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「これは、悩みじゃない。だから解決しなくていいし、感想もいらない……んだけど、誰かに……、話したかったことがあるんだ。……はるひさん、聞いてくれる?」
ここに来て最初に彼を見上げた時に、頼りなげに感じた背中そのもののような声音だった。そこにあるのは足場が見つからないような不安定さだ。
「いいよ」
「つまらないし重いんだけど、いい?」
「女の子の世界で生きてるとどんな話でも良い感じに聞けるようになるから大丈夫だよ」
「すげえな女子」
からっと一度笑うと、彼は話をはじめる。
「俺、小学生までは福島に住んでたんだ。それで……、なんでこっちに引っ越してきたかって話なんだけど。俺は、俺はあんまり覚えてないんだけど、なんかすげえ怖いことがあって、大人が泣いてたり怒ってたりずっと変な空気だったなってそんな程度しか覚えてないんだけど、俺がいたの、震災が、まあまあひどかったとこで、元々の家が住めないところになったからまず最初に県内で一度引っ越した。それで小学生の間はずっと、仮設住宅に住んでた」
「え、」
大地の話によると、はじめはこれから先どうなるか状況が読めず一時避難のはずだったのが、ずるずるとどうしようもないことばかりが起きて、ただ時間が過ぎていった。
戻ることも出来なければ、進むことにもためらいがある中、大地の祖父が亡くなった。
そのタイミングで父親の転勤が決まったことで家族の心の踏ん切りがつき、六年間仮設住宅生活をした末にここに引っ越してきたのだそうだ。
「あ、でもこれについてはこの後に話したいことのために言っただけだから、あんま気にしないでいいよ」
「そうなの?」
はるひからすれば今の話だけで十分衝撃的な内容だったのに。
「だって俺にとってはそれが普通だったから、なんか思われても困る。大変だったんだねとか言われても、俺それにどう返事すればいいの? なんとも思ってねえのに」
彼のその言葉に、佳乃に「どんな答えだったら満足するの?」と言われたことを思い出す。
途方もない苦労を背負った人に対して、無意識に「大変だったけど、でも大丈夫です。前向きに頑張ります」と答えてもらえると勝手に思っている。そういう節はどこかにあるのかもしれない。
だって誰かに「大丈夫?」と問いかけるとき、人はだいたいが相手から大丈夫だと返ってくるものだとどこかで思っている。
「……そうだね」
「それに仮説住宅だってそんなにひどい場所じゃないんだぞ。普通に住めるよ。そりゃじいさんばあさんとか、俺の両親はやっぱり一戸建ての方が良いって言ってたけど、アパートとかとそんなに変わらないと思うんだよな。だいたい住めば都って言うじゃん。人間だって環境に適応するんだよな。なんだかんだ」
誰かの受け売りなのか、らしくない言い回しで説明していたが、途中で急に満面の笑みを浮かべると大地は声を弾ませた。
「そんなことよりさ、仮設住宅って家がずらーっと並んでるんだけど、あれさ、地震の後にたった二ヶ月で作られたんだ! すごくねえ? 俺、それ知ってからちょっと建築関係に興味あるんだよね」
「へえ。設計する方? 実際に作る方?」
「どっちもいいよな! ……でも、設計する方かな」
部活をしても無駄だと言っていたわりに、将来の夢はちゃんとあるらしい。部活も将来の夢も子供からすれば同じ土壌にあるものだ。だというのに矛盾しているところが中学生らしいなと微笑ましい気持ちになる。
「いいじゃん」
「勉強嫌いなんだけどな。ちょっと調べてみたら建築士って資格取るの大変なんだってさ」
「頑張りなよ」
「未来の俺に託す!」
力強く言うのでつい笑ってしまう。ともすれば、深刻な話をすでにしているはずなのに彼の話ぶりにはそれがない。
「本当にそれでなんとかなる?」
「なるなる」
しかし、それまでずっと軽い調子だったのがふっと真剣な表情に変わる。
「……それで、ここからが本題なんだけど、さ」
「うん」
解決も感想もいらないと言っていた話だ。
「おっちゃん……俺の父さんの、友達の話なんだけど。……でかい地震があった時って、危ないから学校の体育館とかに避難するんだけど知ってる?」
「うん、テレビで見たことあるよ」
はるひも東北の震災の頃は小学校低学年だったからそこまで記憶が残っているわけではないのだが、大人がそればかり話していたりニュースで何度も何度も見かけたから断片的に覚えている映像もある。
それに三月になると、毎年ニュース等で特集をやるから、親がリビングで見ているのを一緒に眺めたこともあった。でも、その程度だ。
どこか他人事でどこか遠いところで起きた話。
同じ日本で起きた出来事なのに、新幹線を使えばたった数時間で到着する距離なのに、それでもテレビの中に映されるだけの物事だった。
それが過去、現実に起きたことだと頭では理解している。
震災特集での被災者インタビューを見れば気持ちは動く。
でも、遠い。
自分は当事者ではないという区別が、そこにはあった。
心の中まで自分をごまかすことは出来ない。少し前までなら、そもそも考えもしなかっただろう。でも気づいてしまったら、もう無視することは出来ない。
この世に起きる全ての物事を当事者と同じように悲しみたいわけではない。そんなことは出来ない。
それなのにどうしてだろう、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
無意識の区別がここにも存在していたことに心が俯いたが、淡々とした口調の大地の声が耳に届き全てが吹き飛んだ。
「おっちゃんが避難して、状況が落ち着いて帰ったら、家、燃やされてたんだって」
「え?」
言葉の意味が一つも理解出来なかった。
「火事場泥棒? って言うんだっけ? まあ、この場合は燃やしたのが泥棒の方なわけだけど」
地震の混乱に乗じて、避難のために住人がいなくなった家に泥棒に入り、証拠を隠すためなのかは知らないが家に火を着けて逃げたらしい。
不安定な状況の中で、焼かれた家だけが、残された。
「俺、それ聞いて……、困ってたら誰かが助けてくれるなんて思わない方がいいんだなって、ちょっと、思った」
年下の大地から聞いたからだろうか、その言葉はひどく切なく響いた。
自分ではどうしようもない状況なのに、絶対に誰にも助けてもらえないなら人はどうすればいいのだろう。
誰かが助けてくれるはずだと楽観視しているのではない。だが、誰も助けてはくれないと最初から諦めるのは淋しい気がするのだ。それとも社会は優しくないのが当たり前で助けてもらえないのが普通なのだろうか。
本当にそうなら、悲しいなと思う。
誰かの手を信じたい。そう信じられる世の中であってほしい。甘い考えだとしてもそうであってほしい。けれど苦しい状況の中で、追い落とすような悪意の存在を知ってしまっては信じられなくもなるだろう。
「それって、大地くんは当時の、ちっちゃい頃から、理解してたの?」
「いや、俺はずっと知らなかった。始めて知ったのはこっちに引っ越してくる直前。俺の家が引っ越す前におっちゃんが会いに来て、その時に父さんたちと話してるのを聞いた」
「直接話を聞いたわけじゃないってこと?」
「聞かせてもらえなかったんだよ。子供だからって仲間外れにしやがった。どこかに遊びに行けって父さんに部屋から追い出されたんだ。だから、ムカつくから出かけた振りして隠れて話を聞いてた」
ふてくされたように言うが、両親がそうした気持ちも分からなくもない。仲間外れにされる側からすれば納得いかないとは思うが、引っ越す前ならまだ大地は小学生だ。
「最初は当たり障りない話をしてた。おっちゃんの家はこれからどうするんだとか。でも、最終的にその話に、なって、それで、それでさ」
まるで聞かなければ良かったと後悔するように、大地は本音を吐露する。。
「おっちゃん、話しながら泣いてた。身近な大人の男が泣くのを見たのは二度目だった。……おっちゃんが帰る前に、俺も最後に挨拶しに戻ったんだけど、その時に何を喋ったのか覚えてない。どうしていいか分からなかった。おっちゃんのことだけじゃない、死んだじいちゃんに対してもそうだった。どうしてそんなに執着するんだ。どうしてそんな風に泣くほど悲しいんだって、俺は思っちゃったんだ」
「……え?」
知った内容そのものが自分一人では抱えきれない程に重いものだったから、大地は誰かに話さずにはいられないのだと思っていた。
けれどそうではなかった。人の悩みというものは多面的で表層だけでは測れないのだということを、この時はるひは知ることになった。
「泣けないんだ、俺。じいちゃんもばあちゃんも父さんも母さんもおっちゃんも、皆があれは辛かった大変だった、今でも悲しいって泣く。泣かないにしても暗い顔をする。でも俺はそんな風には思えない。同じような気持ちにはなれない。仕方ねえじゃん。だって、覚えてない。父さんや母さんは、幼稚園の頃にどこに連れていったどこで遊んでたって教えてくれるけど。それだって俺、覚えてない」
大地が誰にも話せなかったのは、それが話しづらい重い出来事だったからではなかった。大地が話せなかったのは、両親のようには悲しいと思えない自分は冷たいのではないか、誰かにそれを知られたら非難されるのではないかと考えていたからだ。
「忘れてんだもん、泣けるわけねえよ。じいちゃんが死んだ時は悲しかった。けど知らない人が死んだって言われても、俺、泣けない」
気持ちを共有出来ない悲しさというのは、理解されにくい類のものだろう。分かりやすい感情の方が人は心を寄せやすい。
分かりやすい悲しさ。分かりやすい不幸。そういうものに惹かれやすい。そして分かりやすさからはいつしか順位が出来ていく。
人は順番を付けたがる。苦労に、悲しさに、苦しさに、幸、不幸に順位を付けて比べたがる。
あの人に比べれば、あの人より自分の方が、相対することで何かを決めたがる。
自分の気持ちは自分だけのもので、誰かと比べることで軽くなるものでも重くなるものでもないはずなのに、そうしてしまう。
きっと大地の気持ちはそうやって比べられた時には、ないがしろにされてしまう気持ちなのだろう。だから、彼はずっと口を開かなかった。
「被災地って言われるのは嫌いだった。あんま覚えてなくても、それでも俺はそこに住んでたんだ。なんだよそれって思ってた。一つ一つちゃんとあるはずの町の名前が、全部被災地って言葉に塗り潰されていくようで嫌だった。でも引っ越して分かった。あっちとこっちじゃ温度差がある。俺と大人たちの間にだって温度差がある」
大地はそれを子供ながらに理解していったのだろう。
自分の悩みは所詮軽いものだ。もっと苦しんでいる人がいる。むしろこの気持ちはその人たちのことをないがしろにするような感情だと。
「それにどんだけ悲しんでたって、時間が過ぎれば気持ちだって変わっていくんだよな。本当は、元の家に帰りたかったんだよ。じいちゃんが一番こだわってたけど、父さんだって母さんだってそうだ。本当は戻りたかった。でも、諦めた。被災したって次の日は来る。一日経って、一ヶ月経って、一年経って、そうしたらもう日常になる。どんな状況だっていつかそうなる」
時間は無情に過ぎていく。誰かの悲しみを中心に世界は回っていない。
いつかは全てが過去になる。そこに感情は介在しない。
いつかは全てが日常になる。悲しみは食べられないのだから、人は進むしかない。
「俺な、本当は分かってんの。俺の、今のこの、部活なんか頑張っても無駄だって気持ちだって所詮今だけのもので、しばらくすれば普通にまた部活に行くようになるんだ」
壊れる時は一瞬だとしても、日常というものは人が思っているよりも強固だ。
人は三百六十五日二十四時間泣き続けることは出来ないし、いつまでも不幸であり続けることは出来ない。自分の意思でそうしなければ不幸に浸かり続けることは出来ない。
語弊がうまれそうな言い方ではあるが、そうなのだ。いつかどこかで選ばなければならない日が来る。
変わり続ける生活の中で大地はそれを自然に学んでしまった。
「もやもやして、でもどこにぶつけていいのかも分からなくて、どうすればいいのか分かんなくて。気持ちが自分でもどうしようもなくて、説明もなしに部活サボって、部員に迷惑かけてまでこんなことしてるけど……いつかは今感じてるこの足の裏がすかすかしてる感覚もきっと忘れる。なんともなくなる日が来る。知ってるんだ、ちゃんと」
紺色の空を大地は見上げる。空にはかすかに星が浮かんでいた。街灯によってここからだと星はあまりよく見えない。
はるひの知らない星が綺麗に輝く空を、彼は知っているのだろうか。
それはどれほど綺麗なのだろう。
大地が見たいのは、どこから見えていた景色なのだろう。
もしかしたら記憶にも残っていない何かをここで探していたのかもしれない。
大地は、大人だ。はるひよりもずっと。
自分の感情をきちんと自分で抱えて、自分でどうにか消化しようとしている。誰にも相談せずにたった一人で折り合いをつけるために、ここにいたのだ。




