万象永久保存瓶
杏樹とわたしはその瓶を、骨董だか古道具だかがらくただかわからないような物ばかりを小さな敷物の上に所狭しと並べて売っている露店で見つけた。
十二歳の時のことだ。
秋祭りの宵宮があったその日は、神社の鳥居から境内まで参道の両側にずらりと屋台と露店が並び、大勢の人で辺りは溢れかえっていた。
わずかばかりの全財産を財布に入れて散財の限りを尽くす勢いで祭りに出掛けたわたしたちは、まずりんご飴を食べ、二人で一皿のたこ焼きを買って半分ずつ食べた。
そして次は何を食べようかと様々な食べ物の匂いと煙に誘われるようにして人波の中をさまよっていたところ、連なる屋台の一番端でわたしたちは足を止めた。
それは、蚤市でよく見かけるような露店だった。
青いビニールの敷物の上には、年代物めいた茶碗や皿や花瓶、古びたブリキ人形や玩具の自動車、その他よくわからないような物が並んでいる。
露店の主らしき男は顎髭を生やしていて、中年なのだか青年なのだかよくわからなかったが、真っ赤なペイズリー柄のバンダナを頭に巻いていた。
火の点いていない煙草をくわえて、折りたたみ椅子にのんびりと座っていた主は、わたしたちが興味を示して立ち止まったのを見て「らっしゃい」と掠れ声を掛けてきた。
淡い水色をした硝子瓶は、敷物の上の隅っこの方に雑然と並べられていた。
コルク栓が付いたそれは、少しいびつな形をしていて、大きさも様々で、薬瓶のような小さな物から、一升瓶くらいの大きさの物まであった。
煌々と光る裸電球の灯りに照らされた硝子瓶は、角度によって色の濃淡が変化し、なんだか妖しげな薬でも入っていそうな雰囲気があったが、瓶を手に取って電球にかざしてみると、残念なことに中が空であることがわかった。
「それは、どんなものでも永久に保存することが出来る瓶だよ」
露店の主は、わたしたちが興味を示している瓶を指して説明した。
「永久?」
わたしたちは瓶をじいっと睨むようにして観察してみたが、コルク栓が付いたただの瓶にしか見えなかった。
「その瓶の中に、永久に保存したいものを入れて栓を閉めるんだ。そうすれば、栓を開けない限り、永久にそれはその瓶の中で保存出来るって仕組みだよ」
「どんな物でもって、例えばどんなもの?」
初対面の相手にも物怖じしない杏樹が訊ねる。
「それこそ、どんなものでも、だよ。金魚すくいの金魚でも、摘んだばかりの花でも、コオロギでも、雪でも、なんだってこの瓶の中に閉じ込めておける」
「そんなこと、無理よ」
杏樹は露店の主に対して反論した。
「金魚やコオロギは餌をやらなければ死んでしまうし、花だっていつかは萎れてしまうわ。雪はいつかは溶けて水になって、最後は水蒸気になって蒸発してしまうんだから」
「この瓶は、この世のあらゆるものを保存できる優れものなんだよ。栓を閉めさえすれば、金魚はいつまでもこの瓶の中で泳ぎ続けるし、花だって枯れることはない。コオロギはいつまでも鳴き続けるし、雪は溶けることがない。この瓶はこの世に存在するあらゆるものが保存できるし、この中にだけは永遠が存在しているんだ」
あまりにも胡散臭い口上だったが、わたしたちはこの露店の主の言葉を疑いつつも、ますますこの瓶に興味を持った。
「もちろん、この瓶が保存出来るのは物だけじゃない。匂いや、音や、光や、それに形を持たない記憶や気持ちだって入れておくことが出来るんだよ」
次第に露店の主は饒舌になっていった。
「例えば、雷の音や、稲妻の光なんてものも入れておける。他にも、忘れたくない思い出や、失いたくない気持ちなんかも、この瓶の中に収めておけば、それらはずっと変わることなくこの瓶の中で保存されるんだ」
「どうやって気持ちを瓶の中に入れるの?」
すっかり瓶に魅入られてしまった杏樹は、瓶のうちの一つを掴んだまま訊ねた。
「簡単だよ。この瓶の中に入れたい気持ちを頭に思い浮かべて、瓶の中に息を吹き込むんだ。そうすると、あんたの気持ちが瓶に入っていく。すぐに栓をしてしまえば、瓶の中に吹き込んだ気持ちを閉じ込めてしまえるんだ。ただ一つ問題は、瓶の中に収めてしまうと、栓を開けない限りはそれに触れることは二度と出来ないってことだ。金魚も思い出も、瓶の中から出さない限りは、永遠に瓶の中に存在するが、瓶の栓を抜いて一旦出してしまえばそこからは永遠が失われる。それに、瓶は一回限りしか使えないよ」
「たった一回?」
不満げに杏樹が唇を尖らせると、露店の店主は慌てて言い訳めいた説明をした。
「瓶の中から永遠が逃げてしまうと、瓶は壊れてしまうんだよ」
「そんなの、不良品よ」
「不良品かどうかは、実際に試してみてから言ってくれないか? この一番小さい瓶なら、三百円だよ」
露店の主は一番小さな薬瓶くらいの大きさの瓶をわたしたちに勧めた。
それはわたしたちの手にすっぽりと収まるくらいで、重さも比較的軽かった。
三百円、と具体的に値段を提示されて、わたしたちは顔を見合わせた。
「こんなに小さかったら、何も入らないじゃない」
「形ある物ならそんなに入らないが、形のない物ならそこそこ入る大きさだよ」
わたしたちは露店の主の『形のない物』という言い回しが無性に気に入ってしまい、ついそれぞれ三百円ずつ支払ってこの瓶を買ってしまった。
「まいどどうも」
包装紙代わりの新聞紙で丁寧に包んで、露店の主はそれをわたしたちに差し出した。
昨日の新聞紙に包まれたこの瓶を手にした途端、わたしたちはとてつもなく素敵な物を手に入れた気分になって、どちらともなく顔を見合わせると、くすくすと抑えられない笑いが込み上げてきた。
*
案の定というか、翌朝になって太陽の陽射しの下で昨夜買ったばかりの瓶を見てみると、それはただの古びたがらくたの硝子瓶でしかなかった。
祭り特有の熱気に酔った状態で見た際はその薄汚れ具合がとても魅力的に見えたものだったが、一夜明けて酔いも醒めると、小さな硝子瓶に三百円も出して買った行為そのものを後悔し始めていた。
夜になって、電気スタンドの蛍光灯の明かりに硝子瓶をかざして見てみたりもしたが、昨夜店先で見た時のような高揚感は幾ら硝子瓶を見つめても戻ってはこなかった。
瓶の使い道は、しばらく決まらなかった。
年が明けて、卒業式を間近に控えた頃に、クラス全員で小学校の中庭に卒業記念のタイムカプセルを埋めようという話が持ち上がった。
各自一つ、二十歳の自分への手紙と大切な物をタイムカプセルに収めて、八年後の成人の日にまた全員で集まってこのタイムカプセルを掘り起こそうというものだった。
三月の最初の月曜日の放課後に、タイムカプセルを学校の中庭に埋めることになった。
杏樹とわたしはすぐさま、このタイムカプセルにあの瓶を収めることを決めた。
ただ、瓶の中に何を収めるかはしばらく迷った。
本当にこの瓶の中に永遠があるのかどうかはやはり疑わしかったので、生き物を入れるのやめておくことにした。
それで、杏樹とわたしは『形のない物』を瓶に入れることで意見はまとまった。
「今何よりも一番大切なことを、八年後までこの瓶の中に保存しておくことにしない?」
杏樹が提案し、わたしがそれを受け入れた。
わたしたちは、タイムカプセルに手紙と一緒に大切な物を収めるその日にその場で、二人一緒に瓶に息を吹き込んだ。
ふーっと勢いよく息を吹き込むと、瓶の内側が白く曇り、わたしたちはそれが逃げないようにすぐさま慌ててコルク栓を閉める。
自分の名前を封筒の表に書いた手紙と瓶をファスナー付きのビニール袋に入れて、わたしたちはタイムカプセルの中にそれを収めた。
「ねぇ、杏樹、あの瓶の中にはちゃんと『今何よりも一番大切なこと』が入ったと思う?」
瓶に息を吹き込んで栓を閉めたまでは良かったが、わたしは瓶の中に『今何よりも一番大切なこと』を保存することに成功したのかどうか、いまいち確信が持てなかった。
なにしろ、入れたものは目に見えない形のないものなのだ。
今更あれこれ心配したところで、既にタイムカプセルは中庭の地中に埋められてしまった後ではあったが。
「え?」
隣に立っていた同級生と楽しげにお喋りをしていた杏樹は、怪訝そうな表情を浮かべて声を掛けたわたしの方を見た。
「さっきタイムカプセルに入れた瓶にね、ちゃんと」
「……誰?」
杏樹はわたしの顔をしばらく眺めた後で、はっきりとそう言い放った。
「え?」
今度はわたしが顔を顰めて杏樹の顔を見つめる番だった。
「杏樹? どうしたの?」
わたしは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
そんなわたしに、杏樹は更に重ねて訊ねた。
「あなた、誰?」
杏樹とわたしの周囲にいた同級生が、驚いた様子でわたしたちを見つめる。
「やだ、杏樹、なんでそんなこと言うの?」
まるで初対面の相手を見るような杏樹の視線に耐えられず、わたしは涙ぐんだ。
「ちょっと、杏樹、どうしたのよ」
見かけた同級生の一人が杏樹に訊ねた。
「どうしたのって、どうもしないよ」
動揺を隠せずにいるわたしの態度に首を傾げながらも、杏樹は平静そのもので答えた。
「もしかして、喧嘩でもしてるの?」
「喧嘩って、誰と?」
不思議そうな表情を浮かべた杏樹は、本当にわたしが誰なのかわからない様子だった。
「誰って……」
そんな杏樹の態度に、それまで黙ってわたしたちのやりとりを見ていた同級生たちが眉を顰める。
「いい加減にしなよ」
同級生の一人が杏樹を責めるが、杏樹自身は自分が何故責められているのかは全くわかっていない。
きょとんとした表情を浮かべて、杏樹は首を傾げるばかりだ。
しばらく黙って杏樹の様子を窺っていたわたしは、そのうちようやく本当に杏樹はわたしが誰なのかわからないのだということに気づいた。
そして、杏樹がわたしのことを全く忘れてしまったその理由が、タイムカプセルの中に収めて地中に埋められてしまった硝子瓶にあるのかもしれないということに思い至ったのは、杏樹本人は状況が理解出来ないままわたしのことで同級生たちに責められて泣き出してしまった後だった。
杏樹はあの瓶の中に、彼女の中に在ったわたしという存在を閉じ込め、タイムカプセルに収めてしまったのだ。
だとしたら、彼女にとって永久に保存しておきたい『今何よりも一番大切なこと』というのは、わたしという存在だったということなのだろうか。
その結論に達した瞬間、わたしはわたしが杏樹のことを忘れていないことに気づいた。
つまり、わたしにとって『今何よりも一番大切なこと』は杏樹ではなかったということなのだ。
それならば、わたしは吹き込んだ息と一緒に、一体何をあの瓶に入れたのだろうか。
精一杯考えてみたが、わたしの『今何よりも一番大切なこと』は瓶の中に入ってしまい、もうわたしの中には片鱗さえも残っていなかった。
杏樹がわたしを忘れてしまったように、わたしも一体何が『今何よりも一番大切なこと』だったのか、思い出すことが出来なかった。
それに、あの瓶の中に本当に『今何よりも一番大切なこと』が入ったのかどうかも疑問だ。
わたしはあの瓶をコルク栓で閉めた途端に、わたしの中の『何か』をあの瓶の中に閉じ込め、そして永久に保存することに成功したのかもしれない。
けれども、わたしは閉じ込められたそれが何であるのかを、今となっては確認しようがないのだ。
わかっていることは、杏樹がわたしを忘れてしまったということと、それは多分あの瓶のせいだろうということくらいだった。
*
タイムカプセルを埋めた翌日から、わたしは杏樹と一緒に登校しなくなった。
これまでは毎朝、杏樹が学校に行こうとわたしを誘っていたのに、それが突然ぱったりと止んでしまったものだから、母親は心配して繰り返しわたしに「杏樹ちゃんと喧嘩でもしたの?」と訊ねた。
中学は杏樹と同じ地元の中学校に進学したが、高校は杏樹とは違う学校を選んで受験した。
大学は杏樹が自宅から通える大学を志望していると聞いたので、わたしは県外の大学ばかりを受験した。
なんとか無事そのうちの一校に合格したわたしは、大学進学と同時に地元を離れ、一人暮らしを始めた。
二十歳を迎えた年の十一月になって、わたしは小学校時代の同級生から同窓会開催を知らせる葉書を受け取った。
そこには小学校時代に埋めたあのタイムカプセルを掘り起こすことも書かれていた。
八年が経過し、あの瓶が再び杏樹とわたしの手に戻ってくる日が訪れる。
すぐさまわたしは返信用葉書の出席の欄に大きく丸を入れて、その足で葉書を郵便ポストに投函しに出掛けた。
*
小学校時代の同級生はその日、ほぼ八割方が集まった。
正月三が日が一番地元に戻っている可能性が高いだろうということで、タイムカプセルを掘り起こす日は一月三日となっていた。
八年という時間の中で、当時の面影をそのまま残している人もいれば、全く誰だかわからないくらい変わってしまっている人もいて、なかなか面白い同級生との再会となった。
集まった同級生の中には杏樹もいたが、杏樹はわたしを目にしても相変わらずわたしのことは全く覚えていないような表情を浮かべていたし、わたしもわざわざ杏樹の側に寄って声を掛けるようなことはしなかった。
タイムカプセルの掘り起こしには小学校卒業時の担任教諭も立ち会い、ちょっとしたイベントの様相を呈していた。
今日はこのタイムカプセル掘り起こしの後で一旦解散し、夕方から居酒屋に会場を移して同窓会は催されることになっている。
大きなシャベルで掘り起こされたタイムカプセルは、拍手喝采の中ですぐに蓋が開けられ、それぞれの名前が呼ばれてタイムカプセルの中に収められていた物が返された。
わたしが収めた手紙と瓶が入ったビニール袋も、無事わたしの手元に返ってきた。
ビニール袋を開けると、わたしはまず瓶を取り出した。
以前にも増してただの安っぽいがらくたにしか見えない瓶は、しっかりとコルク栓が閉められている。
冬の薄曇りの太陽に瓶をかざして中を覗こうとしてみたが、水色を帯びた色硝子は厚く、空気以外の何も入っていないようにしか見えなかった。
それでもわたしは確かに、この瓶の中に息を吹き込むことで『何か』を保存したはずなのだ。
逡巡したのはほんの数秒のことだった。
意を決して、わたしはおもむろに瓶のコルクを抜いた。
この瓶の中に入っている『何か』の正体を確かめずにはいられなかったのだ。
すぽん、と間の抜けた音が響いてコルク栓は簡単に抜けた。
それと同時に、瓶の口から一筋の白い煙がすうっと立ち上り、霧散した。
それが八年前にわたしがこの瓶の中に閉じ込めた『何か』であるのかどうかは、もちろんわかるはずもない。
瓶を逆さまにして振ってみたが、水滴一つ出てはこなかった。
わたしはこの瓶の中に閉じ込めてあった『何か』が何であったのか思い出そうとしてみたが、栓を開ける前と開けた後で何もわたしの中で変わっていないことに気づき、やや失望した。
やはり、この瓶の中に『何か』が永久に保存されるなんて子供騙しだったに違いない。
わかりきったことではあったが、実際に自分で確認すると、なんだか騙された自分が情けなく感じられる。
瓶はいくら角度を変えて見てみたり、中を覗き込んでみたりしてみても、やはり何ら変哲もない瓶でしかない。
所詮はこんなものなのだ、とわたしが溜め息を吐いたその瞬間だった。
みしっと手の中でかすかに音が響いたかと思うと、ぴしぴしぴしっと無数の細かな罅が瓶全体に走った。
え? と思う間も無かった。
わたしの指が触れていた部分がぱんっと音を立てて砕けたかと思うと、瓶は無惨なまでに粉々に散った。
あっという間の、呆気ない最後だった。
「ちょっと、大丈夫? 怪我しなかった?」
わたしの横に立っていた元同級生が、わたしが持っていた瓶が割れたことに驚いて声をかけてくれる。
「ありがとう。大丈夫」
手に付いていた硝子の粉末を払い落としながら、わたしは苦笑いを浮かべて答え、瓶が古かったみたい、ともっともらしい言い訳を口にした。
粉に近い状態で砕けた硝子は、地面に散らばって回収のしようがなくなっている。
瓶が確かにあった残骸として、コルク栓だけがわたしの手元に残ったが、これも家に帰る前にどこかのゴミ箱に捨ててしまおう、と思った。
こんなもの、未練がましく後生大事に持っている必要もないのだ。
取り敢えず、コルク栓を小学校の中庭に投げ捨ててしまうわけにはいかなかったので、わたしはそれを着ていたコートのポケットに入れて、瓶と一緒にビニール袋に入れた手紙を読んでみることにした。
八年前のわたしが手紙に一体どんなことを書いたのかは、全く覚えていなかった。
封筒を開けて、中身を取り出そうとしたわたしは、名前を呼ばれて顔を上げた。
「……杏樹」
茫然とわたしは彼女の名を呟いた。
わたしの目の前には、瞳に涙を浮かべた杏樹が唇を震わせながら立っていた。
「わたし……なんで一番大切なことを瓶の中に入れてしまおうなんて考えたりしたんだろう」
杏樹の目から溢れた涙は、頬を伝い、ぽたぽたと顎から滴り、重力に従って地面に落ちて土に吸い込まれていった。
「わたしのこと、思い出してくれた?」
確かめるように、杏樹の顔を覗き込んで訊ねると、杏樹は大きく頭を縦に振って頷いた。
「ずっと、大切なことを瓶の中に入れたことは覚えていたの。でも、中に何を入れたのかはどうしても思い出せなかったの。それがまさか、あなたのことだったなんて……」
何度かしゃくり上げながら、杏樹はごめんねとか細い声で囁いた。
「永遠に残しておきたいような大切な物でも、瓶に閉じ込めて手が届かないようにしてしまうんだったら、永遠の意味がなかったんだね」
そうだね、とわたしは泣き笑いを浮かべた。
瓶の中にはもしかしたら、確かに永遠が存在していたのかもしれない。
けれど、一旦瓶の中に入れてしまった『それ』は不変を保つために、二度とわたしたちでさえ触れられないものになったのだ。
八年前、十二歳の杏樹の中にあったわたしという存在を永久に瓶の中で保存するために、杏樹の中にあるわたしという存在全ては瓶に移された。
そしてその瞬間に、杏樹の中からわたしという存在は一切合切が消失したのだ。
硝子瓶の中で、永久に保存されるために。
杏樹が瓶に息を吹き込んだわたしという存在は、杏樹が栓を抜くまでの八年間、全く変わらず瓶の中で保存されていたに違いない。
その証拠に、今、わたしの目の前に立つ杏樹が、八年前と同じ目でわたしを見ている。
「瓶は粉々に割れてしまったから、もう使えないね」
杏樹の手にも、コルク栓だけが残っていた。
「仕方ないよ。栓を抜いて、永久に保存するのを止めてしまったんだから」
あの露店の主は瓶は一回限りしか使えないと言っていたが、こういう意味だったとは。
わたしたちは瓶の中に永久に保存するために入れたものを、瓶の外に取り出してしまったのだ。
その瞬間から、瓶から出てきたものは、少しずつでも変わっていく。
二度と、瓶の中に同じ形で戻すことは出来ない。
もう一度瓶の中に入れようにも、それは既に違うものに形を変えてしまっているのだ。
今現在も、杏樹の中におけるわたしという存在は刻一刻と変化しているのだろう。
変わることは良いことばかりではない。
でも、永久に変わらないようにと手の届かない瓶の中に仕舞い込んでみても、『永遠に変化しない存在』は、それに触れることができなくなってしまうわたしたちにとってなんら意味をなさない存在となってしまうのだ。
「そういえば、あなたは何を瓶の中に入れていたの?」
杏樹に訊ねられて、わたしはわたしが瓶の中に何を『今何よりも一番大切なこと』として入れたのかを思い出した。
手にしていた封筒から、わたしは一枚の写真を取り出した。手紙の代わりに入れたものだ。
そこには、杏樹とわたしがお揃いの服を着て、ほとんどそっくりな笑顔を浮かべ、肩を寄せ合い手を繋ぎ、まるでシンメトリーのようにそれぞれ空いている手でブイサインをしている姿が映っている。
一卵性双生児。
写真の裏には母の字で『杏樹、円樹 十二歳』とマジックで書き込まれてある。
十二歳のわたしの『今何よりも一番大切なこと』。
わたしは杏樹との絆を瓶の中に入れて、永久に瓶の中で保存しようとしていたのだ。
「もし今日あの瓶の栓を抜かなかったら、瓶に入っていたものは永久にあの瓶の中にあって、わたしは円樹のことを二度と思い出さなかったのかな」
小学校から家までの帰り道、二人で久しぶりに肩を並べてぶらぶらと歩きながら、杏樹がふと呟いた。
杏樹がわたしの名前を口にするのを聞いたのは本当に八年ぶりで、わたしはなんだか嬉しいような恥ずかしいような気分になり、にやにやと笑ってしまった。
同時にわたしは、杏樹がわたしにとって何者であったかを思い出すことができて、長年探し続けていた遺失物をようやく見つけ出せた時のような感慨にひたっていた。
「そうかもしれない」
もしかしたら、あの瓶は本当に露店の主が言ったように、永久にあらゆるものを保存できる瓶だったのかもしれない。
でも、瓶が壊れてしまった今、あの瓶の中に永遠があったのかどうかは確かめようがなかった。
瓶の中に入っていた永遠は、わたしたちがコルク栓を抜いた瞬間に瓶から出ていってしまったのだから。
「大切なものなんて、瓶の中に仕舞い込んでおくものじゃないんだね」
「自分でちゃんと持っていなくちゃいけないんだね」
杏樹とわたしは十二歳の頃に戻ったように手を繋いだ。
自然と、くすくすと笑いが込み上げてくる。
「ねぇ、杏樹、もしまたあの瓶が売っているのを見かけたら、どうする? 買う?」
ふと思いついて、わたしは訊ねてみた。
「そうね。三百円だったら、買うかな。今度はもう少し大きめの瓶を買って、それで目に見える物を入れることにする。花とか、金魚とか」
「多分、もっと大きな瓶は三百円では買えないよ。それに、八年前よりも物価が上がってるから、あの一番小さな瓶だってもう五百円くらいしてるかもしれないし」
「五百円は高いよ」
「屋台のたこ焼きだって、あの頃に比べて二百円くらい値上がりしてるんだもの。あの小瓶だって、今ならそのくらいはするって」
あの小瓶に五百円なんてぼったくりだね、と杏樹が笑った。
わたしは今でも祭りや蚤市に行くたびに、あのがらくたを並べて売っていた露店の主の姿を探してしまう。
青いビニールの敷物の上に、年代物めいた茶碗や皿や花瓶、古びたブリキ人形や玩具の自動車、その他よくわからないような物を並べ、その中に混じって水色の硝子瓶を売っている胡散臭そうな露店の主を。
もし見つけたら、またあの瓶を買うのだ。
そして今度こそ、あの瓶の中に主が言う通り永遠が入っているのか確かめたい。
まだ瓶の中に何を入れるかは決めていないけれど。
今度は瓶の中に入れてしまっても惜しくないものを、瓶の中の永遠に閉じ込めてしまおうと思う。
わたしは手元に残ったコルク栓を見るたびに、どこかに存在しているかもしれない永遠を想い、瓶を懐かしんでいる。




