初めての教室
「水瀬瑞生です。よろしくお願いします」
黒板の前。名前を言って頭を下げると、ぱらぱらと拍手が上がった。
照れくささに頬を染めながら瑞生は教室の中に視線を走らせる。
20人よりは少し少ない19人の生徒が教室にはいた。皆、全部が木でできた机と椅子にお行儀よく座っている。後ろの壁には、20数個に区切られた腰ほどの高さのロッカーが置かれていた。その上には、生徒が書いたのであろう「希望」と書かれた作品が所狭しと飾られていた。
ふと、前の方の席に座っていた真幸と目が合う。ひらひらと手を振ってくる真幸に、瑞生は軽く会釈をすることで返した。
「水瀬さんの席は、あの空いているところね」
くるりとカールした巻き毛が印象的な林という女の先生は、そう言って指をさす。その先には、窓際の列一番後ろの誰も座っていない席があった。
1時間目の授業は、国語だった。
5教科の中で一番好きな授業で、新しい学校でもどんな授業になるのか楽しみにしていた。けれど、今の瑞生はそれどころではなかった。
(……何だったんだろうな)
授業そっちのけで、瑞生の意識は今朝あった不思議な体験へと向いていく。
家の庭で出会った依与という不思議な青年。彼を妖怪と言った久教。登校中に会った赤殿中と呼ばれるタヌキ。それに驚きもせず、普通に接していた少年。
考えれば考えるほど、答えは見えなくなっていく。
(私をからかっているとか?)
いや、でも久教はそんなことをする人には見えない。第一、それなら庭にいた青年やタヌキ、通学路で出会った少年のことはどうなる。
(じゃあ、やっぱり……)
妖怪、なのだろうか。
しかし、頭の中で言葉にしてみるとそれはとても現実的ではない様に聞こえた。だってそうだろう。そんな日常に妖怪が馴染んでいるなんてことあり得ない。それに、妖怪なんて本やテレビなどのフィクションの中でしか見たことも聞いたこともないものだ。当たり前にいるはずなんてない。
顎に手を当てながら瑞生は、うんうんと考え込む。これは、瑞生が何かを考える時の癖だった。
「水瀬さん、聞いてますか?」
突然名前を呼ばれ、瑞生はびくりと肩を飛びあげる。伏せていた目を上げれば、林先生が教卓の前から瑞生を見つめているのが見えた。他の生徒たちも不思議そうに瑞生の方を振り返っている。
考え込んでいて完全に聞いていなかった。どうしよう、何を言ってたんだろう……。恥ずかしさと焦りで頭の中がパニックになってしまう。
すると、ツンツンと二の腕を横からつつかれた。見れば、隣の席の男子生徒が自分の教科書を持ち上げ、瑞生の方へと向けていた。
「ここ、この5行目のところから読んでって」
そう言って男子生徒は、教科書の文を人差し指で指し示す。それを聞いた瑞生は、慌てて立ち上がると該当する文章を読みだした。
キーンコーンカーンコーンというチャイムの音とともに授業が終わる。
何とか無事に終わったことにほっと息をつくと、瑞生は隣の席の男子生徒に声をかけた。
「あの、さっきはごめんなさい。ありがとう、助かりました」
「ん? あー、いいっていいって! お互いさまだし!」
男子生徒は、にかっと人好きのする笑みを浮かべる。よく日焼けした小麦色の中で、白い歯がより際立って光って見えた。
その笑顔が、記憶の中の誰かに重なって見える。
(誰だろう……?)
不思議になって考える間も無く、瑞生の席の周りはあっという間に女子生徒たちに囲まれてしまった。
「はじめまして、水瀬さん!」
「東京から来たんよね? わあ、やっぱりなんか都会の子って感じだね!」
「うんうん、めっちゃ綺麗だし!」
四方八方から繰り出される言葉。それに、瑞生がどう答えたものか困っていると、生徒たちの群れの向こうからパンパンと手を叩く音がした。
一斉に皆音の方へと振り返る。そこには、腰に手を当てて仁王立ちになっている真幸がいた。
「そんなみんなで喋っちゃ困っちゃうでしょ! 落ち着いて喋んないと」
そう言いながら真幸は、女子生徒の山をかき分け、瑞生の目の前までやってくる。
「びっくりしたよね、瑞生ちゃん」
「あ、いえ、そんなこと、ないです」
瑞生の言葉に、真幸はにいっと口角を上げる。綺麗な三日月型を描いた唇。それはいつか絵本で見たチェシャ猫のようでもあった。
「敬語なんていいから! みんな同い年なんだし、これからはタメでね」
いいよね? みんな。真幸は後ろにいる女子生徒たちを振り返って尋ねかける。一斉に、皆は頷く。それだけで、真幸のクラス内での立ち位置がわかるようだった。
「えっと、じゃあ、よろしくね?」
まだ敬語無しでの喋り方に慣れずに、語尾を上げるようにして話してしまう。けれど、真幸はそれを聞いて満足そうに頷いた。
「さて、と。じゃあそれぞれ自己紹介でもしよっか」
真幸の言葉を皮切りに、待ってましたとばかりに女子生徒たちは自己紹介を始める。次から次へと聞こえてくる名前。それらを聞きながら瑞生は、ちゃんと覚えられるかな? と困ったような笑みを浮かべた。
「夏川も隣の席なんだから名前ぐらい言ったら?」
机の周りにいる女子生徒たちの自己紹介が一段落した頃、不意にその中の一人が隣の席の男子に向かって声をかけた。
机に突っ伏すようにしていた男子生徒は、顔だけぐりんと瑞生の方に向ける。眠たいのだろうか、黒ダイヤのような目は、とろんとしていてその輝きを濁らせている。
「えー、俺もう名前知ってるし」
「ばか! あんたが知ってても瑞生ちゃんが知らないでしょ!」
それを聞いて、男子生徒はしぶしぶといった風に頭を上げる。そして、瑞生の方へと体ごと向き直った。
「えーっと、夏川俊です。よろしく」
照れくさそうに鼻の下を掻きながら言う男子生徒。
夏川。その名字に瑞生は、ん? と引っかかりを覚える。
(どこかで聞いた気が……)
そう思って記憶をたどっていくと、昨日道端で会った軽トラックのおじさんにつながった。たしか、あの人も夏川と言っていた。それに、俊によろしくとも言っていた気がする。
「あの、ひょっとして、お隣の夏川さん家の息子さん?」
そう聞くと、俊はその日焼けした顔ににかっと笑顔を浮かべた。どこか見覚えがあると思ったが、その顔は昨日のおじさんにそっくりだった。
「おう! と言っても、あれはとーちゃんじゃなくてじーちゃんだけどな」
隣同士よろしく、と言って俊は頭を下げる。それを見て、慌てて瑞生も頭を下げ返した。
なぜだろう。そのとき、ひやりと冷たい風が吹いた気がした。




