがんで散らばっていた荷物を拾う。
「持ってないです」
「じゃあ、ドラッグストアとか」
リュックサックの中を探すまでもなく、はるひも絆創膏を持っていない。
確か近くにあったはずだと周りを見渡してみれば、横断歩道を渡ったところに黄色の看板が目立つドラッグストアがあった。
「すみません。あの、自分で何とか出来ますので……」
「でも痛そうですよ。すぐそこですし、買ってきます」
自分に声をかけているのが十代の女の子だと分かり女性は遠慮しようとしたのだが、榊や茶太郎に負けず劣らずはるひもマイペースに動いた。
拾った荷物を女性に手渡すとさっと立ちあがる。
「茶太郎! そこにいてね!」
時計台の下から動かずにいた茶太郎に念のため声をかけてから、はるひはドラッグストアに向かった。




