鈴山村へ
そもそも、どうして瑞生が休日に初めての学校にいたのか。
それを知るには、1時間前まで遡る。
1時間前、瑞生は列車に揺られていた。今日から居候させてもらうことになる叔父たちの家へ向かうために。
ガタゴト。線路のつなぎ目に合わせて、列車が音を立てて揺れる。
窓から振動が伝わってきて、窓枠に寄りかかって寝ていた瑞生は、無意識に眉を寄せた。
振動で、腰まである長い黒髪がさらりと膝の上に落ちる。裾に黄色い小花の刺繍があしらわれた白いワンピースの上でそれは、強烈な輝きを放った。
午前十時。県庁所在地から片田舎へと向かうこの列車は、出勤時の7時頃でも込み合うことは少ない。
ましてや中途半端なこの時間帯。一両しかない車内の乗客は、ボックス席に座って眠りこくっている瑞生と、また別のボックス席に座っているおじいさんの二人だけだった。
けれど、そのボックス席とボックス席の間を、ふわりふわりと漂う小さな綿がひとつ。
コットンボールのようなそれは、床を這っていたかと思うと、宙に浮いてみたり、またまた床付近にもどってみたりと、波のように動いている。それはまるで、誰かの気を引こうとしているかのようだ。
<長らくのご乗車お疲れさまでした。まもなく終点、鈴山駅に着きます。列車が完全に停まるまでお待ちください。なお ――――――>
古い放送機器を使っているため、ひび割れた車掌の声がスピーカーから車内に響きだす。
列車が進む音以外は物音ひとつしない車内には、その声は思ったよりも大きく響いた。瑞生はまた少し眉間にシワをよせる。
ふわりと波のように上下に動いていた綿は、瑞生のすぐ足元まで来た。それは、細くて白い彼女の足をそろりと撫でる。
くすぐったかったのだろうか。瑞生は少し身じろぎをした。
列車は、速度を緩めながら古い木造の駅へと入っていく。
速度をより一層落とすためにレールに設けられているデコボコで、ガタン、ガタンと一際大きな振動が起きる。
眠りを妨げられて不快だったのか、瑞生はんんーっと小さな声を上げた。そして黒く長いまつげをふるふると振るわせる。
ゆっくりと眼を開けば、薄くうすーく引きのばしたべっこうを重ねたような、透明感のある琥珀色の瞳が現れた。
まだ眼が覚めきっていないのか、瑞生はぼーっと視線をさまよわせている。しかし、列車がもう駅で停車しはじめているのに気づくと、慌てて席を立って、網棚から手荷物を下ろした。
入り口へ向かって駆けていく瑞生。すぐそばに足をふり降ろされて、小さな綿はびくりと空中に飛び上がった。けれど、急ぐ瑞生はそんなことまったく気がつかなかった。
降り立った駅は駅員のいない、いわゆる無人駅だった。そのため、窓口の前に置かれた木箱に乗車券を入れて改札を通る。
駅舎から出ると目の前には菜の花畑が広がり、風に合わせてざわざわと揺れていた。その奥には田んぼが広がり、ぽつぽつと家が立ち並んでいるのが見える。
瑞生は手荷物を地面に置くと、ショルダーバッグの中から携帯電話を取り出す。
今朝がた届いたメールを見直そうとフォルダを開いた瞬間、新しいメールが届いた。ピロンと軽やかな音色が鳴る。
何だろうと思ってメールを開くのと同時に、遠くのほうから名前を呼ぶ声が聞こえた。はっとして瑞生は顔を上げる。
すると、手を振りながらこちらに向かって走ってくる女性の姿が目に入った。その後ろには、息を切らせながら懸命に足を動かしている男性の姿も見える。
サイドで一つに結わえた黒髪を揺らしながら駆けてくる女性は、春らしいリネンのチュニックに身を包んでいた。服の裾からは、薄い水色のジーンズが覗いている。それが、春の浅葱色の空と相まって綺麗だった。
「遅くなってごめん! ちょっと出かけに手間取っちゃって……さっき一応メールは入れたんだけど」
「いえ、さっき着いたところなので、大丈夫ですよ。わざわざ迎えに来てもらってすいません」
そう言いながらちらりと手元の携帯に視線を走らせる。送信者の欄には『小宮ゆかり』と書かれているのが見えた。これがそのメールだろう。瑞生は携帯を閉じるとバッグの中へとしまった。
「待ってって……ほんと走るの早いんだから」
ぜぇぜぇと息を切らせながら、後から走ってきていた男性がゆかりの隣に並ぶ。汗で額にはりついた黒い癖っ毛は母と同じで、一気に親近感が持てた。生成りのシャツは、藍色のワンピースを着ているゆかりと並ぶとコントラストのようになって、とてもお似合いの夫婦に見える。彼の背が縮んだのか、それとも自分が大きくなったのか。久しぶりに会う男性は、少し目線が近くなったように思えた。
そんな男性は、瑞生を見ると片手を挙げて照れたように笑う。
「当たり前でしょ! 元陸上部の脚をなめないでよね」
「はいはい。……久しぶり、瑞生みずきちゃん。元気だった?」
「はい。こちらこそお久しぶりです、久教ひさのりさん。母がぜひよろしく伝えておいてと言っていました」
瑞生の言葉に、久教は垂れ目をすっと細めて微笑む。笑うと一気に幼くなるところは母親そっくりだった。
「姉さんは相変わらず忙しそうなんだって?」
「みたいです。今月も頭からドイツにいるらしくて」
「すごいわよね! 世界中飛び回ってるなんて。最近テレビでもよく話題になってるし」
小宮夫婦に案内されながら、田んぼに囲まれた道を歩く。
自然と自分の母の話になり、瑞生は苦笑いを浮かべた。何度されても、自分の母親を目の前で褒められるというのは慣れないものだ。
瑞生の母、水瀬緋佐子みなせひさこは、世界中を演奏旅行で飛び回るプロのピアニストだ。
昨年日本人初となる海外の賞を受賞したことで注目を集め、最近ではよくテレビでも取り上げられている。そのため、余計に忙しさに拍車がかかり、日本に帰って来られるのは半年に一度、のようなことになっている。
「母がありがたがってました。やっぱり一人暮らしさせるには不安があったみたいで……」
「そりゃそうよ! 中学生なんだから。何もないところだけど、自然いっぱいで暮らしやすいから、楽しんでね」
優しい笑みを浮かべながらゆかりが言う。それを聞いて、瑞生の顔にも笑顔が広がった。
この四月から瑞生の父親はアメリカにある支社への転勤が決まった。そのため、日本には瑞生だけが残されることになった。
瑞生としては別に一人暮らしでもよかったのだけれど、両親がこぞって反対したため、母の弟夫婦と祖父が暮らす家に居候することになったのだ。
母の弟と言っても、最後に会ったのは五年前の久教の結婚式。
ほとんど交流のなかった人の家に突然住むのは、不安があった。けれど、ゆかりの言葉にそのすっと不安が和らいでいくのを瑞生は感じていた。




