真夜中の訪問者
深夜。小宮家の庭の中心にある一本の木の下に、佇む人影が一人。
昼間とは違い、木綿でできた縹色の着流しをさらりと着た善蔵は、木を睨みつけるように見上げている。そして、その場にしゃがみ込むと、おもむろに足元に落ちていた小石を手に取った。立ち上がった善蔵は、その小石を木の茂みの中に向かって投げつける。
カサリ、と葉っぱを揺らす音がする。小石はいつまで経っても地面に落ちてこない。その代わりに、大きな黒い影が木の上から落ちてきた。
「……随分なご挨拶だね」
濃紺の着流しを着たその人は、着物の色と相まって闇夜に溶けてしまいそうだ。その中で、白い肌が艶めかしく鈍く光る。黒い目は不服そうに善蔵を見つめていた。袖から伸びる手から小石が落とされる。地面に落ちて何度かバウンドしたそれは、善蔵の足元まで転がっていった。
「お前を瑞生の目付け役に任命する」
射るような視線にも一切動じることなく、善蔵は依与に向かって言い放つ。依与は、一瞬目をぱちくりとさせた後、眉間に濃いシワを刻んだ。
「……瑞生って誰」
「今朝話したんだろ?黒い髪に変わった目の色をした娘のことだ」
善蔵の言葉に、依与は今朝木の下で会った女のことを思い出す。たしかにあの女の目は、人間にしては珍しい不思議な色をしていた。
(瑞生、という名前だったのか)
しかし、はてっと依与は首を傾げる。なぜここでその女の名前が出てくるのか、そもそも目付け役とは何なのか、疑問が湧き出てくる。しかし、負けず嫌いでプライドの高い依与は、疑問をそのまま善蔵にぶつけるのは癪だった。
「……反論がない、ということは受けてくれたということでいいんだな?」
どうすべきか。考え込んで黙ってしまっていると善蔵が言った。どうやら沈黙を肯定の意と受け取ったらしい。こうなったら、もう直接聞くのが悔しいなど言ってはいられない。諦めのため息とともに、依与は口を開く。
「…………目付け役とはなんだ」
「そのままの意味だ。明日から瑞生は陰陽師見習いの修行を始める。まだ妖怪のことも何もわかっていない初心者だ。導き手がいるだろう? それをお前に頼みたい」
「どうして僕?」
「理由は言わん。だが、どうしてもだ」
善蔵の返事に、依与は額に手を当てる。そして、呆れ果てたというように深く息をはいた。
「それで、僕が受けるとでも思ったの?」
話はこれで終わりだ。そう言わんばかりに依与は、くるりと踵を返す。
木の枝に飛び乗ろうと足の裏に力を入れたそのとき、「あいつに言うぞ」と善蔵の声がした。それに、思わず依与は動きを止める。
体ごと振り返れば、善蔵は相変わらずの仏頂面でこちらを見ていた。けれど、その目の真剣さからさっきの言葉が脅しでも何でもないことを知る。
「……どういうこと?」
「そのままの意味だ。お前が受けないと言うのなら、瑞生のことをあいつに言う。会った時からお前も気づいているんだろう?」
あの子が何者なのか。そう付け加えられた言葉に、依与は眉間の谷を深くする。底なしの闇のような黒い目は、善蔵を射殺さんと睨みつけるばかりだ。
「本気で言ってる?」
依与の問いかけに、善蔵はうんともすんとも答えない。けれど、それが何よりの答えだった。
こいつは孫が可愛くないのか。そんな疑念が首をもたげる。あいつに知られれば孫がどうなるか、よほどのバカでなければ、少し考えればわかることだろう。
(……どうなってもいいということか)
初めて依与は、瑞生に同情の念を覚えた。
春先の冷たい夜風が二人の間に吹く。草木も眠る丑三つ時とはよく言ったもので、風の音以外虫の音も誰かの足音も何も聞こえない。
耳が痛いぐらいの沈黙の後、依与はふっと鼻から息をはいた。そして、また木の方へと体を向ける。
おい、と呼び止める善蔵の声、それを止めるように依与は片手を挙げた。
「いいよ、引き受けてあげる。その代わり、あいつに言うのは無しだ」
返事は聞こえない。それを承諾の意だと捉えた依与は、膝を少し曲げ、足の裏に力を込める。そして木の枝へと飛び乗った。
翌朝、瑞生は何かを叩く音で目が覚めた。
起きたばかりではっきりしない意識の中で音をたどる。それは、襖の向こうから聞こえていた。いや、厳密に言えば、襖を誰かが叩いている音だった。
「はい?」
起き上がりながら、瑞生は返事をする。二晩寝たぐらいでは慣れなかったらしく、腰はまたコキリと音を立てた。
音をたてないように気遣ってだろうか。襖はゆっくり慎重に開かれる。ひょこりと顔を覗かせたのは、すでに普段着に着替えたゆかりだった。
「朝早くにごめんね。善蔵じいちゃんが話があるらしくて……。ごめんなんだけど、着替えてちょっと来てくれる?」
申し訳なさそうに手刀を顔の前で掲げながらゆかりは言う。何が何だかよくわからない瑞生だったが、とりあえず頷けば、ゆかりはほっとした顔で襖の向こうへと消えて行った。
音もたてずに閉まる襖。それをしばらくぼーっと見つめていた瑞生だったが、はっと気がつくと着替えるために立ち上がった。
「本当にごめんね。どうしても今じゃないとダメだってじいちゃんが」
困ったものだよね。そう言いながらゆかりは、細い眉を八の字に下げる。
時刻はまだ朝の5時。ようやく空が白みはじめた頃だ。
スリッパのない家なので、2人とも裸足で廊下を歩いている。靴下を履いていると言っても、夜の空気で冷やされた床はやはり冷たい。冷えが足元から上ってくるのを感じながら、瑞生は胸の前で手を擦り合わせた。
母屋と善蔵の住む離れは、木造の渡り廊下で繋がっている。
母屋と離れが繋がれてあまり日が経っていないのか、杉でできた床はまだ新しい色をしている。杉ならではの柔らかさを感じながら歩いていると、気づけば離れに着いていた。
「どうぞ」
横開きの扉を開けたゆかりは、横によけて先に入るように瑞生に促す。それに従って、瑞生は離れの中へと足を進めた。
離れは、生活に必要な最小限の設備でできている建物というのが、第一印象だった。
真ん中に廊下が通っていて、両側には壁がある。
離れに入ってすぐ右手にはガラス戸があった。表面に凹凸があるダイヤガラスのため中は見えないが、雰囲気からして炊事場だろう。
廊下を挟んで向かいには、扉が開け放たれた部屋があった。中を覗き込むと、そこは板張りの洋室でぎっしりと本が詰め込まれた本棚と木製の机と椅子があった。どうやら善蔵の書斎のようだ。
「そのまま奥に進んでね」
そう言ってゆかりは、瑞生の横をすり抜けて前を先導するように歩く。瑞生も大人しくその後ろに続いた。
書斎の横は左端に小窓のついた扉だった。扉の形からしておそらくトイレなのだろう。
そこから少し進むと、右手側には、渡り廊下と通じている扉とは別の、外から直接入るための玄関が現れた。玄関の三和土には、大きさの違う草履が2つ置かれていた。そのことに、瑞生は首を傾げる。
(……久教さんのかな?)
叔父が和装をしているところは見たことがないが、まだ知らないだけで着ることもあるのかもしれない。そう思って瑞生は気にしないことにした。
玄関前も通り抜けて、ゆかりはどんどん奥へと進んでいく。足を止めたのは、廊下の突き当りにある襖の前だった。下方に山水画が描かれたそれを、ゆかりは勢いよく横に開く。そして、現れた人を見て、瑞生は思わず驚きの声をあげた。




