小宮善蔵という人
「あの、さっき庭に誰かいたんですが」
食事中、瑞生は意を決して朝方庭で見た青年のことを聞いてみた。
酢の物を口に運んでいたゆかりは、もぐもぐと口を動かしながら、誰かって? と聞き返す。
「着流し、を着た男の人でした。中性的な顔立ちで、黒い髪をした……。あ、あと、狐のお面を持ってました!」
記憶の中の青年の姿を思い起こしながら言う。すると、久教もゆかりも、ああと言って顔を見合わせた。
「それはね、依与よ」
「へえー、瑞生ちゃんには見えるんだね。羨ましいなあ」
突然出た名前。それから、「見える」という言葉。それらに、瑞生は首を傾げる。
(さっきから、見えるとかって……)
庭で会った青年も言っていた。俺が見えるのか、と。そして、今久教も見えると言った。これは、一体どういうことなのだろう?
(見えないのが普通ってこと? でも普通の人だったよね? ……でも、てことはひょっとして)
幽霊ってこと? そう思った時、思わず背筋を冷たいものが通り抜けた。
幽霊なんて、今まで生きてきた中で見たことなかった。でも、見えるとか見えないとかって言ってることを考えると……。
「あの、あの人って一体……」
「影縫いだ」
何者なんですか? そう問いかけようとしたそのとき、後ろから声が聞こえた。
驚いて振り返ると、背後にある居間の入り口に一人のおじいさんが立っていた。つるりとはげた頭と白い眉毛が印象的なおじいさんは、深緑色の着流しを着ている。
はじめて会うおじいさん。その姿は、前に一度だけ写真を見たことがある自分の祖父と重なった。
(ひょっとしてこの人……)
私の祖父なのだろうか。そう思った時、目の前にいるおじいさんは、そのハシバミ色の目でギロリと瑞生を見た。
その眼光の鋭さに、瑞生は思わず崩していた足を正座に変える。
「ふん、お前が瑞生か。あいつによお似ておるわい」
上から下まで流れる目。その目からは、好意だとか愛情だとかいったものは感じられなかった。
「あ、会うのはじめてだよね? この人、小宮善蔵。瑞生ちゃんのおじいちゃんだよ」
久教が瑞生に向かっておじいさんを紹介する。当のおじいさんはというと、ふんっと鼻を鳴らすと、炊事場の方へと歩いて行ってしまう。
「あ、じいちゃん! そのキッチンパラソルに入ってるのがじいちゃんの分のだから」
その後ろ姿に向かってゆかりが声をかける。おじいさん、善蔵からはなんの返事もなかった。
「ごめんね、おじいちゃん無愛想でしょ?」
暖簾の奥に消えていった背中をぽかんとした顔で見つめていた瑞生に、久教は声をかける。それで、瑞生ははっと現実に引き戻された。
「いえ、そんなことは……」
否定しながらも、心の中では瑞生は大きく頷いていた。
はじめて会う孫。もしかすると喜んでくれるかもしれないと思う気持ちがないわけではなかった。いくら祖父と母が不仲だと言っても。けれど、どうやらその溝は思ったよりも深いようだ。
(……せめて、これ以上悪くならないようにしないとね)
そう思うと、箸を握る手にぎゅっと力が入った。
それから、中断していた食事を再開する。ほかほか湯気を立てている炊きたてのご飯に箸を伸ばしたそのとき、不意にさっきの善蔵の言葉が気になってきた。
「あの、影縫いってなんですか?」
二人に向かって問いかける。すると、ゆかりは漬け物に伸ばしていた手を止めて瑞生の方を見た。
その眉は、困ったように八の字を描いていた。
「うーん、なんて説明したらいいのかな?」
助けを求めるように、ゆかりは久教の方を見る。けれど久教も、どう言えばいいのか考えるように腕組みをしてしまった。
「んーとねえ……影縫いっていうのは妖怪の一種で」
妖怪。
耳慣れない言葉に、瑞生は目をぱちくりとする。
そんな言葉、本やテレビの中でしか見たことも聞いたこともない。なのに、今久教さんは平然と口にした。これは一体どういうこと?
頭の中に、たくさんはてなが浮かぶ。それに気づいたのか、久教は苦笑を浮かべた。
「ごめん。こんなこと急に言われてもわからないよね。でも、話せば長くなるから……」
続きは帰ってからね。そう言いながら久教は、壁にかかっている柱時計を見る。
見れば時計は、7時30分を指していた。もう家を出ないといけない時間だ。
「あ、大変!」
慌てて瑞生は、残っていたご飯をかきこむ。そして、食べ終わった食器を片付けようと立ち上がった。
耳慣れた足音が聞こえて、依与は閉じていた瞼を開けた。
寝起きで霞むのか、その黒々とした眼を手の甲で擦る。
横たえていた身体を起こし、バランスに気を付けながら木の枝に座りなおす。下を覗きこめば、予想通りの女が立っていた。
見上げた先に依与がいるのを確認すると、女は艶然と微笑んでみせる。金色の瞳がすうっと細められる。
「あら、今日はしないのね。……未練がましい音」
「うるさい」
ジロリと依与は女を睨みつける。女はそれを物ともせず、その唇は綺麗に弧を描いたままだった。背後に見える毛艶のいい九本の尻尾も、彼女の心情を表すようにゆらゆらと左右に揺れている。薄紫色に金糸で蝶の刺繍がなされた着物は、目を見張るほど美しい。加えて、女自体が持つ色香と相まって、まるで花でも背負っているかのような秀麗さだ。
悪趣味だな、と依与は思った。相変わらず掴みどころのない人だとも思う。
「で、何の用だ?」
「ふふふ、不遜な物言いね。そろそろ切れるころかと思って来てあげたのに」
依与は、眉を寄せて眉間に皺を刻む。それを見て女は、繊細な刺繍が入った打掛の袖で口元を覆った。袖の下ではきっと笑みを浮かべたままなのだろう。朱色の袖と透き通るような白い肌とがコントラストになって、とても艶めかしく見える。
依与は苦々しげに口を歪めた後、木から飛び降りた。風圧でふわりと紺色の袖がたなびく。
音もなく眼の前に降り立った依与を見て、女は満足そうに笑みを深めた。
「いる?」
「……頼みます」
その言葉を聞いて、女はくるりと回って依与に背を向けた。反動で、ウェーブのかかった腰まである長い金髪が宙に浮く。木々の間から漏れ出す光を受けて、きらりと光る。
「随分派手にやりあったんですってね。淡雪が心配してたわ」
「あれは向こうが悪い」
「ふふ、お前はいつもそれね」
肩を震わせて、女は面白そうに笑う。そんな彼女を一瞥すると、依与は地面に跪いた。女の足元から伸びる影に手を伸ばし、そっと手のひらを乗せた。
「……では、いきます」
そう言うと依与は、目を閉じて手のひらへと意識を集中させる。
次の瞬間、地面に置いた手のひらがぱあっと眩いばかりの光を放ちはじめる。青白い光は放射線状に辺りを照らす。
しばらくすると、その光は徐々に落ち着いていき、やがて音もなく消えた。
依与はゆっくり目を開けると、何かを確かめるように手のひらを開いたり閉じたりしながら立ち上がる。
「いつやっても慣れないわね。妖力をあげるっていうのは」
肩をさすりながら女は、依与の方を振り返る。その顔は、先ほどとは違い真面目なものに変わっていた。
「依与、あなたいい加減宿り主を探しなさい」
凛とした声で言われた言葉。
けれど、依与はそれには返事を返さず、くるりと背を向けて歩き出した。
残された女は、ふうっとため息をつく。そして、空中に手を伸ばすと、白魚のような指先で擦り合わせて指を鳴らした。
ぱちんという音を合図に、側にあった木から黒い人影が降ちてくる。
それは、女の足元に跪くと声を発した。
「どうかなされましたか、芙蓉様」
「ちょっと調べて欲しいことがあるの。昨日増えた新しい気配について」
女、芙蓉は、綺麗に紅のさされた唇を三日月型にかたどる。
御意。そう呟くと、人影はまた木の中へと消えていった。




