初登校と赤殿中
周りを田んぼに囲まれた一本道を、瑞生は歩いていた。
通勤通学の時間帯だというのに、辺りには人っ子一人見当たらない。それに少し不安を覚えたけれど、田舎だしそういうものなのだろう、と思って歩みを進める。
田んぼの脇に咲いた菜の花が、風に合わせてゆらゆら揺れる。黄色の波のようでとても綺麗だ。
「お姉さん、お姉さん、肩こってない?」
春風を吸い込もうと瑞生は深呼吸をしようとする。と、そのとき、背後から可愛らしい声が聞こえてきた。
(なんだろう?)
上げかけていた両腕を戻して、瑞生は後ろを振り返る。けれど、そこには誰もいなかった。
気のせいかな。そう思って、瑞生はまた前に向き直る。
「ねえってば、お姉さん」
けれど、歩き始めた時また後ろから声が聞こえてきた。しかも、今度はさっきよりも大きくはっきりと。
瑞生はまた振り返る。けれど、やっぱり後ろには人の姿はなかった。
(空耳……?)
不思議に思って、瑞生は首を傾げる。すると、今度は足首に何かが触る感覚がした。人間の手というには小さすぎるし、虫というには大きすぎる。それに、なんだかもふもふしている気がする。
恐る恐る瑞生は足元へと視線をやる。するとそこには、大きなくりくりの黒目をもった動物がいた。
それは、瑞生と目が合うと、ぱっと口を開けた。口角が上がって、その顔は笑っているように見える。
「あ、気づいてくれた?」
ピンとたったまあるい黒い耳。目の周りも同じ黒い丸で囲まれている。体は、ふさふさとした手触りの良さそうな茶色い毛に覆われていた。なぜか、赤い袖なし半纏を着ているけれども、それはどこからどう見ても……。
「タヌキ?」
すぐそばに山がある田舎だ。タヌキの1匹や2匹いたとしても不思議じゃない。けれど、喋るタヌキだなんて……。
(ん? 喋った……?)
ぴたりと瑞生は動きを止める。
気のせいだ。幻聴だ。そう思おうとした。けれど、足元にくっついているタヌキはキラキラした目で見てくるし、それに何より、さっきの言葉は間違いなくこのタヌキの口から聞こえてきた。ということは……。
「た、タヌキが喋った!」
思わず大声で叫びながら、瑞生は後ずさる。足を動かした拍子に、タヌキに足が当たってしまった。あいたっ、とタヌキは小さな声をあげる。
「ちょっと、乱暴ね! 怪我したらどうするの?」
ふくふくの頬っぺたを膨らませながら、タヌキは瑞生を批判げに見つめる。
けれど、瑞生はそれどころではなかった。何せ、タヌキが人の言葉を喋ったのだ。これを驚かずして、何に驚けと言うのだろう。
「え、人形とか?」
その場にしゃがみ込んだ瑞生は、タヌキに向かって手を伸ばす。そして、人差し指でえいやとつついてみた。
ふに。柔らかい感触。触れたところからは暖かな体温が伝わってくる。人形かロボットかと思ったが、そのどちらでも無さそうだ。
でも、なら一体……。
「お姉さん、肩こってない?」
目の前にいるこのタヌキは何者なのだろう。そう頭の中で考えを巡らせていた時、タヌキがまた口を開いた。
考え事をするために地面に向けていた視線を元に戻せば、タヌキは期待に満ちた目で瑞生を見上げていた。
「え? 肩?」
「そう。こってない?」
こてんと、あるのかないのだかわからない首を傾げてタヌキは問いかける。
一体、なぜそんなことを聞くのだろう。
(そういえば、さっきも肩がどうとかって言ってたっけ?)
一番最初に声をかけられた時のことを思い出す。たしかあの時も、タヌキは肩がこってないかと聞いてきていた。タヌキと肩こりとどんな関係があるのか……また、気になる疑問が増えてしまった。
喋るタヌキといい、肩こりをしきりに気にしてくることといい、一体全体何なのだろうか?頭にはてなを浮かべながら考えていたそのとき、タヌキの向こうに誰かがいるのが見えた。
同じ中学生なのだろうか。その少年は、象牙色のブレザーを着ていた。肩からは、瑞生が持っているのと同じ白鞄を掛けている。
黒い短髪を風に揺らしながら立っている少年は、前方にいる瑞生たちを見ると、一瞬眼鏡の奥の鳶色の目を瞬かせた。しかしその顔は、すぐにもとの無表情にもどってしまう。
(き、かれたかな……?)
瑞生の顔につうっと汗が浮かぶ。
距離はさほど開いてはいない。聞こうと思えば、話している内容は聞けないこともないだろう。けれど、タヌキと話している人間なんて確実に変人だと思われる。案の定その少年は、じーっと瑞生を見つめていた。
変な奴だと思っているのだろうか。だとしたら、何か弁解しないと……。
「あの、」
「何やってるの? 赤殿中」
とりあえず何か言おうと口を開きかけたそのとき、少年はタヌキに向かって声をかけた。まるで、人間にでも話しかけるように。
「あ! もといー!」
話しかけられて振り返ったタヌキは、少年の姿を見て嬉しそうな声をあげた。そして、とことこと歩いて行くと、少年の体をよじ登って肩に乗ってしまう。
「こんな道の真ん中で何してたの?」
「見かけない顔のお姉さんがいたから、肩叩かせてもらおうと思って」
質問に答えながらタヌキは、肩から背中へと回る。その姿はまるで、少年におんぶされているようだった。
「ねえねえ、肩トントンしていい?」
「お好きにどうぞ」
少年の返事を聞いたタヌキは、嬉しそうに口角を上げると、小さな両の手を交互に上げ下げして、リズミカルに少年の肩を叩きだす。
とんとんとんとん。楽しそうに肩を叩くタヌキ。それを見た瑞生は、ぽかんと口を開けて固まる。
(一体何が……?)
頭の整理が追いつかない。
どうして、タヌキが当たり前のように喋っている?どうしてこの少年は普通にタヌキと会話をしている? どうしてタヌキが人間の肩叩きをしている?
ぐるぐるぐるぐる疑問が頭の中で回り出す。
じっと見つめていたからだろうか。不意に少年は瑞生へと視線をやった。
「どうかしましたか?」
問いかけてくる少年。これは、もう聞いてみるしかない。そう覚悟を決めた瑞生は、ぎゅっと手を握りしめてゆっくりと口を開いた。
「あの、そのタヌキって……何ですか?」
「何って、赤殿中ですけど」
赤殿中。その単語に、また頭の中にはてなが浮かぶ。そういえば、さっきもそう言ってタヌキに呼びかけていた気がする。
「赤殿中?」
「そう。妖怪の一種で、人間の肩を叩くのが大好きなんです」
そう言いながら、少年はおぶさっているタヌキに手を伸ばす。人差し指でその頭を掻いてやれば、タヌキは嬉しそうに目を細めた。
またまた瑞生は、ぽかんとしてしまう。
妖怪。耳慣れない言葉を今朝だけで2回も聞いてしまった。それも、言っている本人はごく当たり前のことのように言っている。
(これは、私がおかしいの? 妖怪って当たり前のもの?)
「聞きたいことってそれだけですか?」
顎に手を当てて考えて込んでいた時、少年の声がした。はっとして視線を上げれば、少年は真っ直ぐに瑞生を見ていた。
「ないなら、もう行きますね。学校、遅れちゃいますし」
そう言うと少年は、瑞生の脇を通ってさっさと歩いて行ってしまう。
タヌキを背負ったまま遠ざかっていく背中。それを見送りながら瑞生は、大きく首を傾げた。
妖怪ひとくちメモ
【赤殿中】
赤い殿中(袖のない羽織)を着た子どもに化けて現れ、道行く人に背負ってくれと言ってしつこく纏わりつく。
仕方なく背負ってやると、嬉しそうにその人の肩を叩いてくれます。人に害をなすことのない無害な妖怪。
この作品では、「子どもになんて化けたくないわ!それよりおんぶプリーズ!」と言ったので、子どもには化けていません。




