第40話 嵐
薄布に覆われたような判然としない意識の中で、何かがユウの鼻先に当たった。
払い除けようとしたが何もない。
次は額に当たった。
ユウが瞼を開けると見慣れない光景が目に映った。仰いだ空には厚い暗雲が立ち籠めている。
「新世界」の空がこれほど曇ったのは初めてのことだった。いつもは一面の青空で、小さな綿雲が申し訳なさそうに点々と浮かんでいるだけだ。
昨夜はオリガの言葉が気になって、よく寝られなかった。最初の20人が既に死んでいるかもしれないなどと言われれば、どうしても不安になる。
ぽつり、打たれた頬に手をやると、その指から逃れるように水滴が流れ落ちた。
雨だ。
雨はすぐに強くなり、大きな雨粒が混じりだした。
他の仲間達も次々に起き出す。
大人達は慌てて木の陰に入ったが、シェンズとメラニーは何やら楽しげに駆け回っているし、ヴィマラはぼんやりと空を見上げている。少女達は濡れることなどお構いなしだ。
「おいユウ、俺たちも早く隠れるぞ」
急に腕を掴まれて、ユウの心臓は一瞬止まりかけた。
ペドロは強引にユウを広葉樹の下まで引きずっていった。
大樹の傘に入ると雨は多少なりとも凌ぐことが出来た。
先に避難していた人達が髪や服から水を絞り出している。
「酷い目にあったよな」
雨の中ではしゃぐ少女達を見ながらペドロが話しかけてきた。
普段は毛が縮れて大きく盛り上がっているペドロの髪は、水を吸ってぺたりと頭に貼り付いている。いつものシルエットとはまるで別人だ。
「本当にひどいことになってるね、ペドロ」
ユウは返答しながら、笑いが口からこぼれでるのを必死に耐えた。
「俺のどこがそんなにおかしいんだ」
「べ、別に。ちょっと印象が変わるなと思って」
ムッとした表情で詰め寄るペドロを何とかして宥めようと、ユウは言葉を探した。こういう時ほど「嘘をつけない」事を不便に思う時はない。
「まあいいや。ここからの絶景を見てたら、機嫌も直るってもんだ」
やたらとペドロが自分の後ろに視線を送っていることに、ユウは気付いていた。
振り返ると、ちょうど目の前でオリガが服を絞っている所だった。
絞り上げた服の下からは、引き締まった腹のくびれと小ぶりなへそが露わになっている。
眼前の美しい姿態にユウはつい目を逸らしてしまった。俯くユウを見て、ペドロはくくくっと満足そうに笑った。
雨は一向に止まず、そのうち風も強まってきた。
口を開くと雨が入ってくる。横殴りの雨には木の下の避難所も流石に効果が無い。
「あの洞窟に逃げ込みましょうぜ」
プルチネッラの意見に珍しく反対が出ないほど、状況は切迫していた。
「私の後に付いてきてくれ。女性やお年寄りが困っていたら優先的に助けるんだ。地面が泥濘んでいるから、足下にも気をつけて」
フレデリックを先頭に一同は森の洞窟へと歩き出した。
道筋を知らない女性と年配者を真ん中にはさみ、前後に男性が布陣する。
道程は想定以上に険しいものだった。
強風で大木が枝葉を揺らす間を、身を低くして歩く。坂を上る時には地面を這うようにして進んだ。
ユウは集団の後方にいた。ペドロにシェンズ、ヴィマラ、メラニーも一緒だ。
ユウの手を握って放そうとしないメラニーが、時折倒れそうになるのを支えながら進む。
「ねえ、ちょっと休まない」
「メラニー、もう少しだからがんばろうよ」
「あ、あたしは大丈夫よ。ただユウ達が疲れたんじゃないかと思ったのよ」
こんなやりとりが何度もあった。その度に笑い声が起こったが、皆、表情がかたい。シェンズやペドロの顔にも疲労が色濃く出ている。
「あれ、あれ見て」
誰かの声が風に乗って聞こえてきた。今来た方角を指差す人もいる。つられてユウも振り返った。
生い茂る枝の間から巨大な水の柱が見えた。
灰色の空を穿つように、水柱が渦巻きながら立ち上っている。
風はその渦へ向かって吹き込んでいた。
ゾクリ、首筋に悪寒が走った。いつまでもこの場に留まるのは良くない気がした。
「皆、急ごう。早く洞窟まで行かなくちゃ」
ユウは立ち止まっているシェンズ達を促し、歩き始めた。
風雨はさらに勢いを増した。雨粒は目に見えて大きくなり、風の中に小枝や泥、砂利が混ざるようになった。
飛礫から顔を守りながら、低い姿勢で進むしかない。
前を行くシェンズとヴィマラがいつの間にか手を握り合っている。
ユウはメラニーの小さな手を強く握り直した。その手を放したら、幼い少女は瞬く間に風に飛ばされてしまうように思えた。
「あと少しで入り口が見える。それまでもうひと踏ん張りだぜ」
ペドロは声をかけて励ましてくれた。
自分はまだ余裕を持って歩けているのに、少し進むとユウ達が追いつくのを待ってくれていたりする。
普段は悪戯が過ぎるペドロだが、いざとなると頼もしい。
突然何かにぶつかって、ユウは顔を上げた。
巨木が横倒しになって道を塞いでいた。
木の幹は非常に太く、大人四、五人で囲んでも手が周りそうもない。土から剥がされた根が大蛇のようにうねっている。
「この嵐で転がり落ちてきたな。と言うことは、この先の斜面を登った所が洞窟だ」
ペドロの声に生気が戻った。
しかし、目的地を目前にして大きな問題が起きた。
ペドロは難なく巨木を越えられるだろう。ユウとシェンズ、ヴィマラも、下敷きになっている木を足場に使えば行けそうである。だがメラニーの身長ではそれも難しい。かといって左右を見ても迂回するのは厳しそうだ。
ペドロの思いつきで、上で引き上げる者と下から押し上げる者に別れてメラニーを補助することになった。身軽なペドロとシェンズが先行し、踏み台役はユウが引き受けた。
メラニー、ヴィマラの順にゆっくりと慎重に持ち上げる。自分たちが一番遅れていることがユウの心を逸らせた。焦燥感が胸の内をちりちりと掻き毟る。
二人が木の幹を登りきると、ペドロは少女達を先に行かせた。
「さあ、後はお前だけだぞ」
差し出された黒い手を握ると力強く腕を引かれ、ユウの身体は簡単に木の上まで運ばれた。
振り向くと、水柱は先程よりも大きく、勢い良くなっていた。
ギュッ、不安が心臓を圧迫する。
シェンズ達の姿は既に見えない。洞窟まで無事に辿り着けたのだろう。
残るは自分達だけだ。二人は顔を見合わせると木から飛び降りた。
洞窟までの坂はそれほど険しくなかった。
自然とユウの脚は軽くなる。
あと数歩で洞窟の入り口に手がとどくという所で、今までになく強い風が吹き下ろしてきた。
屈んでも身体ごと持って行かれそうになる。
一瞬、風が止んだような気がした。
この隙に駆け抜けよう。
右足を踏ん張ったはずが力は土の表面を滑り、ユウは体勢を崩した。
倒れ込むユウの腕をペドロがつなぎ止めた時、再び強風が二人を襲った。
ユウの身体が地面から浮き上がる。
もうダメだ。
目を瞑ろうとした瞬間、風に負けない力でユウは洞窟に放り込まれた。
投げ飛ばされながらユウの逆さになった視界が捉えたのは、嵐に飲み込まれるペドロの姿だった。




