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「シロ?」

「何日も引きこもりおって、招かれねば我は家には入れぬのだぞ」

 ふわふわの白い毛玉に呆れたようなため息をつかれる。

「なんでここに」

 役目を放り投げたはるひにもう用はないはずだ。そしてもうこちらから榊たちを訪ねることは出来ない。だから二度と会えないと思っていたのに。

「茶太郎についてくるなと言ったのはお前だろう。そのせいで我が動くことになったのだぞ。まあ確かに、あ奴は繊細さに欠けるところがあるから、ナーバスな時には一緒にいたくないという気持ちは分からないでもないがな」

「そうじゃ、なくて……」

 急速に後悔が膨らんでいった。

 茶太郎はあの時、どう思ったのだろう。

 どうしてシロはここにいるのだろう。本当に茶太郎についてくるなと言ったから代わりに来たのか。

「なにしてんの?」

 沈む思考を引きあげるように、今度は頭上から声がかかった。

 鉄を叩く硬質な高い音を鳴らしながら、男の子がジャングルジムからおりてくる。

「それ独り言? 犬と喋ってんの?」

 男の子は、少しだけはるひより身長が高かった。

 坊主ではないけれど髪が短い、運動部っぽい見た目をしている。

「いや、あのですね……、犬と……喋ってました……」

 動揺でつい敬語になってしまった。

「ペット飼ってる人ってたまに犬とか猫に普通に話しかけてるけど、外で一人でそれやると不審者だから気をつけた方がいいんじゃない? やばい人かと思った」

「不審者ですみません……」

 大きな声で独り言をつぶやく女よりはマシかと思ったのだが、どちらにしろ不審者認定された。だが男の子は不審者だと言ったわりには気にした様子もなく、ぽんぽん疑問を投げかけてくる。

「あんた見かけたことないけど、ここら辺の人? 犬の散歩してたの?」

「そ、そうだよ。君は何してるの。毎日そこにいるよね」

「なんでそれ知ってんの?」

 少し怖がるようにして、男の子ははるひから距離を取った。

「私の部屋の窓からここ見えるの! 見ようとして見てたわけじゃないから!」

 不審者に続いてストーカー認定までされそうになり、慌てて弁明する。誤解なのにいくらなんでも不名誉すぎる。

「なんだ、じゃあまじで近所じゃん」

「でも会ったことないよね。中学何年生?」

 中学生になると部活が同じでもなければ他学年との交流はなくなるが、小学生の頃なら別だ。

 学年が違っていても、近所に住んでいる子と班登校であったり、地区のイベントなどで自然に面識が出来る。

 彼が中学生ならはるひとは最大でも三歳差のはずだから、本来なら知っている子のはずだった。

 けれど、どれだけ記憶をひっくり返しても彼の顔に見覚えがない。

「二年。でも俺、中学になってからここに引っ越してきたから知らなくて当然じゃね? あんたは?」

「そっか、引っ越してきたんだ。私は高校一年生。あと、あんたじゃなくてはるひ」

 最近、小娘だのお前だのあんただの呼ばれ方がひどい気がする。主にそれは某ポメラニアンたちのせいだが。

「はるひさんね、俺、井戸川大地。よろしく」

「よろしく。で、そこで何してたの?」

 引っ越してきたばかりで知り合いがいないならともかく、二年近く経っているのなら友達も出来ただろう。なのに今になってどうして彼は寄る辺のない様子で毎日一人でここにいたのだろう。

 大地はコミュニケーションが苦手なタイプには見えない。むしろ転校してもすぐ友達を作れそうだ。

「あー。暇つぶし?」

「暇……。大地くん運動部っぽいけど、二年生なら今の時間はまだ部活あるんじゃないの?」

「まあな。そうだけど、でもなんか、もういいかなって思って」

「何が?」

「やっても意味ないなって思ってさ」

「……そう」

 ふっと佳乃の顔が脳裏をよぎった。

 前までなら、大地の発言に対して、どういうこと? とためらいなく聞いていただろう。けれどもうはるひは短絡的に疑問を投げかけることは出来ない。

「はるひさんは? 高校生だって今の時間はまだ部活やってんじゃないの? それとも高校って部活やんなくてもいいの?」

 自分への問いにはもう答え終わったとでもいうように大地は矛先をはるひに向けた。

「友達に頼まれて美術部には入ってるけど幽霊部員だよ」

「はるひさん絵描けなさそうなのに美術部なんだ」

「そんなことは……あるけど」

 一体どんな偏見だと反論したかったが、残念なことにはるひは犬を描いたはずなのに友達に豚? と聞かれる画力だった。

「中学の頃は?」

「バレー部だよ」

「うわ女バレってめちゃめちゃ厳しいじゃん。なんで高校だとバレーやんなかったの?」

「めちゃめちゃ厳しかったからだよ。もう部活は中学の頃だけでお腹いっぱい」

 中学時代に在籍していた女子バレー部は、強豪ではないが、地区大会は突破出来る程度にはびっしり練習していた。

 友達が入るからという気楽な理由で入部したのだが、そのせいで夏休みもなければ冬休みもない中学生活を送る羽目になった。

 まあ、それだけ厳しい練習があっても、はるひの代だと中学三年生の時の引退試合では地区大会の二回戦で敗北してしまったのだが。

 負けたからというわけではないが、引退の時にはもうバレーは中学までだと思っていたし、高校生になって新入生向けの部活紹介を色々見ても、何かしらの部活を頑張ろうという気持ちにはならなかった。

「ふうん。やっぱ、そうか」

 無邪気で、からっとしたタイプに見えるのに、彼は時折中学生らしくない顔をする。

 どこかつまらなそうというか、投げやりな感じだ。

「なんか……こう、大地くん、さ、……悩みとか、ある感じなの?」

 一度は踏みとどまったのに、結局聞いてしまった。

 自分に呆れるが、でも気づかなかったふりをすることは出来ないのだ。

 見なかったふり、聞かなかったふり、気づかなかったふりというのは、はるひが一番苦手なことだ。

「はるひさん聞いてくれんの?」

「……大地くんが話したいなら」

 窓から大地を見かけるたびに、考えていた。

 彼はどうして一人であそこにいるんだろう。何のためにあそこにいるんだろう。

 そしてこうも思っていた――もしかしたら彼と話すことで、ほどき方が分からない悩みの解決の糸口を掴めるのではないかと。

「今月の最初の方にさ、ちょっとでかめの地震あったの覚えてる?」

「地震? ああ、あったねそういえば」

 二月の、確か最初の週のことだ。

 東北で震度五。関東近郊でも震度三のわりには怖い揺れの地震があった。が、もうすっかり忘れていた。

「まあ、忘れるか。それで、うーん、なんて言えばいいんだろ」

 じっとしているのが居心地悪いのか、大地は話しながらジャングルジムにのぼったりおりたりしている。

「俺はその時にさ、急に足の裏がすかすかして、あれ? ってなった」

 ジャングルジムを三段目まで大地はのぼった。そこまでのぼられてしまうと見上げないと様子が伺えない。

 彼を追いかけることで目に入ってきた夕日は更に傾いていて、空は焼かれているように赤かった。

「地震とか津波とか台風とか、あと病気とか? そういうのってさ、やばいのに巻き込まれたら自分じゃ、しかも未成年だともうどうしようもないじゃん。普通のことすら普通に出来なくなるんだから」

「……うん」

「で、そういう時に部活なんて出来ると思う?」

「出来ない、よね」

「うん、それで思ったんだよな。どんだけ部活頑張っても俺の頑張りじゃどうしようもないところで何かがあったら全部無駄になる。だったらそもそもさ、頑張らない方がいいじゃん。疲れるし」

「それは、」

 大地の考えは少し極端すぎる気がした。起きるかも分からない事態を想定してそれを理由に怠けると言っているように聞こえてしまったからだ。

 大人からすれば部活なんて人生において重大ではないと思うかもしれないが、中学生にとって部活の存在は大きい。運動部なら尚更だろう。

 そもそも、この間の地震は確かにいつもより規模が大きかったが、どうしてそこまでの不安に陥ったのだろう。――ああ、そうだ。彼は多分何かがとても不安なのだ。

「言いたいことあるなら言っていいよ」

 促されても、心理的ブレーキが言葉を喉で止める。

 迷いながらちらりと横目で大地を見ると、ばちりと目が合った。

 早く話しなよとでも言いたげな表情に背中を押されて、口を開く。

「もしも何も起こらなかった時に……後悔、しない?」

「めちゃめちゃ正論だな」

 お腹の中がぎゅっと縮まったような気がした。また間違えるのではないかと思うと会話が怖くなる。

「はるひさんは、俺のこの感じ、中二病って笑う?」

「笑わないよ。どうしてそう思うの?」

 萎縮するこちらをよそに、大地はフラットに質問してきた。

 中二病と称される良くも悪くもこじらせたタイプのものと彼の悩みは種類が違う気がする。

「いやでもネットとかだとそうじゃん、人を馬鹿にして笑うやつばっか。うっぜえ」

「ネットはネットでしょ」

 暴言としか思えないネットに飛び交う過激な言葉の大半は、面と向かって直接言えるものではないだろうとはるひは思っている。

「ネットだってそれを書いてるのは誰か個人じゃん。だったら少なくない人数の「誰か」はそう思ってるんだろ?」

「そうかもしれないけど、でもそれだって一部だよ。皆が皆ってわけではないと思う」

「……はるひさんは、なんかめちゃめちゃ良い人なんだな。それが普通っていうか」

 自分は良い人ではない。しかし、否定するのもおかしい気がして曖昧に笑った。

「なんとなく俺は、はるひさんみたいな人の方が少数派な気がするんだよね」

「そんなことないよ。……多分」

「そんなことあるよ。多分さっき話した内容をネットにでも書き込めば、あー、はいはい青いね。とか、こじらせてる。とかどうせ言われるよ。俺が中学生ってだけで馬鹿にされる気がする。ただ、たまたま俺より早くうまれただけのくせに、なんで年上ってあんな偉そうなんだろうな」

 そう言うと大地はジャングルジムのてっぺんまでのぼっていった。

「ここまでのぼれる?」

「え! のぼらなきゃ駄目?」

「ここから話すの大変だからのぼれるならのぼって」

 シロを置いていくことになってしまうなと思って視線を向けると、促すようにこくりと頷かれた。大地の方を先に片付けろということだろう。

 ジャングルジムをのぼるのなんて小学生以来だ。ジーパンで良かった。スカートでのぼるのは周りに人がいなくてもちょっと気になってしまう。

 冷たい風にさらされているジャングルジムは手で触れると熱を奪われる冷たさだった。

 鉄の棒に足をかけてのぼっていく。引きこもっていたせいで、たったこれだけの動作で息があがった。だがそのおかげで奪われた体温がすぐに戻ってくる。

 てっぺんまでたどり着くと、もう消えてしまいそうな夕日が綺麗に見えた。細い光がまぶしい。空の裾は紫色に変わっている。

 ジャングルジムくらいの高さでは何か特別なものが見えるわけでもないと思っていたけれど、視点が変わると見えるものは結構変わるようだ。

 手のひらを嗅ぐと鉄の匂いがした。良い匂いではないけれど、昔遊んでいた時に当然のようにあった懐かしい匂いだ。

「のぼれたじゃん」

「なんとかね……ここから何か見えるの?」

「言っただろ暇つぶしだって。何も見えないよ。何もない」

 何もないと言うわりに、大地はここに固執している気がする。そうでなければ毎日は来ないはずだ。

「ジャングルジムとか久しぶりにのぼったよ」

「俺だって久しぶりだったよ。中学あがってから公園で遊んだりしないし。なあ、高校生って何して遊んでんの? 部活ないと暇なんだよな」

「何って、買い物とかカラオケとか……、は、まあお小遣いと相談だけど。あとは、場所は色々だけどとにかくお喋りしてるかな?」

「参考にならねえ……。女子ってなんかずっと話してるよな、そんな話すことってある?」

「色々あるんだよ、気づいたら時間経ってるもん」

 眉間に皺を寄せて大地は理解出来ないという顔をする。

「大地くん、それだと彼女出来ても振られちゃいそうだよ」

「え、まじ? なんで?」

 不安定な場所なのに大地が距離を詰めてきた。落ちるのではないかと焦ったが、器用にバランスを取っていて問題はなさそうだ。

「彼女が興味ない話してたらつまらなさそうな顔しそうだもん」

「なんだそれ。どんな話でもにこにこ聞いてやらなきゃ駄目なわけ? 面倒くせえ」

「それだよそれ。にこにこしなくてもいいけど、せめて聞き流さない方がいいよ」

「はるひさん、彼氏いるの?」

「…………いないけど」

「いねえんじゃん! それでアドバイスすんなよな」

 大地はそう言うとけらけら笑った。あんまり笑うからちょっとむっとする。

「いないけど! 思うことは多分同じだもん!」

「はいはい。分かりました気をつけますよ」

「絶対思ってないよねそれ」

「まあな。てかはるひさん、俺に彼女いない前提で話したよな、失礼じゃね?」

「彼女いたらさすがに毎日ここにはいないでしょ」

「それは……そうかも」

 話が途切れると、互いに様子を伺うような沈黙が二人の間に訪れた。

 打ち明け話をするためにわざわざジャングルジムにのぼったのだと思ったのだが、さっきから雑談しかしていない。

 もう一度こちらから話を促した方がいいのだろうか――と、悩んでいると夕方のチャイムが流れる。

 チャイムの音と共に帰宅するような年齢ではなくなったのに、どうしてか聞き慣れたこの音楽が流れると帰らなくてはという気持ちになった。

「大地くんは何時までここにいるの?」

「そろそろ帰るよ」

 帰ると言いながらも大地が動く様子はない。

 春まであと少しといえども二月はまだ寒い。ジャングルジムの上は特に風が冷たくて、いつまでもこんなところにいたら体調を崩してしまいそうだ。

 もしかしてただのぼりたかっただけなのだろうかと、指先を自分の息で温めながら考えた頃。ぽつりとこぼすように大地が口を開いた。

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