三春はるひ 1
三春はるひは、二月に入ってから一度も学校に通っていない。
彼女が不登校になったのは、冬休み開けである一月半ばの頃に起きたある出来事のせいだった。
宮田朱里は、はるひと幼稚園の頃からの付き合いのいわゆる幼馴染だ。
十年以上の友人関係がある二人はあまり同じクラスになれたことがなかった。中学の三年間に至っては一度も同じクラスにならなかった。
なので高校生になって一年二組にお互いの名前を見つけた時は、本当に嬉しかったのだ。
高校生活が始まると、はるひと朱里は北高がある隣駅の中学出身の三人組と仲良くなった。それが萌と優香と未来だ。
一学期も二学期も、日常的に昼休みや授業でのグループ行動。校外学習、球技大会に文化祭。夏休みには皆で遊びにいったりと、五人で仲良くやれていた。
少なくともはるひはそう思っていた。
萌も優香も未来も、悪い子ではなかった。
直情的であったり良い意味でも悪い意味でも女子らしい女子ではあったけれど、友人関係にひびが入るほどではなかった。
たまに萌のはっきりしすぎる物言いにはらはらすることはあったが、それだって別に非難されるほど悪いことではない。まだ一年にも満たない友人関係ではあったけれど、はるひは萌も優香も未来のことも好きだった。
だから、話せば分かってもらえると思ってしまった。
それが間違いだったのだ。
三学期のある日のことだ。登校してきた朱里の挨拶を萌と優香と未来が無視した。
まさか萌たちがそんなことをするとは思わなかったから、最初は挨拶の声が聞こえなかったのかと思った。
一度無視したあと朱里が輪に入るのを拒絶まではしなかったから、今のは三人の会話が弾んでいたから挨拶しそびれたのだろう。そう無理やり理由をつくって納得しようとした。
だがすぐに状況がその考えを否定した。
五人で話しているはずなのに、朱里に話を振らない。朱里の発言に反応しない。分かりやすく話を変える。
どう好意的に解釈しようとしても無理だった。何があったのかは分からなかったが、三人が示し合わせて無視している。
それなのに不思議だった。朱里がいつもと変わらない顔でそこにいたからだ。
彼女が今の状況に気づいていないわけがない。そんな鈍い子ではないことを長年の付き合いで知っている。
それなのに、憤るわけでも悲しむわけでもなく、普通の顔をしてここに居続けているのが奇妙だった。
昼休みまでは、はるひも我慢していた。けれどお弁当を食べ終わって、朱里がお手洗いに行くと言って教室から姿を消した時に「はるはる気づいてるよね?」と萌に聞かれたらもう黙っていられなかった。
「朱里が何かしたの?」
「何かしたっていうか、ねえ?」
「まあ、そうだねえ」
「うん……」
萌と優香は顔を見合わせてくすくす笑っているし、未来は困ったようにしながらも曖昧な返事しかしない。
「朱里が何かしたんだったら、ちゃんと話した方がいいよ。朱里ならそれで分かってくれる。子供じゃないんだから、無視とかやめようよ」
「えー、はるはるってやっぱそういう感じ?」
含み笑いが込められた引っかかる言い方だった。
「そういう感じってなに?」
「良い子ちゃん」
にっこりと綺麗な三日月形の笑顔をつくっていたが、そこに込められているのが好意ではないことが伝わった。
「はるはるのピュアなとこ可愛いとは思うけどさあ」
「お節介なところも良いとこではあるんだけどさあ」
「空気読まずにやりすぎるとちょっとね」
笑顔のまま萌が、スマートフォンをいじりながら優香が、やはり困ったように未来が言った。
「いや、私のことはいいから、」
今、はるひは朱里の話をしていた。はるひが良い子ちゃんだろうがお節介だろうが関係ないはずだ。どうして朱里の話を――。
「はるひ!」
いつの間にか教室に戻ってきていた朱里が険しい顔で近づいてくる。
「ちょっときて」
右腕を乱暴に掴まれて、座っていた椅子から立ちあがらされた。掴まれた右腕が痛い。待ってと何度か言ったのだが、彼女は一顧だにせず進んでいく。
階段をのぼって三階の美術室まで来ると、朱里は部活の時に使う鍵で扉を開け、入室すると内鍵をかけた。
カーテンが閉められた美術室は薄暗く、キャンバスにたてかけられた描きかけの人物画が不気味に見える。その中でカーテンの隙間からもれる光だけがいやに明るくうつった。
「あんなことしなくていいよ」
「で、でも朱里」
無視だなんて子供じみている。高校生がするようなことではない。
結局三人とも何も話さなかったので、何あったのかは分からない。だが正当な理由もなしに彼女たちが行動しているのなら我慢する方がおかしい。
はるひからすれば正当な理由があったとしても肯定出来る行動ではないのだが。
「どうせ今だけだから。どうせすぐ飽きるよ、あの子たち。今なんとなく私が気にくわないって単純な理由で無視してるだけだから、あんなの」
「なんとなくって……」
本当にそうなのであれば、なおさら見逃すことは出来ない。
「はるひ、お願いだから何もしないで。気にしなければいいの。そうすればしばらくの間我慢するだけですぐ終わる。それだって一ヶ月もすれば三人とも無視したことだって忘れると思うよ。あの子たち、単純だから」
その言葉には隠しきれない嫌悪があった。
「朱里……萌たちのこと、」
「好きじゃないよ。でも、はるひあの子たちと仲良くなっちゃうんだもん。この子たちとは合わないなって気づいた時にはもう他のグループできあがっちゃってたから、離れたら一人になるかもしれなかった。だったらちょっと我慢して一緒にいた方がましだよ」
「言ってくれれば良かったのに、そうしたら私だって」
――私だって、なんだろう。朱里のために萌たちから離れた? 朱里と萌たちが上手くいくように気にかけてフォローした?
「はるひには難しいよ。そんな器用なこと出来ないでしょ」
「けど……でも……」
「一番良い方法は、やり過ごすことなんだよ。あと少しでクラス替えだってある。そうすれば関係もリセット出来る。あの子たちと話したって無駄なんだからこれが最善なの」
「ねえ、……朱里。萌たちとちゃんと話したことある? ないんだよね? 一度くらい自分の思ってることちゃんと話してみなよ。お互いに何か誤解してるかもしれないよ」
それまでは人間味の薄いのっぺりとした表情をしていた朱里が、眉をつりあげた。
「はるひはなんにも分かってない! だから今まではるひには言えなかったんだよ!」
激昂しながらも、どこか苦しそうな顔だった。
「はるひはどんな子とでも仲良くなれるのかもしれないけど、私には無理だよ。無理してたの! ずっと! あの子たちが私のことどう思ってるか知ってる? はるひのおまけだよ。はるひの幼馴染だからグループに混ぜてくれてただけ。あの中で私だけ浮いてた! だから少しでも気に触る行動とればこうやって無視されるんだよ」
「私……朱里のことおまけだなんて思ったことないよ」
もっと他に言うべきことがあるはずなのに、口から出たのはそんな言葉だった。
「はるひはそうだろうね。知ってるよそんなこと」
嘲笑うように朱里が言う。
「はるひは凄いよね。誰とでも仲良く出来て、誰からも好かれて、当然のように人に優しく出来る。良い子で、正しくて、私は……こんな私をはるひにだけは知られたくなかった……私、はるひといると自分が惨めになる……!」
逃げるように朱里は美術室から出ていった。
走り去る後姿を追いかけることは出来なかった。心臓の鼓動がばくばくと耳にうるさい。身体の震えが止まらない。足の力が抜けて美術室の冷たい床にぺたりと座りこむ。
知らなかった。気づけなかった。ずっと友達だったのに、そんな子のことすらちゃんと見えていなかった。
自分は何かを間違えた。でもどうすれば良かったんだろう。ただ確かなのは、友達をあんな風に傷つけたはるひは、良い子なんかじゃないってことだ。
薄暗い美術室に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っても、立ち上がることは出来なかった。
その日は、五時間目はサボってしまったが六時間目からは授業に出席した。
多分その間に何かが決まり、萌たちははるひを無視するようになった。当てつけるように朱里と仲良くしながら。
挨拶を無視されることがこれほどまでに辛いだなんて知らなかった。
話しかけても、答えてもらえない。自分が透明人間になったようだった。その中で、朱里とは目が合う。しかし絶対にそらされる。まるで朱里の方が傷ついているような顔をしながら。
無視されても、はるひは萌も優香も未来も、勿論、朱里も嫌いにはなれなかった。これまで過ごしてきた中で見てきた彼女たちの良いところを覚えているからだ。だから話せばいつか分かってもらえる。そう思う気持ちは変わらなかった。
今日こそは、明日こそは、また前のように話せるようになる。そうすれば今度こそ間違えないように努力も出来る。きっと皆と仲直りだって出来るはずだ。
――なのに、ある日急に怖くなった。
今日も、無視されたらどうしよう。明日も明後日もずっと無視され続けたらどうしよう。拒絶され続けて、言葉がたったの一つも届かなかったらどうしよう。
恐怖が自分を一色に染めると布団から出られなくなった。
萌は気分屋だけど、裏表がなくて正直だ。
優香はふわふわと普段は適当だったりするのだが、細かいところまで気を配ってくれる。
未来はクールでそっけないところもあるけど、しっかりしてて頼りがいがある。
彼女たちの良いところを知っている。
一年未満でも友達をしてきた。でも、十二年間も友達をしていた朱里ですら気づけないことばかりだった。
はるひは本当に彼女たちのことを知っているのだろうか。本当は何にも見えてなかったのかもしれない。だからこんなことになったのかもしれない。
これまでずっと嫌々一緒にいたのかもしれない。
どれだけ前向きになろうとしても駄目だった。悪い方悪い方へ思考が流れる。
一度休んでしまうと勇気が削れていくのは早かった。たった一日でも休んでしまうと、もう一度気力を振り絞って教室に行くのは無理だった。無視されても笑顔を保てるとは思えない。
両親には言えなかった。きっと大人は萌たちのしたことを、いじめと判断するだろう。けれどこれはいじめではない。はるひはそう思っている。物を隠されたり、殴られたりはしていない。ただ無視されているだけだ。
個人対複数で無視をすることも普通はいじめになるのだということは理解しているが、それでもこれはいじめではないのだ。だって――。
布団の中で膝を抱えてまるくなりながら、思う。自分がこんなにも弱い人間だったとは知らなかったと。
引きこもっていた数週間をとても長く感じていたが、最後に会った時の記憶と今目の前にいる朱里に、見て分かる変化はなかった。
まるで本当は何も起きていなくて、会えば萌にも優香にも未来にも、朱里にも、笑いかけてもらえると錯覚してしまうほどに。
「久しぶり……あのね……、もう、学校来ても大丈夫だよ。言ったでしょ、どうせそのうち飽きるって。もう、あの子たちすっかり飽きてるから。もう、なんにも気にしていないから。むしろ反省してるっぽいし、はるひのこと心配してるくらいだから。大丈夫だよ」
「……朱里は?」
「え?」
無視されたことも勿論辛かったけれど、一番辛かったのは朱里とのことだった。朱里からも無視されたことではない。はるひといると自分が惨めになると思わせてしまったことが一番辛かった。
朱里のことが好きだ。
人見知りで内弁慶だけど、人の気持ちに敏感で思慮深い。そして朱里はとても綺麗な絵を描くのだ。はるひはその絵が昔からずっと好きで、朱里の目からは世界はこんな風に見えているのかといつも感動していた。その豊かな内面に憧れていた。
自分には朱里のような特技はない。時間を忘れるように没頭出来る趣味もない。だから、憧れた。
「朱里はどう思ってるの、私のこと」
「どうって……」
口ごもった彼女を見たら、大地に分けてもらったはずの勇気がしぼんでいった。
「ごめんなんでもないなんでもない学校もさあもうそろそろ行こうと思ってたんだいやーだらだら出来る生活が最高でつい休んじゃったよ寒い日の二度寝は最高だよね本当もう快適だったうんでもサボるのも飽きたし学校行くよ……だから、気にしないで」
ぺらぺらと自分の意思に反して口が動く。本当はこんなことを言いたいんじゃない。でも、まだ駄目だ。
「え? あの、えと、はるひ……あの、あのね、……私」
「待って朱里。まだ、待って」
何を言われるかなんとなく察しがついたが、まだ駄目だ。
朱里と、萌と優香と未来と会う前にしなくてはならないことがある。
「学校、行くから。その時に話そう。逃げずにちゃんと行くから……待ってて」
「……分かった」
納得してはいなさそうだったが朱里は頷いた。はるひが小さく手を振るとぎゅっと朱里の目元と口元に力が入る。手のひらは爪が食い込みそうなほど握りしめられていた。
それでも言葉を全てのみ込んで「じゃあ」と小さくこぼすと頼りない足取りで去っていく。
路地の角を曲がって姿が見えなくなると、はるひは今度こそシロに話を切り出した。
「シロ、お願い。榊様に会わせて」
「駄目だ」
「お願い! 榊様に聞きたいことがあるの!」
あの時はるひは質問するだけ質問して、答えを聞いていないのだ。
「会わせないとは言っておらん。ただ今日は駄目だ。陽の落ちた神社に人は近づかぬ方が良い」
「それ茶太郎も言ってた」
「だから明日だ。榊様の元へ我が連れていこう」
榊に聞きたいことがある。朱里とのことがあって、萌や優香や未来とのことがあって、佐々木と出会って、佳乃と出会って、大地と出会って、どうしても知りたいことが出来たのだ。
どれだけ考えてもはるひでは答えにたどり着けなかった。だから、聞きたい。あなたは、どうして――。




