ドロップアウト
気分で更新。予定は未定。
「ソクラテスの思想に見られるように、古代ギリシャこそが人類思想史の全盛期であり、以降それを乗り越えるための試行錯誤の時代でした」
そう言って板書を続ける私の背後では、いつものように生徒同士による愚にもつかないお喋りが繰り広げられている。
「ギャハハ、そりゃあねーよ。そういや駅前にできたコンビニさ、品ぞろえやべえらしいよ」
そうみたいだなと、別の生徒が答える。
「帰りに寄ってみるべ。つうか授業たりぃよ」
そう愚痴って姿勢を崩すのが背中越しに分かる。
この学校に赴任して早半年だが、もはや落胆すら感じないまでに私の志は堕ちていた。
彼らにとっての私は、流暢に喋る鸚鵡ほどの価値しか持たない。
物珍しさはあれど、話の内容など一顧だにされず、音の羅列以上の意味を為さないのだ。
それでも私は話し続ける。
「プラトンが提唱したイデアは未だに私たちの生活の中に息づいており……」
「おーーい俊介。今日も部活かぁ?」
「そうだよ。大会が近いからお前らに付きあってる暇なんてないんだ」
「つれねぇな」
ホントはこんな授業すら受けている暇はないのにと、そう呟いている。
私だってそれは同じだ。
人類を次のステージへ押し上げるために倫理を修めたはずなのに、私がしていることといえば猿に向かって説教しているようなもの。
無用の長物であるばかりではなく、お互いにとって時間の浪費にしかならない。
このようなディスコミュニケーションを教育と呼ぶのが現代日本だ。
かくして、無為な時間に応じた金銭を得るのが私の仕事となっている。
けれどきっと私の話など誰の記憶にも残らない。たとえこの世の真実を黒板に書き連ねたとて、授業が終わればそれは簡単に消し去られてしまうのだから。
そうと分かっていて尚、誰か一人にでも届けばいいと願いながら哲学史を板書し続ける私であった。
「だからお前はアホなんだよ」
一際大きな罵声が聞こえた。
私に向けられたものではないが、ここで私の心は完全に挫けてしまう。
(私がこの場に留まる必要などないではないか)
そう確信した時である。突如黒板が妖しく発光した。
真昼だというのに、教室全体が真っ白に染まる。
白夜のような時間が終わったかと思えば、教壇の上に三人の人間が立っていた。
一人は結婚式に出るような純白のドレスを纏い、その左右を白銀の甲冑に身を包んだ二人の騎士が固めている。
訳が分からないが、事態をただただ傍観している訳にもいかない。仮にも私は生徒の身を預かる教師なのだから。
だがそんな私の責任感をよそに、生徒の一人が声を挙げた。
「何なんだあんたたち」
その気持ちには同感だが、見知らぬ武装集団にかけるには不適切な言葉遣いだと思えた。
不幸な事に、彼の言葉はそのままの意味で伝わったらしく、騎士たちは武器を構える。
「な、何だよ……」
槍を向けられた生徒は椅子ごと後ずさる。短慮の末の出来事だ。
それは同時に、この半年間、私が教えてきたことが無に帰した瞬間でもあった。
何時の時代だってそうだ。人は己の経験からしか学ぶことのできない生き物だったではないか。
人類が善に目覚めたのはソクラテスが処刑された後であるし、真に人類が救済されたのはイエスが十字架を背負った後である。
正しさが滅んだ後でしか我々は真理を観測することができないのだ。我々の眼球は後頭部についているらしい。
人類の愚かさに忸怩たる思いを抱くが、そんな私に向かって純白の女性が腰を落としながら告げる。
「お迎えに上がりました、勇者様」か
教室中が沈黙に包まれる。私にしてみれば鼻をつままれたような心持ちだ。
「貴女は何者なのです?」
間違った言葉を返せば、躊躇なく斬られる可能性を考慮しつつ、私は彼女の目的を問うた。
彼女が何を求めているのか。そして私がどのような局面に差し向っているかを確認したかったからだ。
「私しはメルクマール国第一王女、フェンリー・アイル・メルクマール。貴方の助けを必要とする者です」
鈴のような声で宣言する。
もちろん私に心当たりなどないが、そこまで言われると、何もしないのも悪い事のように思われる。
「私はただのしがない教師です。貴女が求めるような人材ではありません」
しかしフェンリーと名乗る女性は持論を譲らない。
「我が国は危機に瀕しています。それを救ってくれるのが貴方だという予言が宮廷魔導士から下されました。不自由をお掛けしますが、何卒私しと共に来ていただきたいのです」
そう言って彼女は私に手を差し伸べる。その瞳は一切の虚飾を排した真摯な光を浮かべているように見えた。
今にして思えば、私は彼女が湛えるその光にやられていたのだと思う。
動物園の猿山に向かって餌をやるだけの私に、貴方の能力が必要だと言ってくれる人間がいる。
ようやく〈現実界〉における選択肢が与えられたのだ。
才能などない私だが、できることなら人類の未来に奉仕したい。
だから彼女の手を取るのに躊躇いはなかった。
「では参りましょう。我が国へ」
そう言って彼女は黒板の中へと吸い込まれていく。
その後に飲み込まれるのは私であったが、生憎と後ろを顧みる必要などなかった。