上
「失礼します」
今年三十六歳の中邑ダイチは、部長に呼びだされ部長室を訪れた。
大学を卒業してからすぐに入社。それから今まで勤め上げてきて、勤労十四年になる。
百七十センチいかない身長で、細身。重たそうな黒髪は、視界を遮らないように真ん中で分けられている。真っ白の長袖のワイシャツに青と白のストライプのネクタイ。スラックスは灰色で、世は平成の終わりが近いというのに、彼は昭和を代表するサラリーマンの風貌だった。
「まあ、座って」
柔らかい物腰でそう答えたのは、ダイチと同年齢の橘ケンイチ。こちらは茶色がかった髪に、百八十センチの長身。わざと着崩しているシャツは、淡い水色で真っ白なスラックスによく映えていた。
彼は帰国子女で、バイリンガル。二年前にアメリカの支社に入社。そこで営業部長を一年、今度日本本社に異動になり、本社営業部長の地位についた。前任者はインドネシア支社に飛ばされている。
ダイチは、会社のグローバル化に対応すべく四年ほど前から英会話教室に通っているがその成果はなかなか上がらなかった。海外出張の際は必ず通訳を必要としていて、テレビ会議や海外から出張者が訪れる時も通訳がいないと何もできない。
だが、語学力なんて関係ない、十四年もこの会社で働いた実績があると、周りから向けられる視線にも無頓着だった。
彼は、会社が海外に進出する前からの、いわゆる古参の社員だ。なので、外からいきなり来て、部長になった橘に彼はいい気分を抱いていなかった。しかしながら、立場上、彼は愛想笑いを浮かべて、勧められた椅子に腰掛ける。
「中邑さんはこの会社に十四年働いているんだってね。十四年。長いよね。僕は長くても五年くらいしか同じ会社にいたことがないから、尊敬するよ。だけど、長いだけで、何かこの会社の業績につながることしてる?」
橘は悪気なさそうに、笑顔でそう言ったが、ダイチにとってそれは悪意にしか聞こえない言葉だった。
「毎日朝早く、夜も遅いよね。でもさあ、そんなに長くかかる仕事なの?なんでそんなに時間かかるの?十四年も働いているでしょ?」
ネクタイもつけずに、ジャケットも羽織らず、彼は大仰なアクションを取りながら続ける。
十四年という部分がよほど気に入ったみたいで、十四という数字を語るとき、彼は外国人がよくするように、強調の意味を込めて両肘を挙げて、人差指と中指を曲げる動きを同時にする。
それがとても不快で、ダイチは我慢していたが顔を歪めてしまった。
そんな彼の表情に橘は気がつき、口元に笑みを浮かべて謝る。
「悪かったね。癖なんだ。実はさあ、君も知ってると思うけど。この会社、儲かってないんだ。だから無駄なことはしてほしくない。あのさ、二ヶ月猶予をあげる。転職を考えてほしい。首なんてしないよ。君が転職先を見つけたら、辞表を出してくれればいい。心配しなくてもいい。君の後釜はいくらでも代わりがいるから、大丈夫だよ」
軽快に語られる台詞。
ダイチは鈍器で殴られた衝撃を覚えながらも、どうにか平静を保つ。だが、なんと答えていいか言葉が出てこなかった。
「まあ、転職活動がんばってよ。僕、応援しているから」
呆然とするしかない彼の肩を、橘はエールを送るように軽く叩く。怒りがこみ上げてきて、ダイチは彼を視線で射殺さないように、顔をそらして立ち上がった。
自分のものとは思えない足を操って、どうにか部屋の外に出る。その間、橘はずっと笑顔を浮かべていた。
それから五時まで、ダイチは時空を飛んだかと錯覚したくらいだった。
気がついたら、終業時間がきており、お疲れ様だと挨拶される。
意識はなかったつもりだが、仕事はしていたらしい。机の上には書類が置かれており、目の前のスクリーンにもエクセルの表が映し出されていた。
明後日提出する予定の報告書だ。
ぐるりと周りを見渡すと、皆帰り仕度を始めていて、誰も残業する様子はなかった。
「中邑さん。今日も残業ですか? お疲れ様です」
五歳年下の後輩は、まだ独身だった。何を急ぐのか足早に部屋を出て行く。
ダイチは一人取り残された形になるのだが、目の前の報告書だけは仕上げて帰ろうかと、画面を睨む。しかし、ふと橘の言葉を思い出し、首を横に振る。
――これで残業なんかすると無能だとまた思われるだけだ。
提出日もまだ先で、ダイチは珍しく定時で帰ることにした。
☆
「珍しいですね。もう帰るんですか?」
ロビーを抜けようとしたら、橘が話しかけてきてダイチは足を止める。
――嫌な奴に会った。
その思いは見事に彼の顔に出ており、橘は苦笑した。
「いい転職サイトがあります。後でメールしておきますね」
顔を歪めたままのダイチにそう言い、橘は彼の肩を軽く叩くと入れ替わりにエレベーターに向かって歩いていく。
「何が転職サイトだ。この野郎」
ぎりぎりと歯軋りをしながら、ダイチは彼の背中を睨む。結局、胸糞が悪いまま会社を出ることになった。
☆
帰宅ラッシュの電車に揺られ、自宅近くの駅で降りる。
珍しく早く帰るから驚かれるだろうな、そんな想像をしながらダイチは帰路を急いだ。
朝の見送りも夜の出迎えもされたことがない彼はいつも通り、玄関の扉の鍵を開けて中に入る。
二階建ての庭付きの小さな家。
だけどダイチたちにとっては大切なマイホームだ。貯金をしてやっと新築したもので、 去年引っ越ししてきた。
家族構成は三人。妻はダイチより一歳年下で、近所のスーパーでパートタイムをしている。子は一人。六歳で、小学校一年生になる男の子だ。
「あれ、ダイチ。どうしたの?こんなに早く」
居間に辿り着くと、パソコンに向かっている妻リエナが驚いた顔を見せた。
「ああ、早く終わったから」
「そうなの。珍しいわね。でもその方がいいわよ。だって、ろくすっぽ残業手当もらってないじゃないの。残業するとお腹が減るからって、食費も別にかかるし。本当あなたの会社の残業なんてロクでもないわね」
ダイチは妻に畳み掛けられ、何も言わずに黙るしかない。
橘には無駄だと言われていた残業だが、ダイチだって残業手当を毎回請求していたわけではない。残業の申告を減らして、会社の負担を減らす。だから、実際に残業した分より給料が少ない。リエナがそれを不満に思っていることは知っていたが、ダイチはやめられなかった。
ダイチは十四年前に入社し、会社のためを思って仕事をしてきた。残業代もその一環。こんな風に会社に貢献している自分が、会社のお荷物にはなっていない、ダイチは今までそう信じてきた。
だが、橘はダイチに転職を勧めてきて、会社に必要のない人間だと言ってきている。
彼は会社のために一生懸命仕事をしてきたつもりだったのに、全てを否定された気がして気分が落ち込む。
「どうかしたの?」
黙ったままのダイチにさすがにリエナも心配になったらしく、口調を変えて訊ねてきた。それは出会った頃の猫をかぶっていた時の彼女と一緒で、ダイチは思わず笑い出す。
「何よ!」
「なんでもない。ちょっと元気がでた」
「元気?やっぱり会社で何かあったの?」
「な、何もないよ。別に」
「本当?あなたの会社ちょっとブラック企業みたいだから心配だわ」
「ブラックってそれはないから」
「そう思っているのはきっとあなただけよ」
リエナはそれ以上言っても無駄だと思ったらしく、溜息をつくと腰を上げた。
「今日はダイチが早く帰ってくるって思わなかったから、簡単なスパゲティにするつもりだったの。それでいい?」
「ああ。ナポリタン?」
「そう。それならあなたも好きでしょ?」
「うん」
彼女はパソコンの電源を切ると、台所へ向かう。
電源が切れた画面、そして妻の背中を見ながら、ダイチの脳裏に橘の言葉がよみがえった。
――「いい転職サイトがあります。後でメールしておきますね」
その夜久々に家族団らんで食事を楽しむ。
息子のカイトの「なんで?」口撃はダイチを困らせ、妻のリエナが助け舟を出すくらいだった。その後も、カイトはよっぽど嬉しかったのか、玩具遊びにダイチをつき合わせた。
彼は就寝時間になっても、寝ようとせず、リエナが少し叱り付ける。それをダイチが宥め、結局親子三人、川の字で寝ることになった。
「ねぇ。ダイチ」
久々に名前で呼ばれ、ダイチは息子が寝ていることを確認し、リエナへ視線を返す。
「本当に大丈夫?」
彼女の問いかけは真摯なもので、誘いか何かと勘違いした自分をダイチは恥じた。
「大丈夫だ。なんでもないから」
そう答えると、ダイチの胸がきりっと痛む。そうして思い出すのは橘の言葉だ。
「リエナ。ちょっとパソコン借りてもいいか?」
「え?どうしたの?」
「ちょっと。見たいものがあって」
「いいけど。あまり遅くなんないでね。私は疲れたから先に寝るわ」
欠伸をして、リエナはダイチに手を振る。
いつもながら淡白な妻に少しだけ傷ついた彼だが、気分を切り替えるとベッドから離れた。
居間に置きっぱなしのパソコンを開き、電源を入れる。
確認するのはメールだ。
五件ほど受信しており、その中に橘からのメールがあった。そのとたん動悸が始まる。
なぜか震える指でマウスを操作して、開くとそこにあったのはたった四行の文。
***
中邑さん
こちらがお勧めの転職サイトです。https://tensyokugood.com/
がんばってください。
橘
***
「何ががんばれだ!」
誰もいない居間で彼の怒声が響く。
はっと我に返り、寝室の方向を見ると起きた気配はなく、胸を撫で下ろした。
ここまできたら、覗いてやろうとダイチはそのURLをクリックした。
「転職するなら、このサイト!転職GOOD」
安直すぎる社名で引いてしまったが、「長年同じ会社に働いていた、忠誠心の厚いあなたにぴったりの職業を見つけます」「努力は報われる」「世の中結果だけではない」などの誘い文句を見てしまうと、ダイチは吸い付くように登録画面に来ていた。
迷いながら、橘の馬鹿にしたような態度を思い出して、彼は登録事項を入れていき、決定ボタンをクリックしてしまう。
「ご登録ありがとうございます。あなたにぴったりな会社をご案内します。二、三日中にメールをお送りいたしますので、お待ちください」
するとそんなメッセージが現れ、ダイチは馬鹿なことをしたと思いつつ、そのメッセージを閉じた。
なぜか後悔の念、同時に期待する気持ちが沸き起こり、複雑な心境なまま、寝室に戻る。
息子と妻がベッドを占拠していて、ダイチは仕方なく床に布団を敷いて横になった。
翌朝、二人が目覚める前に起きて、いつも通り息子や妻よりも先に家を出る。
朝食は菓子パンだ。
一人で食べてコーヒーを飲む。
混んでいない電車で、早く会社に着く。それとモットーにしているダイチの朝は早かった。
会社には毎朝一番乗りで、顔見知りの警備員が元気よく挨拶をしてくる。それに返して、彼はエレベーターへ向かう。
「中邑さん!」
エレベーターを待っていたら、声をかけられ、その声が一番会いたくない人物だとわかる。だが立場上無視することもできず、振り返るしかない。
「部長。おはようございます」
「ははは。相変わらず硬いなあ。おはようございます。あのサイト見てもらいました?」
――朝から転職の話か。本当に俺を追い出したいんだな。こいつは。
「すみません。自宅では会社のメールを確認しないんですよ。後で確認してみます」
負け惜しみだとわかっているが、ダイチがそう白々しく答える。
「そうですか。ぜひ、見てくださいね」
橘が少しがっかりした様子だったので、ダイチは自身の苛立ちが少し納まった気がした。




