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伯爵令嬢は喋る白猫を追い求める。

作者: 烏夜 ほどろ

厳粛な空気が漂う聖堂に清らかな白いドレスを纏い、金糸をあしらったロングベールを被った女が一人。隣には、真っ白いタキシードを身に着けた男が一人。互いに白を纏った男女の前には、高位を表す祭服に身を包んだ老年の神官。神官の口から紡がれる祝詞に耳を傾けるは、背後に控える紳士、淑女の貴族たち。


主役である女の顔には笑顔はなく、代わりに浮かんでいるのは怯え竦んだ恐怖の色。

主役である男の顔にも笑顔はなく、代わりに浮かんでいるのは苛立ち忌々しげな憎悪の色。


厳かな雰囲気は漂うも、甘い空気は一切ないそれは、サミュエル・フェルトロンド侯爵令息とヴェロニカ・コンシエルト伯爵令嬢の結婚式であった。









豪奢な純白のドレスと大粒の宝石。周りを見渡せば、高位貴族の揃い踏み。教会の中央に控えるは、最高位神官。高価なドレスに、晴れの舞台に相応しい招待客と、式を執り行うにふさわしい神官。それだけをみれば、これから始まる結婚式は祝福されたものだと感じるだろう。それだけを見るならば、だが。


とあるご婦人は、教会に足を踏み入れチラリと辺りをうかがったあと、扇で口許を隠しつつ、眉を潜めた。


まあぁぁ、なんて、ひどい。よくこんな式を挙げようと思ったわねぇ?


侯爵家より招待状が届いた時分から、ご婦人はとある懸念を抱いていた。そして、実際に出席し、自身の考えが的中したことに心の内で渋面を作った。


表向きには、深窓の令嬢と今をときめく貴公子との相思相愛の幸せな結婚式。しかし、実際のところは気弱なおとなしい令嬢と女性関係が爛れている放蕩令息との身売りのような政略結婚。


ふふっ、侯爵家はどれほどの金を積んで令嬢を買ったのかしら?令嬢の生家はどんな気分で、娘を売りに出したのかしら?ふふふ、本当に最低だわ。


ご婦人は、微笑みを浮かべながらも、怒りでお腹のなかは煮えたぎっていた。主に侯爵家と伯爵家の所業について。そして、花嫁となる娘のことを思い心を痛めた。


花嫁となる娘ヴェロニカ・コンシエルトは、コンシエルト伯爵家の長女にして、とてもおとなしく気弱な令嬢として社交界では有名だった。というのも、コンシエルト家次女のフローラ・コンシエルトが、社交界に全く出てこない姉を内気で引っ込み思案のため、社交界に参加するのを拒んでいると発言したためだが。そのため、実際のヴェロニカ・コンシエルトを知る者はいなかった。


ご婦人自身も、社交界でコンシエルト伯爵家のヴェロニカを目にすることはなく、ある時までは、実のところの彼女を知ることはなかった。


だが、偶然にも彼女と言葉を交わす機会があった。




伯爵令嬢らしからぬ質素な衣服をまとった姿でメイドと思われる無表情な娘を連れていた彼女は、困っていたご婦人に声をかけてきた。はじめはおどおどと弱々しく声をかけてきた娘を不審に思い、そげなく助けを断った。

しかしそれでも彼女は引かず、蚊の鳴くような小さな声でコンシエルト伯爵家の者だと身分を明かした。


ご婦人自身もヴェロニカ・コンシエルトという社交界にも出てこない変わり者の令嬢の話は有名で名は知っていたが、姿を見たことはなく事実どうか判断が付かなかったが、耳を傾ける気にはなった。

ヴェロニカ・コンシエルトと名乗った娘は、自信なさげにご婦人へ解決案を提示し、瞬く間に問題を解決へと導いた。


ご婦人は驚きと共に、この娘が真実コンシエルト伯爵家の娘ならば、社交界の噂はあながち間違いではなかったのねと思ったのだった。おどおどとして、気弱な態度に、自信のなさが前面に出ている言葉の数々は、内気で引っ込み思案との評価は正しいと言わざる負えない。

しかし、それを補って余りあるほどの、聡明さと他人を思いやれる優しさを有している娘。


この聡明な娘が、貴族として致命的な悪評を立てられる振る舞いをするかしらともご婦人は思った。


貴族として、人脈は命。その人脈をつくる社交界という場へ出ないなどという、どう考えてもデメリットしかないことを人が怖い嫌だからと拒否するかしらと疑念がよぎる。

たしかに、内気でおとなしい娘だが、人が怖い、嫌だと思っていればそもそも困っている人間に声をかけるなどしないでしょうし、これはコンシエルト伯爵家はきな臭いわねと、ご婦人は内心顔をしかめた。


そして、自称ヴェロニカ・コンシエルトと名乗る娘に礼を告げ、いつか必ず助けになることを半ば強引に約束を取り付け別れた後、コンシエルト伯爵家並びにヴェロニカ・コンシエルトという娘を調べるように控えていた執事に指示を出した。


指示を出し執事から届いたのは、穏やかで麗しいと評判のご婦人が般若の形相へと変わってしまうような結果報告書であった。




ふふふふふふ、コンシエルト伯爵家とフェルトロンド侯爵家、どう料理してやろうかしら?


高貴なご婦人、社交界の花、王国の王妃たるオリヴィアーナ・ステラは、タキシ-ドに身を包み花嫁に一瞥もしない男を見据えながら、おなかの中は真っ黒に微笑んだ。









とある高貴なご婦人が真っ黒な笑みを浮かべる少し前。


今日の良き日に結婚式を挙げようと今か今かと待ちわびている侯爵家の面々を尻目に、式の主役の一人である男は、しかめっ面でクッションがよくきいた華美な椅子にふんぞり返っていた。


男の名前はサミュエル・フェルトロンド。侯爵家の嫡男にして、これから式を挙げる花婿であった。とてもではないが、これから結婚式を挙げる男とは思えない顔つきである彼は、その顔にでている表情そのままの心持ちであった。

サミュエルは、内心あんな女との結婚なんぞふざけるなと怒鳴りだしたい気持ちでいっぱいだった。しかし、現フェルトロンド侯爵であり、自身の父から告げられて言葉を思い出し、ぎりりと奥歯を噛み締めた。




「父上、妻に迎えたい女性がいるのです」


それは結婚式が執り行われる三か月前のこと。よく晴れた気持ちがよい青空が広がる午後のティ-タイム、フェルトロンド侯爵の執務室でのこと。サミュエルは父侯爵へ、明るく言い放った。


「ほぉ、お前もようやくただ一人の女性を見つけたか」


侯爵は目を通していた書類から目をあげ、息子へ笑みを浮かべた。


「はい!とても素晴らしい女性なのです!」


「ふむ。お前の心を射止めた女性はどこのご令嬢だ?」


「あ、父上。貴族家の令嬢ではないのです。少数民族の踊子なのですが、とても麗しく心優しく、こんな魅力的な女性は他に知りません!」


「……。……お前は本気で言っているのか?」


「父上?」


サミュエルが声をかけると父侯爵はそれは大きなため息をこぼし、頭を抱えた。そして、ベルを鳴らし執事を呼んだ。


「ジェイコブ、今すぐ侯爵家以下の貴族家で未婚の令嬢がいる家を調べろ。もちろん、こちらの要求を断れない家だ」


「かしこまりました。旦那様」


目の前で行われたやり取りに頭がついていかないサミュエルが、問いかけようした時かぶせるように侯爵が厳かに告げた。


「お前が希望している女との結婚は認めない」


「な!なぜですか!父上!」


息子の言葉に呆れと怒りをにじませた侯爵が、厳しくサミュエルを見据えた。


「なぜ、だと?そんなこともわからないのか!ようやく女遊びが収まったと思ったら、平民のそれも少数民族の踊子と結婚したい、だと!ふざけるのも大概にしろ!」


「な!私は彼女と出会い、本当の愛を知ったのです!」


「はっ!散々あちこちの貴族令嬢に手を出し、浮名を流し醜聞を作っておいて最終的に選んだ相手が貴族ではない女だと!それならば、最初から平民とだけ乳繰り合っていればいいものを、お前は!どれだけの家に根回しや手を回したと思っている!」


「そ、それは……」


「お前には、貴族の血が流れた嫁を用意する。妻になる女性は貴族以外は認めない。跡取りとなる子供も同様だ。貴族の血を引いた子でなければ認めん」


「そ、そんな!父上!」


「くどい!なぜ、今までお前の女遊びを止めなかったと思っている!どこぞの令嬢を妻に選ぶと思っていたからだ!平民のそれも少数民族の踊子なんぞ卑しい血を我が侯爵家へ混ぜることは許さん!その女をどうしても望むのならば、妾とし囲うことは許そう。だが、それも妻との子をもうけてからだ!」


「父上!」


「お前のことだ、そうでもしないと迎え入れた嫁に指一本触れていないにも関わらず、子ができないことを理由に、妾の子を跡取りにと言い出しかねん」


ぐっと押し黙り返す言葉がないサミュエルを見た侯爵は、自身の考えは正しかったと確信を得たように眼光を鋭くし息子に出ていくように告げた。




そして、そんなやり取りをした一か月後にサミュエルの結婚相手は決まった。相手の名前はヴェロニカ・コンシエルト。伯爵家の長女にあたる娘だった。そして、社交界に出ることもできないような欠陥品。


サミュエル自身も、おとなしく気弱な令嬢という話しか聞いたことがなく、その姿を目にしたものもいないという。実在するのかどうかすらも怪しんでいたそんな女が、自分の妻になるという。


ふざけるな!


話を聞き、まず思ったのはその一言だった。なんで自分がそんな貴族として出来が悪いどころではない女と結婚しなければいけないのだと。ただでさえ、愛する女性以外と結婚することに納得していないにも関わらず、妻になるのが失敗作の貴族なんぞ認められるわけがない。


父侯爵に抗議するも意に返されず。それでも食い下がれば、今まで弄んできた女が多すぎた自分の行いを顧みろとどやされる。


どうにかできないものかと、あがいていればあっという間に式当日。


サミュエルにできたことと言えば、ヴェロニカ・コンシエルトがなぜ自分の嫁にあてがわれたのか、その経緯を知ることのみ。といっても、そんなに複雑な経緯があったわけではなく。借金で首が回らなくなったコンシエルト伯爵家が、借金の肩代わりに役立たずな娘を侯爵家へ売り払ったという、そんなちんけで簡単な事情のみ。


はははっ。本当にくだらない。こんな式、挙げる意味もない。


建前ばかりの式を嘲るも、整ってしまった舞台に出ないという選択肢はなく。高位貴族が席を埋め、神官が待ち受ける聖壇前へ歩を進める。


しばらくすると、後追うように扉が開き、足音二つ。妻となる女の姿を目に入れるのも腹立たしく、振り向きもせず舌打ちすると、殺気が一つ。


思わず振り向けば、純白のドレスの女が一人。表情はみえずとも、体の震えは見て取れて。感じた殺気もなんのその。ふつふつとした怒りがこみ上げた。


絶対にこの女には俺の愛は与えない。


愛の誓いの代わりに、憎悪を込めて。サミュエル・フェルトロンドは誓約を交わした。








鏡の前に立つ麗しいあるじを見て、メイドはほうと感嘆のため息をついた。艶めく濡れ羽色の御髪に、知性を秘めた深海の瞳。今日も今日とて我があるじさまは美しいとメイドであるメアリ-ジュンは思った。

そして、これから我があるじさまへ身につけさせねばならぬ、純白のドレスを見やり、嫌な気持ちになった。


今日は我が最愛のあるじさまの結婚式。本来であればとても喜ばしいはずではあるが、メアリ-ジュンにとっては最悪以外の言葉はなかった。というのも、この結婚式。あるじさまの意思は一切無視の身売りのような政略結婚だからだ。


あるじさま曰く


「まぁ、決まってしまったものは仕方がない」


とのことだが、納得できるかは別である。メアリ-ジュンの心のうちとしては、暴風雨。結婚が決まってからは、終始暴風雨が吹き荒れている状態である。そんなメアリ-ジュンの心情を正しく理解しているあるじさまは宥めるように


「メアリ-ジュン、この結婚はね、私にとっても益のあることなんだ。だから、いつまでも不機嫌な顔をしないでおくれ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」


なんて、メアリ-ジュンの心をキュンとさせることを言うものだから、彼女の暴風雨も少々和らいでいた。もちろん、結婚式当日は、同じような、いや、それ以上の嵐が吹き荒れていたのだが。それはもうどうすることもできないことであった。


「お嬢様、ドレスはいかがいたしましょう?」


「どういう、こと、かしら?」


「侯爵家の皆々様が準備くださったこちらのドレスですが、お嬢様には幾分緩い仕立てになっているようでして」


「そう。わたくしでは、身に着けることはできない、かしら……」


あるじさまが眉を下げ、困ったような表情を作った。その姿を見て、侯爵家の侍女たちはうっすらと、笑みを浮かべた。


くだらないことを。


メアリ-ジュンの中で静かに怒りの炎が燃え上がる。表情にはおくびに出さぬまま、笑みを浮かべた侍女たちの顔を脳に刻みこんだ。


「とんでもございません。お嬢様。このメアリ-ジュンにお任せください」


あるじさまにドレスを纏ってもらい、急いで調整を始める。


我が愛すべきあるじさまに、恥をかかせるなどありえない。


侯爵家の使えない侍女が呆気にとられる姿を無視し、メアリ-ジュンはあるじさまがより輝くようにドレスに手を加えた。

体のラインに沿うように、調整するのはもちろんのこと、豪奢なだけの野暮ったいドレスが少しでも美しくあるじさまを彩るようにアレンジを施した。


ドレスがだいぶ見られるものに仕上がり、続いてヘアメイクに取り掛かろうと宝飾品の準備を侍女に頼めば、運ばれてきたものは二流三流の宝石たち。大粒ではあるがその輝きは、一級品と比べれば屑石と言っても過言ではない。


どれだけ、あるじさまを嘲れば気が済むのだろう。これならば、宝飾品をつけないほうが美しくみえるのでは?


真剣にそんな考えが浮かんだメアリ-ジュンに、か細い声が聞こえた。


「あ、あの、わたくしには、もったいないぐらい綺麗な宝石を、ありがとう」


そう言って、侯爵家の無能共に儚い笑顔を向ける美しい令嬢が鏡に映っていた。


そんな言葉を聞けば、どう行動するのを我があるじさまが望んでいるか火を見るよりも明らかだった。メアリ-ジュンは眉根を寄せつつ、あるじさまに宝飾品をつける。それでも、最後の抵抗として、宝飾品があるじさまを映えさせるように飾り付けた。



準備はすべて整い、胸糞悪い結婚式の幕が上がる。


メアリ-ジュンはそっと目立たぬように気配を消し、父伯爵と共にバージンロ-ドを歩いているあるじさまの後ろ姿を目で追った。その先で控えている新郎であるサミュエル・フェルトロンドは、あるじさまが入場していることをわかっているはずなのに、振り向きもしない。


思わず殺気立つと、サミュエル・フェルトロンドも気が付いたのか驚いたように振り向いた。そして、あるじさまに目を止める。うつむいたあるじさまを少し眺めて、忌々しそうな表情を向けた。


そこからは、形式的な誓いを宣べ、結婚証明書へとサインをし、恙なく式は終了した。見た目だけは、豪華に取り繕い、祝福しているような体裁を保っていたが、なんとも味気ない建前だということが透けて見える寒々しい式であった。


式終了後は早々にお開きとなり、伯爵家の面々は足早に馬車へ、侯爵家の面々もあれよという間に邸宅へと戻り、妻となったはずのあるじさまのみが、ポツンと取り残された。


この扱いにメアリ-ジュンが憤怒し、あるじさまへと近づこうとしていたところ、侯爵家の侍女たちが現れ、あるじさまをどこぞへとせわしなく駆り立てた。


あるじさまが連れていかれたのは、侯爵家の主寝室。ぽいっと侍女たちから部屋へ投げ込まれたあるじさまへ続こうとしたところへ、サミュエル・フェルトロンドが足音荒く主寝室へと入り込んだ。


そこからは、聞くに堪えない暴言の数々。あるじさまの悲鳴に、部屋に押し入ってみれば、涙を流すあるじさまに、ゲスい笑みを浮かべたサミュエル・フェルトロンド。




……例え、()()()()()()()()()()()、こんな光景は見たくないです。あるじさま。


ヴェロニカ・コンシエルト伯爵令嬢の真実を知るメイド、メアリ-ジュンの心の底からの思いだった。








後ろからは貴族たちの視線、隣からはイライラとした空気。ベール越しに見えるのは、荘厳な細やかな彫刻を施された聖堂。

朗々と宣誓の言葉を宣べる神官を前にして、いい声で朗読するな、と花嫁であるヴェロニカ・コンシエルトは一人感心していた。



ヴェロニカ・コンシエルト。伯爵家の長女にして、社交界嫌いの変わり者。貴族として欠陥品。性格はおとなしく内気で気弱。しかし、その性格は実の妹であるフロ-ラ・コンシエルトが、社交界で話した姉の姿であり、実際の所は誰も知りえない。その姿さえも、知られていないある意味、深窓の令嬢。


というのが、世間一般で言われているヴェロニカ・コンシエルト伯爵令嬢の姿であった。

しかし本当のところは、彼女自身が作り上げた虚妄の姿なのだが。




ヴェロニカは建前だけの空しい結婚式を挙げた後、主寝室へと投げ込まれた。そして、さほど間をあけず、夫となったばかりのサミュエルがノックもせずに荒々しく入り込んできた。

その表情は憎々しげな気持ちを隠しもしていない。


つい先ほど、形だけとはいえ妻になった女に向ける表情ではないな、とヴェロニカは内心呆れつつ、サミュエルには怯えている令嬢に見えるよう装った。


プルプルと体を震わせ、顔をうつむけながら両手を胸の前で祈るように組むヴェロニカは、どこからどうみても、夫に怯える新妻にしか見えない。


そんなヴェロニカの怯えた態度で少し溜飲が下がったのか、サミュエルの憎しみの籠った目が僅かに変わった。眉間に不快シワを刻みつつも、瞳には嗜虐的な色とほの暗い欲望が浮かんでいる。視線は頭から爪先まで、一度滑った後に、胸と腰をじっとりと眺め回した。


本命の女がいると公言している身で、違う女に欲をはらんだ視線を向けるなど、なんとも気持ちが悪い男だ、とヴェロニカのサミュエルに対する評価は底辺から更に下方へと食い込んだ。


「分かっていると思うが、お前と結婚したのは我が侯爵家に貴族の血を引いた跡取りが必要だったからだ。お前に私の愛情はやらんが、子だけはしっかり孕め。それがお前の義務だ。後は好きにしろ。だが、我が侯爵家の権力を振りかざすような行いや、財産を食い潰すことは許さない」


真正の屑だな。


それ以外の感想はヴェロニカには浮かばなかった。

この夫。夫と呼ぶにも烏滸がましい屑は、どうやら嫁いだばかりの妻を孕み袋か何かと思っているようだと、ヴェロニカは理解した。


ヴェロニカは、お前は妻を家畜か、なにかだと思っているのか?と思わず口に出しそうになるのを口許を抑え、済んでのところで堪える。


もちろん、夫の言葉にショックを受けて、口許を抑えたように見えるように、目元に涙を浮かべるモーションも忘れない。


そんなヴェロニカの様子に、更に気をよくしたのかサミュエルはニタリと笑みを浮かべた。それは、それは、嫌悪しか感じない不愉快な笑みだった。


ニタニタとゲスい笑みを浮かべながら、サミュエルはヴェロニカへとゆっくりと近づいてきた。それに合わせて、ヴェロニカは後ろにあるベッドへ表情を歪ませながらジリジリと後ずさる。


まるで、獲物をいたぶることを楽しむ獣のような行動に、ヴェロニカは呆れを通り越し、虚無になった。


とんっとヴェロニカの踵がベッドにつく。それを見たサミュエルはニタァと吐き気を覚える笑みを浮かべた。


そこで、ヴェロニカは半狂乱を起こしたように、悲鳴を上げた。もちろん、大粒の涙も忘れない。


「あっ、あ、あ、ぃや、いや、いやぁぁぁぁ」


「お嬢様!!」


焦ったような声色と共に勢いよく主寝室の扉が開いた。

入ってきたのは、ヴェロニカの生家より連れてきたメイド、メアリージュンだった。


メアリージュンは、慌てた様子でヴェロニカの元へ駆け寄った。


「お嬢様!!大丈夫ですか!」


驚き呆気にとられていたサミュエルは、メアリージュンの凛とした声で正気に返ったのか、顔を真っ赤にして怒り出した。


「お前!メイドの分際で、どこに足を踏み入れている!!ここは、主人の寝室だぞ!!」


声を荒あげるサミュエルをものともせず、メアリージュンは、すっと冷たい眼差しを向けた。


「なんだ!何か言いたいことがあるのか!!」


「では発言を許してくださったと解釈いたします。我がお嬢様は、大変繊細な方でございます。今の状態では、お嬢様のお体に触りますので、本日の夫婦の触れ合いはお控えください」


「お前!私をなんだと!」


「お控えくださいと申し上げました。あなた様は、新妻をなぶり殺すおつもりですか?」


「そんなことは言っていないだろう!!」


「先ほども申し上げましたが、お嬢様は大変繊細でいらっしゃいます。今のお嬢様には、とても耐えられないかと」


そういってメアリージュンは、ヴェロニカに覆い被さっていた体を少しずらした。


ボロボロと涙を流し、虚空を見つめてぶつぶつ呟くヴェロニカを目にしたサミュエルは、口を噤んだ。


「ご理解頂けましたか?」


メアリージュンが、冷え冷えとした声色で問いかけると、サミュエルは気まずげに目をそらした。


「義務は果たしてもらうからな!」


捨て台詞のように言葉を吐き捨て、サミュエルは早足で主寝室から出ていった。


「……もげろ」


ボソリと呟いたメアリージュンの言葉はサミュエルには届かなかった。抱き締められていたヴェロニカにはしっかりと聞こえていたが。


サミュエルが出ていった扉を睨み、殺気立つメアリ-ジュンをなだめるために、ヴェロニカが背中をポンポン叩いてやると激情は波を引いたのか吊り上がっていた眦が下がる。


「あるじさま、お怪我はございませんか?」


ヴェロニカを抱きしめ慰めているかのような表情を作りつつ、耳元でそっと囁く。


「あぁ、助かったよ。メアリ-ジュン」


ヴェロニカも涙を流しつつ、放心状態から抜け出せない令嬢を演じながら、声を潜めた。


「とんでもございません。では、あるじさまのお部屋で今回のことをお聞かせいただいても?」


「もちろんだ。さすが、私のメアリ-だな。よく分かっている」


「ここは人の目と耳が多すぎますので。……あるじさま。ふいうちはいけません。ひょうじょうがくずれます」


メアリ-ジュンの震えている声に、私のメイドは可愛いなとヴェロニカは思いつつ、メアリ-ジュンに先導される形で、ヴェロニカたちも主寝室を後にした。







主寝室という鬼門から無事生還を果たしたヴェロニカは、重く動きにくいドレスを脱ぎ捨て簡素で動きやすい服装へと着替えた。ヴェロニカが身支度を整えている間にお茶の準備を完璧に終えたメアリ-ジュンが、ヴェロニカがソファへ腰かけるのに合わせ紅茶を注ぐ。


ふわりと甘く優しい香りが辺りに広がった。


「メアリ-ジュン、この茶葉は」


ヴェロニカはふと視線を上げた。


「共和国のものでございます」


「リラックス効果があるというあれだろう?」


「さようでございます」


すました表情を浮かべたメアリ―ジュンに、ヴェロニカは微笑んだ。


「私のメアリ―は優秀で優しいな。ありがとう」


ヴェロニカの言葉にメアリ-ジュンは、一瞬にして表情を崩し、口元をにやけさせた。


「当然のことです。あるじさま。愛しています」


「ああ、わたしもメアリ-のことを好いているよ」


ヴェロニカの言葉にさらに表情を崩したメアリ-ジュンではあったが、しっかりと釘をさすことは忘れなかった。


「あるじさま、メアリ-は忘れていませんからね」


「もちろんだ。ここまで来て誤魔化す気は私にもないから安心してくれ」


ヴェロニカがメアリ-ジュンに座るように促すと、彼女は迷いなくヴェロニカの隣に腰を下ろした。


「メアリ-ジュン、向かいに席が空いているぞ?」


「あるじさまの隣がメアリ-の席です」


そう言い切ると、ぴったりとヴェロニカにくっついた。メアリ-ジュンの頑として離れないことに、ヴェロニカは苦笑を一つ漏らし、気にしないことにした。


「それにしても、私としてはこの結婚を少々楽しみにしていた部分があったんだが」


ヴェロニカの呟きを聞き、ぴったりとくっついていたメアリ-ジュンがスッと立ち上がった。先ほどまで浮かべていた、にやけた表情は抜け落ち、瞳には冷たい殺気が宿っている。メアリ-ジュンが廊下へ続く扉へと一歩踏み出そうとした時、落胆した声が続いた。


「思っていた以上に、私の旦那はクソだな」


ストンと隣のクッションに重みが戻ってきたことを確認し、ヴェロニカはさらに続けた。


「もともと事前調査で分かっていたが、実際にみるとゲスさが際立ってな」


「……あるじさま、暗殺の準備は整っております」


「いや、いい」


「あるじさま、暗さ」


「メアリージュン、ステイ」


「失礼いたしました」


しょんぼりと眉根を下げたメアリ-ジュンの頭を軽く撫でつつ、ヴェロニカはメアリ-ジュンに説明した。


「私のメアリ-、一つ勘違いしないでほしいが、楽しみだったことはあのクソと結婚できることじゃないぞ?」


メアリ-ジュンの瞳に力が戻ってきた。


「どれだけ顔が良くてもあんな男は御免だ。それに私には彼がいるしな」


「……なるほど。あるじさまがなぜ、この結婚に乗り気だったのか理解しました。……猫ですね?」


「そうだ」


「この侯爵領から喋る白猫の目撃情報があったのはいつですか?」


ヴェロニカはゆっくりと首を振った。


「メアリ-ジュン、逆だ。この侯爵領から猫の噂が上がったことは一度としてない。このステラ王国の他領すべてで確認されているにもかかわらず、ここからは一度も、だ。あの侯爵閣下が治めている領地にもかかわらず、な」


「それは確かに怪しいですね」


「だろう?フェルトロンド侯爵閣下に領地をまともに運営する能力はないはずだからな。この領地が荒れ果てていないことも、どう考えてもおかしい」


「あるじさまはいつから?」


「三年前からだな」


メアリ-ジュンは口を噤んだ。ヴェロニカが、フェルトロンド侯爵家に嫁入りを画策して三年。それほど以前から、策を弄していたとなれば、メアリ-ジュンができることなど何もない。


「メアリ-ジュン、これから忙しくなるぞ」


「あるじさまの御心のままに」


ヴェロニカは、追い求めている白猫に気持ちをはせ、強く言葉に力を込めた。








ヴェロニカたちが住むステラ王国には、古い言い伝えのような伝説がいくつかある。荒野をさまよい歩く亡霊に、空を舞う翼をもつトカゲ。人の理解を超えた力、魔法という不思議な力を持つ人々に、海に潜む魚の尾を持った美しい女性。そして、喋る猫。


荒れ果てた土地に現れ、人々に恵みを授けいつのまにやら消える猫。不幸な子供の前に現れ、英知を授け、大人になると消える猫。恵みや英知など人に授けるものは様々だが、その猫は決まって困っている人間の前に姿を現し、助けが不要になれば忽然と姿を消してしまう。


ステラ王国に住む大半の人間が知っていて、大半の人間にとってただの御伽噺。架空の産物と思われている猫にヴェロニカが出会ったのは、三歳の頃だった。


幼いヴェロニカを育てていた母が数日前に息を引き取り、父伯爵は妻と娘を忌み嫌っていたため、残されたヴェロニカは育児放棄状態であった。伯爵家の屋敷にいるにも関わらず、誰にも世話をされず、餓死しそうになっていたヴェロニカのもとへ喋る毛玉は現れた。


降りたての新雪のような見事な白い毛並みを持ち、二対の宝石のように輝く紫紺の瞳には知性が滲んでいた。


「しろいにゃんにゃん」


「我はしろいにゃんにゃんではない」


そんな気の抜けた出会いを果たした後、喋る白猫はヴェロニカの面倒を見てくれた。食料の確保の仕方、身支度の仕方、一般的な知識など生きるために必要な知識を教え込んだ。一人で生きるための基を築き上げると、次は教養を身につける必要性を説いた。


ヴェロニカが知恵をつけ、自らの状況を正しく理解し、伯爵家から追い出されても生きていけるように商人を志すまでわずか一年。


わずか一年ながらも、その密度は数年に及ぶそれだった。喋る白猫が、規格外の存在だったことはもちろんのこと、ヴェロニカ自身も天才と呼ばれる部類の人間だったために四歳児には思えぬ聡明さを持った子供に育った。


ヴェロニカが新進気鋭の商会へ弟子入りを宣言すると同時に、喋る白猫も決別を言い渡した。ヴェロニカどんなに泣いてすがっても、白猫は自分の役目は果たしたと頑として、撤回しなかった。それならば、弟子入りは辞めると言っても、白猫はいなくなることは確定事項だと譲らなかった。


喋る白猫の前で初めて、駄々っ子のように泣きわめき、行かないでと追いすがるヴェロニカを見て、白猫も心動かされたのか、己の名さえ語らなかった白猫が初めて自身のことを話した。


自分は侯爵家の猫だ、と。


ただ一言。それだけ告げた白猫は、ヴェロニカに達者でなと、別れの言葉を落として消えた。

後に残されたヴェロニカの涙は止まっていた。涙に濡れた深緑の瞳には、硬い決意が宿っていた。


プラチナの髪に紫紺の瞳。それを覆うように絡みつく闇。


ヴェロニカは、喋る白猫がこぼした一言を聞いた時、彼の正体を見た。

喋る白猫さえも知らなかった。ヴェロニカの秘密。その者の本質、魂が見える魔眼を駆使してヴェロニカが最後に見た彼と、残した言葉。


ヴェロニカはその二つだけを道しるべとして、彼を見つけ出すために商人として瞬く間に名を轟かせた。


父伯爵ならびに、いつのまにやら後妻になった継母や妹など伯爵家の面々には、目立たぬように、取るに足らない伯爵令嬢に映るように仮面を被り、かたや自身の商会で辣腕を振るい王国各地へ情報網を広げ網羅した。


そして、ヴェロニカはとうとう行き着いた。フェルトロンド侯爵家というおかしな存在に。








フェルトロンド侯爵家。ステラ王国では名を知らぬ者はいないほどの名門貴族家にして、その起源はステラ王国の建国まで遡る。建国以来、王国への貢献は数知れず、忠臣と名高い家紋だった。


二十年前に前侯爵夫妻が亡くなるまでは。




フェルトロンド侯爵家に嫁いで早一か月。ヴェロニカは、サミュエルが言う義務(笑)をメイドのメアリ-ジュンと共に封殺して、与えられた居室に引きこもっていた。幸い侯爵家から侍女という名の面倒な監視がつけられなかったことを良いことに表向きは、体調不良で面会謝絶と言い張り、秘密裏にフェルトロンド侯爵家を内側から探っていた。


これまでヴェロニカは、喋る白猫の情報を国内のありとあらゆる場所から集め精査してきたが、ここフェルトロンド侯爵からは一切、噂話に至るまで一つも情報を得ることは叶わなかった。

その背景として、ヴェロニカ率いるルーナ商会が、フェルトロンド領に立ち入ることが難しかったからというのも一因であった。

しかし、婚姻を結んだ今、ヴェロニカに立ちはだかる壁はなかった。


「メアリ-ジュン、ルーナ商会のフェルトロンド領への進出状況は?」


「只今、80%といったところです、あるじさま。一週間もしないうちに、他商会の買収は完了するとの見通しです」


「それは重畳。情報のほうはどうだ?」


「次から次へ湧き出ている状態です」


「ふむ。やはりか。今まで鎖国状態でよく領地を回せると思ったら、まあそういうことだよな」


ヴェロニカは不愉快そうな表情をした。


「直近の彼の様子は、わかるか?」


メアリ-ジュンは一瞬、ためらった後に目を伏せながら告げた。


「……大変衰弱しているとのことでした」


商会の書類に目を通していたヴェロニカの動きが止まる。


「何日前だ?」


「二週間前です」


ヴェロニカの手の中で、ぐしゃりという音がした。


「メアリ-ジュン、早馬の手配を。私は急ぎ王妃様へ手紙を書く。それと、商会の金庫から魔導書を」


「かしこまりました、あるじさま」


ヴェロニカは、落ち着くために一度大きく息を吐いてから筆を手に取った。


本来であらば、現侯爵の悪行をすべて集め、言い逃れができないよう確実に息の根を止めるための証拠を取り揃えてから、追い込みをかけようとヴェロニカは計画していた。

しかし、思っていた以上に彼は酷使されていたらしい。ヴェロニカの予想では、飼い殺しコースを考えていたが、甘かったようだ。ヴェロニカが、思っていた以上に現侯爵は愚鈍だった。


「大丈夫だ。まだ、間に合う」


己の心をごまかすために呟く。募る焦燥と不安、自身の不甲斐なさにヴェロニカは唇を噛み締めた。








ごうごうと何かが燃える音と誰かの断末魔が耳に届いた。音の先には、真っ赤に燃え盛る馬車と、必死な形相を浮かべ馬車から逃げようとする父と母の姿。


ああ、またか、と彼は思った。


繰り返し繰り返し見る悪夢を自分は目にしていると、長年の経験から彼は悟った。彼自身は、()()()()()()で父と母の最期を姿を見てはいなかったが、悪意を込めて面白おかしく伝えられた話は、長年に渡り彼を苛んだ。


それも近々終わる、と自身が作り出した悪夢を眺めながら彼は、安堵した。


父母を()()()()()、己の自由を奪われた人生がもうすぐ終わることを彼はひたひたと感じていた。今まで溢れるように湧き出ていた力は枯渇し、今では力を行使するのに命を削っているのが分かる。それにも関わらず、命令されることは増える一方。


割れたグラスから流れ出るように、命はどんどん流れてゆく。


使える奇跡は、あと一つ。叶うのならば、最後の一つは自分の願いに使いたいと彼は、諦めながら悪夢を眺め続けた。








空気がこもり息苦しい真っ暗闇に、ヴェロニカが追い求めていた白く輝くものは落ちていた。


ヴェロニカは、メアリ-ジュンを伴いフェルトロンド領禁足地に佇む古びた洋館の地下に足を踏み入れていた。もちろん、フェルトロンド侯爵には許可なんぞ取っていない。ヴェロニカとメアリ-ジュン共々許可を取る必要性すら感じていなかった。


というのも、ヴェロニカとメアリ-ジュンはすでに知っていたからだ。

現侯爵が、前侯爵夫妻を殺し爵位を簒奪したことを。今は禁足地に指定されている土地が、ある存在を隠すための措置であることを。


ヴェロニカが長年追い求めていた白猫は、洋館の地下に薄汚れボロボロになった姿で、落ちていた。呼吸は浅く、すぐにでも息絶えてしまうような有様だった。


ヴェロニカは、急いでメアリ-ジュンに頼んでいた魔導書を取り出した。開いた項目は、解術。魔導書を見据え言葉を紡いだ。


ヴェロニカの髪が舞い上がり、深海の瞳は深緑に染まる。ボロボロの白猫の下には輝く魔法陣が出現し、白猫を淡い光で包み込んだ。

白猫を包み込んだ光から、禍々しい闇がはらりはらりと天へ向かって登っては消えてゆき、最後の闇が消えた後に残ったのは、プラチナの髪をした一人の青年だった。


酷い有様の青年はうっすらと瞳を開き、ヴェロニカを認識するとふわりと微笑み意識を手放した。


君をずっと待っていた。


そんな言葉が聞こえたような気がした。



ヴェロニカとメアリ-ジュンは、白猫だった青年を地下から連れ出し、そのままフェルトロンド領を抜け出した。かねてからの、ヴェロニカの目的は達成され、侯爵家並びに伯爵家へ果たす義理など持ち合わせていなかったため、躊躇なく両家ともに手が届かない地へ逃れた。


そして、安全な地へ逃げ押せた後、ヴェロニカはメアリ-ジュンからしっかりと問い詰められた。


「あるじさま、メアリ-は聞いていないことが多ございます」


ヴェロニカ所有の別荘へ避難し諸々の手配が済んだ昼下がり、メアリ-ジュンはふくれっ面をして静かにヴェロニカへ詰め寄った。


ヴェロニカが腰かけている椅子の隣には、未だ目を覚まさない青年が一人、ベットに横たわっていた。青年を見やり、ソワソワ足を動かすヴェロニカの姿にメアリ-ジュンはジェラシーが湧き上がりプイっと顔をそむけ小さい声で囁いた。


「メアリ-はここでお話いただくので構いません。あるじさまは、そのお方から離れたくなのでしょう?」


そんなメアリ-ジュンの姿に、困ったように眉を下げたヴェロニカは静かに近くの椅子へ腰かけるよう促した。


「すまないな。メアリ-」


「いいえ。あるじさま。メアリ-はお話いただければ、結構です」


いじけるメアリ-ジュンに、ヴェロニカ宥めすかすように優しい声色で謝った。


「悪かった。だから、機嫌を直しておくれ。私のメアリ-」


「メアリ-は、あるじさまが追い掛けていた猫が人間だということは聞き及んでいましたが、あるじさまが解術をされるとは一度も聞いておりません!もしも、何かあったらどうするおつもりだったのですか!」


メアリ-ジュンは声を潜めながら、怒っていた。


「メアリ-は、あるじさまがその死にかけていた猫に魔術を施している様に悲鳴を上げたい心地でございました。魔術という不可思議な力を使ったことで、あるじさまに何が起こるか分からなかったからでございます。もしも、もしもあるじさまが死んでしまったらと考えたら、メアリ-は怖くて怖くて堪らなかった、ので、す」


メアリ-ジュンは、途中言葉を詰まらせ、最後には声を抑えながら泣き出してしまった。これにはヴェロニカも、メアリ-ジュンにすべてを話さなかった罪悪感を刺激されオロオロとしてしまう。


「メアリ-、私のメアリ-。本当に悪かった。だから、どうか、泣かないで。私も無鉄砲に魔術なんて怪しげなものを使ったわけじゃないんだ。ちゃんと、分かったうえで使用したんだ。だから、泣き止んでくれ」


情けなく眉を下げたヴェロニカに、メアリ-ジュンは泣きながらも目線で問う。どういうことかと。


「メアリ-には、以前少し話したと思うが、私は魔眼なんていう、御伽噺の産物を持っているだろう。その魔眼は本質を見抜く力がある。だから、魔法関係のことも見れば分かる。魔導書も解術の項目は命に関わることなく発動できるのが見えていたから、行使したんだ」


「それなら、そうとおっしゃってください!」


荒ぶるメアリ-ジュンにヴェロニカは小さく竦む。


「メアリ-ジュン、不安にさせて悪かった」


「あるじさまのばか、ばかばかばかばかばか」


泣き止まないメアリ-ジュンの背中をさすりながら、ヴェロニカはメアリ-ジュンの気が済むまで謝りつづけた。








暖かな眩しさを覚え、意識が浮上する。温かく柔らかい感触が、思い出せないほどに久しぶりで、まだ夢の中にいるのだとテオド-ル・フェルトロンドは幸福な夢を噛み締めた。目を開けてみれば、穏やかな日差しが差し込む清潔な部屋のベットに身を横たえていた。いつもの暗く冷たい硬質な石床はそこにはなく、目線も地面からは遠く離れまるで人間の目線のようだった。


ありえない。これは、夢で間違いないな。こんな穏やかな夢見は初めてだ。


テオド-ルが、どうか長くこの心地良い夢が続くように祈っていれば、隣から声がした。


「おっ、やっと目覚めたか」


男のような口調でかけられた声の主に目を向ければ、艶やか黒髪に深い青の瞳をした美しい女性が、幸せそうに微笑んでいた。これほどの美人と顔を合わせたのは初めてだというのに、テオド-ルはなぜか懐かしい気分になった。


「君は?」


問いかけるも、掠れた声しか出なかった。夢なのにおかしいなと疑問に思うも、黒髪の女性に介助されるように水を口元まで近づけられれば、気恥ずかしさにそんな疑問も吹き飛んだ。


「ありがとう。ところで君は誰だ?」


「さあ、誰だろう?」


なぞかけのように、問いに問いで返した彼女はいたずらっ子のように笑う。遠い昔の記憶が刺激され、喉の奥に魚の小骨が引っかかったようなもどかしい気持ちになる。頭をひねりどうにか思い出せと、うんうん唸っていれば、眉間にちょんと柔らかな感触が。


「眉間に皺が寄るのはいけない」


大真面目な顔で、そんなことをいう彼女の顔が近くにあった。一気に血が顔に集まった。その様子を見て、彼女の顔がさらに近づき額がコツンと重なる。


「う―ん、熱はないようだな?」


やめてくれ!なんなんだ!今日の夢見は。私はとうとう天に召されたということなのか?


声にならない悲鳴を内心上げ、固まっていたテオド-ルに救いの手が差し伸べられる。


「あるじさま、嬉しいのは分かりますがイチャイチャしないでください。メアリ-はジェラシーを感じて、ジェラジェラしてしまいます」


銀髪に金の瞳をした無表情のメイドが、音もなくベッドサイドに佇んでいた。メイドに指摘され、慌てたように黒髪の女性は顔をはなした。


「名は知りませんが、猫だったお方。食事はとれそうですか?」


メイドの言葉に、テオド-ルは固まった。


「これは、私の願望を映し出した夢ではないのか?」


「寝言は寝て言え。……失礼いたしました。あんなにもあるじさまとイチャコラしやがったにもかかわらず、舐めているのでしょうか?……大変失礼いたしました。ブ……ではなく、これは現実です。永眠希望であれば、喜んでお手伝いいたしますが、いかがなさいますか?」


「これは、現実なんだな?」


「はい。先ほども申し上げましたが、お耳が遠いようですね。病院はこの屋敷より遠方にございます。ご希望であれば可及的速やかに、手配いたしますのでお申し付けください今すぐに」


「メアリ-ジュン?」


「あるじさま、大変失礼いたしました」


黒髪の女性とメイドが、何やら話していたがテオド-ルには、耳に入らなかった。知らず涙が頬を濡らしていた。後から後から、流れ落ちる涙を止める手立てはなかった。それほどまでに、感情が波打ち高ぶっていた。


「君は自由だ。もう喋る猫はいない。君は一人の人間に戻れたんだ」


自由。自由に生きていい。猫ではない。猫は消えた。人間。人間に戻れた。


ゆっくりと地面に水が沁み込むように、かけられた言葉が心に染み込んでいく。


「やっと君に報いることができたよ。しろいにゃんにゃん?」


ガリガリに痩せこけた黒髪の子供の姿が思い浮かぶ。別れるときに見た、聡明さを宿した青い瞳を煌めかせ泣きわめく幼子と、黒髪の女性の顔が重なった。


「我はしろいにゃんにゃんではない」


はははっと懐かしげに彼女は笑う。


「やっと取り戻した」


満足気に笑う美しく成長したヴェロニカ見て、自分はずっと心のどこかで彼女を待ちわびていたのだと自覚する。誰にも明かさなかった自分自身のことを彼女に告げたその時から、ずっとずっと彼女が追い掛けて来てくれるのを待っていた。


「ずっと君を待っていた」


テオド-ルが無意識にこぼした言葉にヴェロニカは昔のように屈託なく笑った。








国の頂点たる王族がいるのにふさわしい豪華絢爛さをそなつつ、下品に見えない上品な造りとなっている王宮の謁見の間に、ガタガタと体を震わせた幾人かの貴族が集められていた。それを睥睨し眺めるは、国王ライアンドルフ・ステラと王妃オリヴィアーナ・ステラの両陛下だった。


ガタガタと震え怯える貴族、現コンシエルト伯爵家一同と現フェルトロンド侯爵家一同は、心辺りが多すぎて、どの件で呼ばれているのかわからず、下手をすれば別件の悪事が露見するという絶望的な状況に顔を上げることができなかった。


「フェルトロンド侯爵並びにコンシエルト伯爵、此度はなぜ王宮に呼ばれたか。主らに心当たりはあるか?」


「陛下、恐れながら申し上げます。私にはとんと心当たりはございません」


「陛下、私めも、フェルトロンド侯爵閣下と同じくとんと心当たりがございません」


「なるほどのう。主らに心あたりはないと申すか」


ライアンドルフ国王は、問いただしていた厳しい声を緩め、優し気に問いかけた。


「さようでございます。陛下」


「我らは陛下に忠誠を誓っている身、嘘偽りはございません」


「ほう。では、主らが我に嘘偽りを申したとなれば、それは我に刃を向けたことと同義だな?」


余計なことを、とフェルトロンド侯爵はコンシエルト伯爵を睨むが、この場で是以外の言葉を吐けるわけがない。


「私が陛下に刃を向けるなどあり得ませぬ」


「さようでございます」


ふうむと悩むそぶりを見せたライアンドルフ国王は、隣に控えていた王妃オリヴィアーナに視線を向けた。


「ふふふふふふ。陛下発言をお許しいただけますか?」


ニッコリと黒い笑顔を張り付けた王妃に、国王も人が悪い笑顔を返す。


「王妃よ。発言を許そう」


「ありがとうございます、陛下。ふふふ、わたくし最近、とても面白いお手紙を頂きましたの」


そう発言すると近くに控えていた侍従から、分厚い紙の束を受け取った。


「このお手紙には、あなた方のしてきたことすべてが記されていました」


王妃オリヴィアーナは、フェルトロンド侯爵とコンシエルト伯爵に氷のように冷たい視線を送りそう告げた。


「王妃さま恐れながら、ご忠告させていただきます。そのような不確かなものを信じるのはいかがなものかと」


固まっていたコンシエルト伯爵はフェルトロンド侯爵の落ち着いた声で正気に戻ったのか、続くように賛同した。


「あらあら、往生際が悪いこと。残念ながら、わたくし裏はすべてとりましたの。コンシエルト伯爵のされていた前伯爵夫人の遺産横領に、伯爵令嬢であったヴェロニカ・コンシエルト嬢への虐待。そのほかにもありますが、切りがないのでこの辺で。フェルトロンド侯爵がされていたことは、前侯爵夫妻の殺害に前侯爵夫妻が残したテオド-ル・フェルトロンド侯爵令息への邪術並びに強制隷属。その末の殺害未遂。それと、サミュエル・フェルトロンド侯爵令息絡みの脅迫、圧力。勿論ほかもにありますが、切りがないのでこちらもこの辺で。そうそう、ヴェロニカ・コンシエルト嬢の婚姻は、彼女が虐待されていたこともあり、受理されないことになりましたのであしからず」


そう締めくくり、王妃オリヴィアーナは口を閉じた。

コンシエルト伯爵とフェルトロンド侯爵はガクリと膝をつき呆然とした様子で、控えていた兵たちに連行された。他伯爵、侯爵一同も、余罪や関与ありとの判断が下され同様に連行された。


こうして、現コンシエルト伯爵家と現フェルトロンド侯爵家は投獄や処罰を言い渡され、爵位は罪を犯していない直系のものへと渡ることとなった。








ほのかに香るバラの匂いを感じながら、ヴェロニカは王宮であったことの顛末を王妃オリヴィアーナからの手紙で直々に知ることとなった。


もとより、白猫を救出する前に出した手紙の内容からどんな結果になるかは火を見るよりも明らかだったため、ヴェロニカはとくに驚きもなく予定調和だなと感じながら手紙を読み切った。


そんなヴェロニカに興味津々といった気持ちを隠しもしない紫紺の瞳が二対向いている。


「どうやら、私たちが爵位継承することになりそうだ。侯爵様?」


ヴェロニカがそう続けると、驚きの表情の後に不満そうな顔になる。


「しろいにゃんにゃん、どうした?」


しろいにゃんにゃん呼びで問えば、目の前の男は整った顔をさらに渋い表情にする。


「私はしろいにゃんにゃんではない。テオド-ル・フェルトロンドだ」


ああ、やっと聞けた。


「初めまして。テオド-ル・フェルトロンド侯爵様。わたくしはヴェロニカ・コンシエルトと申します」


ヴェロニカのすました表情は崩れ落ち、彼の人の名を口ずさんだ顔は幸福に満ち溢れていた。

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