第91話 勇者として、使徒として
前半はライ視点、後半はノア視点になります。
戦争が終わって、魔族になってしまったユウが連れ去られて……数日が過ぎた頃。
イクシア城の一室でマナミとミサキの二人と一緒に眠っていた朝、
「勇者ライ。問題が起きました。お時間よろしいですか?」
という、不気味なまでに綺麗でそれでいて透き通ったノアの声とノックの音で勇者ライこと俺は目を覚ました。
「……ノアか。ゴメン、ちょっと待って」
すやすやと眠るマナミの頬を撫で、寝ぼけ眼で俺を見つめてくるミサキにクスリと微笑むと俺は急いで普段着を着る。
そして、机の上に置いていた聖剣を腰に差すと、ノアの待つドアの前まで駆け寄り、ほんの少しの隙間を開けて声の主の姿を確認した。
「おや、お楽しみ中でしたか?」
綺麗な白い髪に絹を思わせる白い肌、日本では先ずありえない白い瞳と全体とマッチし過ぎて逆に目立つ月白の鎧ドレスのノアが僅かに姿を覗かせ、少し見惚れてしまう。
一方、ノアは俺の服装や後ろの状態をチラリと見て、冗談を言ってきた。
「……君が冗談を言うところなんて初めて見たよ」
聖女であり、聖騎士でもある超常の存在……聖神教のトップに最も近い地位に俺と同い年で〝立たされている〟ノアの能面のような無表情に少し驚きながら言葉を返す。
「朝からお盛んですね」
「止してくれ。これでも経験は浅いし、元気もない」
リュウやショウさん、アカリにトモヨの四人は戦争終結直後に姿を消した。
ユウが連れ去られて絶望していた俺に罵声を浴びせ、軽蔑の視線を送った皆のことだ。多分、ユウを探しに行ったんだと思う。
それに対し、俺達のようにイクシアに留まっている異世界人は戦争終結後、ひたすら城に閉じ込められている。
リュウ達のように逃げ出されても嫌だろうし、精神的ショックで傷付いている数人を下手に刺激したくないんだろう。
斯く言う俺やマナミもその一人である。特にユウのことが心配で俺のことが許せないマナミは未だに俺を責めては涙を流す。
俺はただマナミの悲しみを受け止めるだけだ。
俺のことを好きだと言ってくれたミサキが庇ってくれたりもするけど、マナミの言う通り、ユウが魔族になったのも居なくなってしまったのも全て俺のせいなのだから。
そんな状態で最低限しか部屋から出られないとくれば元気なんか出る筈もないだろう。
「ふっ……では、率直に申し上げます」
初めは固かったが、それでも初めて会った時と比べれば明らかにちょっとした笑顔や儚げな眼差し……いや、〝感情〟を感じさせるようになったノアはその佇まいを正すと、真剣な声音で思いもよらない『要請』を口にした。
「教祖様から勅令が下りました。勇者様と再生者様の力をお貸し頂けますでしょうか」
場所が場所ではあるが、正式な頼み事らしく、両足を揃えて左胸に右拳を当てる聖神教の敬礼をするノア。
まだ早朝ということもあって静かだった為か、その声はやたらと辺りに響いた。
教祖様というのは文字通りの意味、聖神教のトップのことだろう。
何百年、何千年も続いているらしい宗教の教主、ではなく、教祖というところにとてつもない違和感を感じるが、今はそこにツッコミを入れる時じゃない。
「……と、言うと? そもそも俺達は今、軟禁に近い状態だ。マリー……じゃない、女王様に話を通してくれないとどうしようもないよ」
「陛下には既に取り次ぎました。内容に関しましては……ここでは話せません」
……つまり城で働いてる人やスパイみたいなのに聞かれたら不味いこと、か。
「わかった。少し待っててね。……ここには転移魔法で?」
朝から応接室を借りるというのも悪いし、俺の部屋で良いだろうと判断した俺はミサキにマナミを起こして服を着るように言ってから移動方法を尋ねた。
「はい」
「やっぱりか。不法侵入は感心しないな」
「早急に対処せねばならない案件なのです。多少の無礼や失礼は承知の上です」
「他国の城に忍び込んでまでって……大事だね」
少しすると、寝間着やあられもない姿から普段着、部屋着へと変えた二人から許しが出たのでノアを部屋に招き入れる。
「私が感知出来る範囲では誰も居ません。貴方は?」
「俺の方も……うん、居ないね」
部屋に入り様、耳元で囁くノアに短く返す。
それを聞いて一応とばかりに『時』の特殊魔法の応用で部屋全体を覆うちょっとした亜空間を作り出し、音を完全に遮断するノア。
そこまで気を付けなければいけないほど重要な話なんだろう。
「早朝に失礼致します、再生者マナミ、【縦横無尽】のミサキ」
「……おはよう、ノアちゃん。私達は聞いても良いの?」
「おは。特にアタシねー……二人ほど特別な力なんて持ってないし」
「おはようございます。構いませんよ……いえ、というより異世界人全員に協力をお願いしたいくらいです。我々聖軍だけでは手を焼くどころか対処出来ない可能性すらありますので」
戦争は終わったし、イクシア以外の国に行ったことがないから情勢もわからない。
何処かの国で何かあったのだろうか?
やけに助力を望むノアにマナミ達と何事かと目を合わせながら話を促す。
「では始めに……この世界には〝厄災〟と呼ばれる十二体の特別な魔物が存在します。数百年、数千年、あるいは数万年の歴史の中で人類に対し、猛威を振るってきた古の怪物達のことを皆さんはどれほど知っていますか?」
「〝厄災〟……聞いたことないな。つまり、どこかでその〝厄災〟が出たからその対処にってこと?」
「っ……ど、どっかで聞いたことあるかも……でも確かに魔物退治ならライ君か私が居れば何とかなりそうだね」
「何その如何にもヤバそうな奴等……やっぱアタシ要らなくない?」
俺とミサキはノアのハッキリしない物言いに首を傾げる一方でマナミは何かに驚いたような顔をしたものの、やはり知らないようだ。
「端的に言えば勇者ライの言う通りです。古代生物と称して部下達を向かわせましたが、既に少なくない被害が出ていると聞きました。そこで貴方方には……」
そこまで言ったノアは相変わらずの無表情を貫いたまま固まってしまった。
思わず二人とまた目を合わせる。しかし、数秒経ってもノアに動きはない。
ノアの機械を思わせる固い無表情を見る度に若干の恐怖を覚えてしまう俺だけど、今のノアには全く別のことを感じていた。
まるで何かを伝えようかどうか悩んでいるような……俺達に心を開こうとしてる、のか……?
そうして黙考すること十秒程。
ノアは再び口を開いた。
「……助力を求めるのならば、やはり説明はしておくべきだと判断しました。ここからは誰であろうと他言無用なのですが宜しいですか?」
元から人に言い触らすような性格はしていない。
俺達は無言で頷いた。
「世界を平和に導き、人々に安寧の日々をもたらす聖神教には力が求められます。それは〝厄災〟が相手であろうと同じこと。しかし、当然ながら人の身には限界があります。故に『禁忌』とされる封印の魔法を用い、数々の偉業を成し遂げてきました」
『禁忌』……召喚されて直ぐにさせられた勉強で何度か目にしたことがある。
強すぎる、というのもあるけど、代償や被害が大きすぎるからこそ『禁忌』。確か、ものによっては命を代償にして発動するような魔法とか他者の魂を操る死霊魔法のようなものもあった気がする。……後はイクシア側は何も言わないけど、俺達を呼んだ召喚の魔法も多分『禁忌』だろう。
まあ、要は属性問わず、犠牲を強いられるほど強力な非人道的魔法の全般を指すってことだね。
「封印の魔法とは多大な魔力と相当数の命を代償にして一定のエネルギーを持つ物体に対象を封じ込めるものです。使われる事自体があまりないので全てが、とは言いませんが大抵のものは事前に用意した専用の道具に封じ込めますね」
「「「…………」」」
効果だけなら想像しやすいけど、その代償を聞いてしまうと辟易としてしまう。
魔法がある世界なのに封印だけでそこまで求められるなら異世界人である俺達の召喚にはどれくらいの代償があったのか……マナミ達も同じことを思ったらしく、黙って聞いている。
「ですが、相手が〝厄災〟となると専用の道具では封じ込めきれず、力が滲み出てきます。その場合、周囲に様々な悪影響が出るので根本的な解決には至りません。ですので、聖神教はある時から力のある者の身体に封じ込めることにしました」
「……まさかっ」
フィクションとかだとよくあるけど……まさか代々受け継ぐようにして身体に封印したり、あるいは……
「ご存知の通り、私の身体は聖女と聖騎士の力を秘めています。生まれながらにして『担い手』として認められた私には五体の〝厄災〟が宿っていました」
「……ッ!」
それを聞いた瞬間、聖神教のやり方に、そして、その業を当然のような顔で引き受けているノアに自分でもわからないほどの怒りを覚えた。
こんな……まだ二十にもなってない女の子をどこまで辛い目に……!
「この通り、それぞれ四肢と首に封印の魔法の刻印があります」
そう言って鎧ドレスの布部分を捲り上げて首元と太股にある黒い模様のような紋章を見せてきたノア。
そして、何事もないように続けた。
「封印に使える最低限の力を持つ『担い手』では寿命を削られるようですが、幸いにして私は常に激痛や息苦しさを感じるだけで大事には至りませんでした。それを見抜いた教祖様により、恐れ多くも赤子の頃から人々の役に立つことが出来ているのです」
自分を可哀想だとも不幸だとも思っていない白い瞳。
多分、ノアにとって何とも思わないくらいそれが普通で……当然で。
でも、ノアは戦争孤児だと聞いた。
それはつまり……
偶々、戦争に巻き込まれて家族を失くし。
偶々、聖神教に拾われ。
偶々、職業に恵まれていたせいで力を求めている聖神教に聖女、聖騎士ノアとして祭り上げられたということ。
こんな偶然があるのだろうか?
ノアの誕生に気付いた聖神教が民間人を巻き込むようにして戦争を起こし、ノアを回収した……?
ノアの死んだような瞳も時折覗かせる狂信者染みた言動も何もかも聖神教の奴等に洗脳されたから……?
今みたいに小さくない代償を背負ってまで身体に魔物を封印するのが当然だと言いたげな無表情もその〝偶然〟のせいで……?
そんなことが脳裏を過った瞬間、思わずノアを抱き締めていた。
「……勇者、ライ? 何を……?」
「ゴメン。これは俺の勝手な妄想かもしれない……君からすれば腸が煮えくり返るくらいムカつくことなのかもしれない……けど、多分本当に起きてしまったことで……本当に心の底から君を可哀想だと思ってしまった。俺の《直感》も今俺が想像した君の過去を事実だと告げている。だから、君は……」
初対面の時も感じていた歪で不気味な笑顔や瞳の奥のゾッとするほど、ドロドロした怪しい光……《直感》すら認めるノアの境遇を思えば頷けるものばかりだ。
初対面の時もそれを表面的に感じとっていたせいで、俺はノアを守りたい……守ってあげなくてはいけないと思っていたのか。
「……?」
「ど、どうしたのライ君?」
「何よいきなり……ねえちょっとっ、ら、ライ……?」
相変わらずの無表情のまま俺を見上げるノアと俺の突然の行動に驚いている二人。
俺はこの三人を守り、幸せにする……するべきだと、何故かそう思った。
「わかったよ……ノア。再生した右腕から刻印が無くなっていたんだね?」
確信を持って尋ねた俺に対し、ノアは以前マナミに治してもらったばかりの右腕を擦りながら答えた。
「……はい。恐らく、あの『闇魔法の使い手』に切り落とされたのが原因かと……」
やっぱり、ユウの……いや、俺のっ……せいで……!
意図せずしてノアを抱き締める腕に力が入る。
流石のノアでも少し苦しそうにしていたので力を緩め、代わりに頭を撫でる。
「……? な、に……を?」
ユウが暴走してしまったのも、ユウが魔族になってしまったのも、ただでさえ辛い人生を送っているノアの片腕を一時でも失くさせてしまったのも、〝厄災〟の封印が解かれて被害が出てしまったのも……
全て、俺のせい。
「…………」
なら。
「俺が君を守る。俺がノアの右腕に封印されていた〝厄災〟を何とかするよ」
それが勇者としてやるべきことだ。
俺に出来る最大限の力でもって〝厄災〟を滅し、ノアを助け、ユウを取り戻す。
ノアとユウは使徒同士の干渉によって生まれる互いの嫌悪感とか敵意で殺しあい掛けた。
それは俺もだから抗えないのはわかる。
けど、それでも二人は悪い奴じゃない。
ノアは可哀想な生い立ちだけど人の為に生きようとすることが出来る子で、ユウは口は悪いけど本当は優しくて人のことを思うことが出来る奴なんだ。
だからそんな理不尽に負けない術を探して、皆で乗り越える。
それが出来ないのなら神様に直談判でもするしかない。言って聞かないようなら……神様は〝敵〟だ。俺達を苦しめ、悩ませ、争わせる元凶。
少なくとも。
その時はそう思っていた。
ユウの変わり果てた姿を見るまで。
そして……神様の威光に当てられるまでは。
◇ ◇ ◇
勇者ライを含めた異世界人に助力を乞いてから数日後。
私は忌々しい『闇魔法の使い手』に顔を焼かれてから塞ぎ込んでいる勇者イサムを除いた異世界人の方々と共にイクシアを旅立ちました。具体的に言えば勇者ライ、再生者マナミ、【縦横無尽】のミサキ、【多情多感】のシズカの四人です。
私の腕は何故か勇者ライが再生者マナミに懇願するように頼み込んでくれたお陰で直ぐ治してもらいましたが勇者イサムの場合は患部が顔ですし、未だ許してもらえず、激痛に悩まされる毎日を送っているそうです。それでも私には理解出来ませんが彼にとって耐えられない何かがあるのでしょう。
素質だけならかの魔王を殺し足り得るのですから、早く立ち直ってほしいものです。
また、転移魔法があるとはいえ、私一人で飛ばせる範囲と距離、質量には限りがあります。
その為、普段は馬車での移動をしつつ、魔力が回復し次第転移を繰り返し、軍と合流。そこから交代で全体の移動をしてきました。
現在はイクシアの南部。
例の〝厄災〟が蔓延している危険地帯です。が、早い段階で動けたからか一度遭遇した際に部下が数人殺られただけで後は全くと言って良い程には見かけて居ません。
予め調べた情報によると封印が解かれた〝厄災〟は根源さえ絶てばそう遠くない内に消滅するらしいので、早期解決に越したことはないのですが……問題が幾つか発生しました。
先ず、被害のある一帯から総じてジンメンと呼ばれている〝厄災〟のせいで盗賊や野盗の類いが倍増し、勇者ライ達による『盗賊討伐』のお願いの為に足止めをされていること。
殺人経験が無かったらしく、勇者ライを含めた数人が『盗賊討伐』の際に精神的ダメージを負ったこと。
最後に再生者マナミが意識不明の重体になっていることです。
盗賊等は放っておけば勝手に死にゆくか、冒険者辺りに討伐されるものだと説明したのですが、勇者ライと【縦横無尽】のミサキは割り切れなかったようで「盗賊の被害で困っている人が居るなら解決する」と当初の予定を変更して盗賊の討伐に乗りだし、不殺の精神とも甘さともとれる『生け捕り』と言う愚かな行動をとりました。
幸い、我々聖騎士が殺す分には複雑そうな表情で見つめるばかりで文句はありませんでしたが……生け捕りにした盗賊達の生い立ちや境遇を態々聞きに行き、同情したのは不味かった。
その相手が捕らえた盗賊達の中でも一際強さが目立っていた元傭兵団だったのも要因の一つでしょう。
兎に角、その元傭兵団団長の口車にまんまと乗せられた勇者ライ達は拘束していた筈の元傭兵団達を取り逃がし、挙げ句には我々の足を止めようとした元傭兵団団長が投擲した大ハンマーが再生者マナミの頭部に見事命中。不意を打たれた勇者ライや勇者ライからの制止があった部下達は棒立ちだった為に守り切れなかったそうです。
その上、再生者マナミがやられたことに激昂したものの、結局人を殺めることが出来ずに逃げられる始末。
まさかとは思いますが……勇者イサムもこうなのでしょうか?
先日、勇者ライに抱き締められてから妙な火照りを感じていた身体や心が凍ったのではないかと思ってしまうほど冷めました。
これまた不幸中の幸いで幾ら後衛でも異世界人ということもあり、再生者マナミの命には別状ありませんでしたが、不死の軍団を生み出し、勇者ライの心の支えであった再生者マナミが倒れた以上、進むに進めません。
自分の身勝手な都合と身勝手な振る舞いと身勝手な価値観の押し付けでこうなっているのに「マナミがこんな状態なのに無理やり動かすなんてっ!」と怒鳴られる私の身にもなってほしいものです。
勇者ライ曰く、頭を強く打ち付けた人を動かしてはいけない、らしいのですが……我々も聖騎士なので当然回復魔法は使えます。何故、ダメなのでしょう。
あれもダメ、これもダメとあれでは駄々を捏ねる子供です。
一つ違いとはいえ、そう言われた時はこの人は本当に年上なのかと一瞬、疑いました。
けど……逆に言えば成人しても尚、そんな考えで生きていける世界から連れてこられたということ。
普段の彼を見る度に、主様に選ばれ、喚ばれたことを光栄と思っていないのか、感謝の気持ちはないのか? と常々疑問に思っていた私でもこの時ばかりは何も言えませんでした。
「……全部、ユウの言う通りだった。俺が殺さなかったからマナミがっ……殺さないと、やられる……でも人が人を殺すなんてっ、死んだら何も残らないじゃないかっ! ……死んだら……不幸になる人だけが増える……人の死は何も生まない……」
とは意識が戻らない再生者マナミの前で言っていた勇者ライの言葉です。
その言葉は何故か頭から離れず、野宿で数日を無駄にしている今でも思い出します。
ユウ、というのはあの『闇魔法の使い手』のことでしょう。
勇者ライ達と同じ世界に生まれ、比較的似た境遇で育ち、同じ教育をされたとは思えないほど、あの男はこの世界に順応している……本来ならば『真の勇者』足る二人がそうあるべき筈なのに。この差は一体……
「召喚前は同じ。ならば召喚後の境遇の差……。確かイクシアは私財を擲ってまで世界最強の名高い『狂った剣聖』を雇っていましたね」
……そうです。確か剣聖が「弟子は一人しかとらない」と公言し、『真の勇者』ではなく『闇魔法の使い手』を選んだ……そして、彼女なりの教育を施した結果、彼等からすれば異なる世界であるイクスの過酷な環境に適応した……?
…………。
成る程。〝アレ〟はつまり、剣聖が残した負の遺産……
「いえ、残念ながら死んではいないようなので遺産とは違いますね……」
部下が用意した私専用のテントの中で独りごちる。
そうして数秒瞑目した私は徐に懐からイクシア周辺の地図を取り出しました。
「先の戦争で現れた『付き人』らしき男の邪悪な気配は〝アレ〟を捕らえた後、イクシア南部の森へと消えていった……上級騎士達にその後を捜索させても結果はなかった。ということは……〝アレ〟を連れて再び何処かへ消えた。もしくは…………」
何らかの目的の為に助けただけなら〝処理〟されてそうで良いのですが、あの感じ……
〝アレ〟に何らかの役割があるから助けた……ような気がします。
何と表現すれば良いのかわかりませんが、『付き人』の気配が吐き気すら催す邪悪ならば〝アレ〟の本質はどちらでもない……いや、どちらにでもなれる極端過ぎる存在……とでも言いますか。
〝アレ〟はただ『闇魔法の使い手』だから今の内に殺すべきだと《直感》したのではない……そう思えるほどには不気味な……
例えるならば『闇魔法の使い手』たる素質と正義にも悪にもなれる心を併せ持った異質な者、でしょうか。
勇者ライや勇者イサムは『真の勇者』らしく、正義のみを執行し、己の信じる道を進めますが……あの男は違う。
進む道によって自らの形を変えて適応し、全てを飲み込んでいく化け物……。
そんなものは人ではありません。
今はまだ善悪で揺れる心の〝揺れ幅〟は小さく、振り子の運動が生む力は大したものではありません。勇者ライの方が余程、強い……ですが勇者ライが一度に大きく強くなるのに対し、〝アレ〟は徐々に徐々に際限なく力を付ける。少しずつ〝揺れ幅〟が大きくなっていく……
それがもし……もし、最大限に成長した状態で〝悪〟の側で止まってしまった場合、この大陸……いえ、世界全体を大きく揺るがす何かを引き起こす…………
そう、感じる。
十と数年という短い間でも両手の指では数えきれないほど私を助け、導いてくれた《直感》がそう囁いている。
「人類の救世主である勇者は晩熟、人類の敵である『闇魔法の使い手』は早熟とは……厄介なことです」
地図の上に滑らせた私の指が現在地からするすると南下していき、イクシア領からはギリギリ出ない位置にある大きな町を捉えました。
異世界人のステータスであることを鑑みて、この数日で辿り着けそうな場所はここだけ。
他は人が住んでいない地か、他国の領土になる。流石にこの短期間では……
「ふっ、もしかしたら……今回の〝厄災〟は〝アレ〟の足止めに主様が遣わした使い……なのかもしれませんね」
ジンメンと呼ばれている〝厄災〟は他と違って対処のしようがあります。
要は殺人胞子にさえ気を付けていれば良いのですから。
「……過去の被害から割り出されたジンメンの繁殖力を考えれば町に寄らず、一直線に逃げなければいけません。ですが……人はどんなに強くても一人では生きられない。『付き人』が我々の手から逃がしただけなら必ず町に滞在している」
今ならまだ間に合う。
あの化け物が……〝アレ〟が成長する前に殺す。
勇者ライ達には魔王を討伐し、世界を救う使命があるのです。
ならば、それを補助する我々聖軍は『神の使徒』としてそれを阻むであろう『闇魔法の使い手』を討伐しなければなりません。
バレれば只では済まないでしょうが……人を消す手段など幾らでもあります。
「最悪は私を〝敵〟として配置すればどの道、世界は救われる……」
勇者ライは怒りを力に変えられるタイプの人間です。
友人を殺した私に怒りを抱くことはあれど、だからといってそれを民に向けることはないでしょう。
つまり、ただのレベルアップに過ぎない。
人を殺せば経験値は手に入る。
そういう意味でも勇者ライの成長に繋がる。
そう、例え私が殺されても世界が救われるのなら……
「………………何でしょうか、この……痛み、は……?」
以前なら世界の平和の為に躊躇いなく自害することも出来ました。
ですが……今は、
「死んだら何も残らない」
という勇者ライの……ライの言葉が頭の中に木霊しているせいか、とてもそうは思えませんでした。




