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午前十時半、トイレに行くついでにメールを確認すると「転職GOOD」からメッセージが届いていた。開くと、なんと面接の話で、あまりの早さに呆然とする。
面接の時間は今日の正午、会社近くの公園で、ダイチはその時間と場所に驚くしかなかった。
迷惑メールか何かの類としか思えないが、会社情報が気になり、メールを読み続ける。
「エイガインズ?」
会社名を見たとたん、思わず声に出してしまった。
狭いトイレで声は響き、視線が彼に集中する。
恥ずかしさを隠すため、彼はトイレの個室に入った。尿意も薄れ、彼は食い入るようにスマホの画面を見る。
エイガインズとは、彼の会社の大手顧客で、その情報は本物だった。記載されているウェブサイトも公式なものだったが、担当の名前がなく、やはりたちの悪い迷惑メールだとダイチはスマホを閉じた。
するとすぐに尿意を催し、用を済ませる。
正午、ダイチはコンビニの弁当を買うために、あの公園近くを通る。悪戯とはわかっていたが、気になり、思わず近づいてしまった。
街の中にあるというのに、その公園は何時もじめじめしており、人影は少ない。今日も同じで、そこだけ異空間のように静さが漂っていた。
「クウン」
茂みの奥から鳴き声がして、覗き込むと子犬が倒れていた。その傍には女の子の靴があり、ダイチは反射的に茂みをかき分けて公園内へ侵入した。
白の毛並みはよく手入れされており、飼い犬であることがわかる。動かないので、どうかしたのかと注意深く見ると、後ろ脚から血が出ていた。顔を見ると、痛みに耐えているような表情で同情を誘う。彼はスマホで近くの動物病院を探し、すぐに子犬を連れて行った。
「何か鋭利なもので切られたみたいです。どうされたんですか?」
「いや、私もわからないんですよ。公園で見つけて」
「そうですか。あの治療費は」
「安心してください。それは払います」
見て見ぬふりができなくて、犬を助けてしまった。治療はいいが、飼い主がわからないのだったら、どうすべきかとダイチは悩む。同時に近くに落ちていた靴が気にかかっていた。
「ちょっと預かってもらえますか」
「は?」
「ちょっとだけですから」
彼は無理やり頼み込み、公園に戻る。
とっくに昼食時間は過ぎていて、そんなことしている場合じゃない。でもあの小さな靴が気になった。
戻ると靴は消えていて、狐に包まれた気分になった。
「あの、子犬が目を覚ましたんですけど」
「預かってもらえませんか?」
「しばらくはいいですが、午後六時までです」
「そうですか。じゃあ夕方迎えにいくので」
だが、動物病院から電話がかかってきて、夢ではないことを知らされる。ダイチはとっさに迎えにいくと答えてしまったが、その後に盛大に後悔した。
一軒家なので犬を飼えないことはない。しかも子犬だ。
電話で相談する勇気がなくて、ダイチはメールをリエナに送り会社に戻った。二時間近くもお昼から戻って来なかったにもかかわらず、誰も文句を言うものがいなかった。
それは、彼の存在がもう会社にとって必要ないと証明されている気がして、ダイチは暗い心境のまま、昨日の報告書に手をつける。午後五時ちょうどに仕上がった報告書を橘に持っていくと「お疲れ様。もう帰ってもいいですよ」とにこやかに答えられた。
昨日から職場の雰囲気が変わったようで、ダイチにとってそこは居心地が悪かった。人々は彼と目線を合わせようとせず、気がつくと同情を帯びた視線で見られているようだった。
――十四年も会社に尽くしてきたのに。
そんな言葉が聞こえてきそうな視線だ。
橘からの申し出はきっと社内に広がっているのだろう。そうとしか思えない雰囲気で、ダイチは今日も定時で会社を出た。
恐る恐るメールを確認すると妻から返事がない。
犬を迎えるが、ダイチはどうしようかとあの公園に戻ってきていた。
――ここで捨てるか。手当てしてやっただけで十分だ。
自分に言い聞かせて、ダイチは抱えていた子犬を公園に降ろす。
そっと立ち去ろうとしたが、子犬がキャンキャンと吠え、彼のスラックスの端を引っ張る。
「やめろ。ズボンがだめになるだろ!」
思わず大声を出すと、犬は傷つけられた恐怖を思い出したようで、身構えて縮こまってしまった。
「悪い。暴力を振るったりはしない。だが、俺はお前を飼えないんだ。悪いな」
動物に話しかけるのも滑稽だと思ったが、ダイチはそう言って立ち去ろうとした。
だが犬はやっぱり同じ行動を繰り返す。
舌打ちしてしまい、子犬をよく見る。
すると、彼は気がついた。子犬は彼のスラックスを噛んだ後、別の方向に向かって吠えていた。それは彼をどこかに連れて行こうとしているように思える。
スマホを確認し、時間とメールを確認する。
時間はまだ六時で、メールの返信はない。
「付いていってみるか」
ダイチがそう言うと、子犬は嬉しそうに鳴いて噛むのをやめ、歩く。しかし、足を負傷しているため、歩みは遅く痛々しい。
彼は子犬を抱えた。
「どこに行けばいいんだ?」
子犬はダイチの言葉がわかるようで、ワンと勢いよく一度吠えた後、右側に顔を向け、もう一度吠えた。
☆
子犬が顔を向ける方向へひたすら歩く。道はどんどん山道になり、一軒の古ぼけた家にたどり着いた。
家から誰かが出て来て、子犬が唸る。
ダイチはあの女の子の靴を思い出し、反射的に木の陰に身を隠し、子犬を宥めた。
男は二十代後半に見えた。耳を完全に覆う癖のある黒髪に大きめの黒縁眼鏡。着ているのは黒色のTシャツにダボダボのチノパン。元は白かったはずのスニーカーは汚れていて、彼は少し挙動不審に見えた。
ダイチは彼の背後の家に目をやる。
家の中に、子犬の求めている人物がいるかどうかはわからない。
しかしダイチは、家の中にいるのが、あの小さな靴の持ち主の女の子だとかなりの確率で信じていた。
「おい!待て!犬!」
観察したままで動かないダイチに痺れを切らしたようだ。子犬がダイチの腕から逃げ出す。そして、足を引きずりながらも男に向かって駆け出した。
盛大に吠えたせいもあり、男がすぐに子犬に気がつく。そうなるともちろん、ダイチも一蓮托生だ。
身長百六十七センチ、小柄なダイチに対して、男の身長は百七十センチを超えたもの。ダボダボの服のせいか、ダイチよりもかなり大柄な印象だ。
「お前!誰だ!」
男は一直線にダイチに向かう。
子犬が走りがけの男に先制攻撃をかけた。男はすっかり子犬の存在を忘れていたようで、足に噛みつかれ、叫び声を上げた。
「くそ犬が!」
「危ない!」
ダイチは男の行動を予想しており、首のあたりを掴んで投げ飛ばされた子犬を地面に激突する前に抱きとめた。
「な、なんだ、お前は!」
彼の素早い動きに少し動揺して、男は折りたたみナイフをポケットから取り出すと振りまわす。
――なんだよ。こいつは!っていうか俺、喧嘩なんかしたことなんだけど。
子犬を抱いてうろたえるしかないダイチだが単に逃げるわけにはいかない。家の中にはきっとあの靴の持ち主がいるはずだ。彼はアメフト選手のように子犬を抱え、男から逃げ出すと、自殺行為だとわかっていたが玄関から飛び込んだ。
「ワンワン!」
そのとたん、子犬が腕からすり抜けて足を引きずりながらも駆ける。
玄関からは男が憤怒の形相で迫ってきた。
ダイチは子犬を抱く余裕もなく、子犬をただ追いかけて、小部屋にたどりついた。
子犬は扉に頭を何度もすり寄せ吠えていた。ダイチは駄目元でノブを掴む。
カチリとノブが回る音と同時に男の怒声が背後から追いかけてくる。
ダイチは扉を開けると、すぐに締めて鍵をかけた。
ガンガンと扉を叩く音がした後、舌打ち。それから静かになった。
――鍵を探しにいったのか?
それであれば扉を塞ぐものと、ダイチはすぐ近くの本棚を必死に移動させた。扉を塞ぎ、彼はやっと部屋を見渡した。
八歳くらいの女の子がそこにいた。
白のワンピースにツインテールの可愛らしい少女。真っ暗な部屋の中でも彼女のワンピースの白さが目立つ。手足は拘束され、口元にはガムテームが貼られていて、喜びの声を上げる子犬に対してモゴモゴとなにか言っていた。
「今外すから待ってろ」
彼が彼女に近づく。同時に鍵束の立てる金属音が聞こえ少女の肩が震える。鍵穴に鍵を差し込んだ音が耳に届き、少女の表情がますます怯えてものに変わった。
「あ?なんだ?開かないぞ」
扉の前に置いた本棚は功を奏したようだ。男が扉を開けられず八つ当たりのように扉を叩き始めた。
子犬は扉に向かって盛んへ吠えたてる。
「大丈夫だ。心配するな」
ダイチは焦りながら彼女のガムテームを剥がした。
「来る!早く逃げなきゃ!」
声を出せるようになった少女は半泣きでそう叫ぶ。
本棚はさすがに重いらしく扉が開く気配はない。
ダイチは少女を宥めながら、その手足の拘束をどうにか解く。そうして懸命に手を考える。出入り口は一箇所しかない今、外に出るのは不可能だった。窓もない。
「そうだ、警察!」
やっとその手を思いついたダイチは自分を殴りたくなった。
「今、篠山町のはずれの廃屋でさらわれた女の子を助けようとしてます。男がナイフを持ってます。早く来てください!」
スマホをポケットから取り出し、緊急番号を押してオペレーターに向かってまくし立てる。
「何しているんだ?あん?」
すると急に男がヤクザ風な言い方をし、扉を抑えていた本棚が一気に押された。
ーーどんな馬鹿力だ!
「きゃああああ!」
恐慌状態に陥った少女の叫び声、そして勢いよく押された本棚がゆっくりと前のめりに倒れる。鈍い音が響き渡り、埃が部屋に舞い上がった。
一瞬怯えてた子犬が再び扉に向かって吠え始める。
ーーどうする?隠れるしかない!
ダイチは少女の手を引くと、ソファの背後に逃げ込んだ。目を白黒させる彼女に静かにするように人差指を唇に当てる。彼女が頷き、二人は息を潜めて男の動きを探った。
二人の動きに気づいてないのか、それとも子犬は女の子を守るためか、絶え間なく吠え続ける。
「くそっつ!」
男は扉をこじ開けようと試みているようだ。扉を押す度に倒れた本棚が床を擦り鈍い音を立てる。子犬の鳴き声、擦れる音と振動が響き、ついに扉が人一人分通れるくらい開いた。
瞬間、子犬が男に襲いかかる。
だが、彼は子犬の行動を予測済みだったらしく、足蹴にした。
「ハク!」
怯えていたはずの少女だが、ダイチが止めるより早く動いた。
床に蹴り倒された子犬ーーハクを抱きしめる。
「ハク、ハク!」
「ああ、面倒になってきた。これで刺しちまおう!お前たちが悪いんだ!お前たちがあぁ」
男が少女に向かってナイフを振り上げる。
その時の記憶はダイチにない。
咄嗟に体が動いていた。
ソファの奥から飛び出すと、少女をかばう。
背中に熱い痛みが走った。
「おじちゃん!」
ーーおじちゃんか。なんか悲しい響きだな。
痛みの中、そんなことを思えることがおかしくて、ダイチは笑いたくなった。
「俺があいつをぶっ飛ばすから、その間に犬を連れて逃げろ。俺が失敗するかもしれないから、遠くに逃げて警察を探せ。わかったな」
「おじちゃん?」
「なんだ、なんだ?お前が俺をぶっ飛ばす?死ねや!おっさん!」
「おっさん?お前におっさん呼ばわれされたくないわ!」
「おっさんはおっさんだろうが!」
「うるさい!」
ダイチは自分でも驚くのだが、ナイフを持った男に立ち向かい、その両手首を掴んでいた。
「逃げろ!早く!行け!犬……ハクが死んでも良いのか?」
彼がそうまくし立てると女の子は子犬を抱えてで扉へ走る。
「行かせるかよ!」
「させるか!」
男はダイチに両手首を捕まえらえているのに少女を追おうともがく。彼は逃さないと必死に手首に力を込めた。
「しけたおっさんのくせに!」
身動きがとれない男が悪態をつく。
男の悪態など物ともしないが、ダイチは背中がじくじくと痛んだ。痛みのため、気を緩めると意識が飛びそうだった。
だが、懸命にこらえる。
「おい、お前!」
自分にハッパをかけるつもりで男に言い返す。
こんな闘志があることに驚きながら、彼は男を睨む。
けれどもダイチの奮闘はそこまでだった。
どうみても体育会系に見えない男なのに、彼はダイチに蹴りを加える。予想しない攻撃を受け、ダイチはそのまま転倒した。
「ははは!俺の方が強い!」
男は少女を追わず、勝利宣言をすると、ナイフをダイチに向かって振り下ろす。
血が飛び散ったのだが先か、痛みが走ったのが先、ダイチは肩を切られた痛みに身を悶えさせる。
「顔見られているから、確実に死んでもらう」
男はニヤニヤ笑いながら、血を流している肩を踏みつける。焼けるような痛みでダイチは声を上げた。
ーーこいつ。おかしい!
嬉々として肩を踏み続ける男の顔は狂気に満ちていて、ぞっとする。
「すみません。中邑さん」
意識を手放しそうな時、ふいに声がして男が倒れた。
朦朧とした意識の中で目をこらすと、そこにいたのは橘ケンイチだった。
「中邑さん、見事合格です。まさか中邑さんがここまでファイトを見せるとは思っていなかったですけど。少女は無事です。警察が来ます。安心して眠ってください」
――どういう意味だ?合格?
けれどその疑問は口から出ることはなかった。
ダイチは誰かに意識を断ち切られたように、一瞬で気絶した。
「新しい会社で頑張ってください。中邑ダイチさん」
気を失ったダイチを見下ろし、橘は微笑む。そして空気に溶けるように消えた。
☆
一ヶ月後、ダイチはエイガインズの社員になっていた。
あの後、警察が駆け込んできて、彼は病院に緊急搬送された。全治二週間の怪我と診断され、背中も肩も深手ではなく、数針縫うくらいで済んだ。
病院にかけつけた妻のリエナは彼を怒鳴りつけながら泣き、息子のカイトは終始不機嫌顏だった。
助けた少女はエイガインスの社長の孫で、病院に入院している間に子犬も連れてダイチの見舞いにきていた。
その時、社長は「今の会社を解雇されかかっているなら、我が社に来ないか?君みたいな誠実で、男気のある人を是非我が社へ迎えたい」と熱心に口説いた。
ダイチは迷っていたが、決断できたのは、十四年働いていた会社からも副社長と部長の訪問だった。
副社長はダイチより二十歳年上で、入社当時お世話になったことがあった。向こうは全く覚えてないようで彼は苦笑するしかなかった。部長は、橘ケンイチであったが、ダイチの知っている男とは違っていた。
その軽い言い方は同じで、ダイチを苛立たせるには十分である。態度もわざわざ見舞いに来てやったという、上から目線の態度で、ダイチは直ぐに辞職の意志を表した。
その時の二人の表情は間抜けで、ダイチはざまあみろと心の中でつぶやいたものだった。
怪我が治り、少し休養した後、ダイチはエイガインスに入社した。
彼の誠実さと男気を買って、配置部署は総務課で、社員の相談係りみたいなものだ。
残業などは存在せず、ダイチは定時でいつも帰るようになった。
妻のリエナも息子のカイトも早く帰ってくるダイチに、嫌な顔をするかもしれないと、当初は心配していたが、そんなことはなかった。
会社のためにと働きづめだったダイチは、時間を持て余すようになって、家事も積極的に手伝った。そのおかげで妻との関係も良好で、カイトに弟か妹ができそうな勢いだった。
あの橘ケンイチを名乗った男のことは、わからないままだ。
教えてもらったサイトを探そうとしたが見つからず、受信したはずのメールは消えていた。
前の会社の同僚に確認してみたが、橘ケンイチはあのいけ好かない奴と認識されており、物腰の柔らかい「彼」のことを知っているのはダイチだけだった。
ーー俺を助けてくれたのか?
会社に捨てられようとしていたダイチに彼は救いの手を伸ばした。
もしかしたら、またどこかで彼は、ダイチのように会社に捨てられそうな人を救っているかもしれない。
ーーやり方は、かなりめちゃくちゃだけど。
方法としてはどう考えてもいいものじゃない。でもあれに「合格」しないと新しい道は開けなかったのだろう。
「中邑さん」
名を呼ばれ、肩を叩かれた気がして、振り返る。
だが、見知った顔は見当たらず、皆、足を止めたダイチを追い越し、先を急ぐ。
何気なしに空を見上げると、頭上に広がるのは澄み切った青空。
夏の終わり、そよそよと風も吹き、心地よかった。
「さて、今日も頑張るか」
ダイチは前を向くと、人の波に混ざり再び歩き出した。
(完)
読了ありがとうございました!




