第16話 初めての空中浮遊
「お水、飲みたいなあ」
ヴィマラの一言でハヤルを出汁にした女性達のおしゃべりは唐突に収まった。
「新世界」は汗をかくほどの暑さではなく、毎日からりと晴れていたが、人間誰しも喉は乾くものである。
「配られた果物はもう食べちゃったの」
サラの問いにヴィマラは首を縦に振った。
班分けがなされた二日前から、食べ物はフレデリックたち探索班が持ち帰ったものを全員で分配していたが、水の確保だけが出来ていなかった。
目下のところ、水分補給は果物から摂取するか、川まで歩くしか方法がなかった。ユウがペドロやサラと出会った川だ。
「瓶か壺でもあれば、水を貯めておけるんだがな」
「まあ、厳しいだろう。土器を作るにしても適した土と火力が必要だ。現状、我々の文化水準は石器時代以下というわけだ」
ハヤルやオリガが話しているとおり、ユウ達はまともな道具を持っていなかった。水瓶どころか初歩的な打製石器を作るのが精一杯である。
「でも、川まで行って帰ってくるの、結構大変だよ」
「私もシェンズと同意見ね。フレディ達も戻ってくるだろうし、今からここを離れるのは良くないかも」
そう言うと、サラは側にある大きな広葉樹の滑らかな幹を優しく撫でた。ひときわ巨大なその木が集合場所の目印になっている。
全員が腕を組み、水問題に頭を悩ませているなかで、言い出しのヴィマラだけが顎をあげて、木の上の方をぼおっと眺めていた。
「あれ、取れないかなあ」
ヴィマラのつぶやきが耳に入り、ユウが彼女の指差す先を見ると、赤い果実が幾つか生っていた。洋梨に似た歪な形で子どもの両掌に収まる程度の大きさだが、実のついた枝のしなり具合から見て、果肉がいっぱいに詰まっていそうだった。
ゴクリ、二人はほぼ同時に唾を飲み込んだ。
「美味しそうだね。でも、あんなに高い所じゃ取れないよ」
「木登りは苦手?」
「手が届く高さに枝が無いし、木の皮もつるつるだもの。大人でも無理じゃないかな」
「それじゃあ、『魔法』でお空を飛んでいきましょう」
ヴィマラからの予想外の提案に、ユウは「えっ、『魔法』で?」と大きな声で聞き返してしまった。
「そうよ。『魔法』であそこまで飛んでいって取るの」
ヴィマラはさも当然のことのように、同じ台詞を繰り返した。
「素敵な考えではあるが、空中浮遊は難しいと思うぞ」
ユウの声で気が付いたのか、寄ってきたオリガがヴィマラの案をやんわりと否定した。
「さっき、火の『魔法』の時にハヤルが説明していただろう、化学的にと。この世界の『魔法』は、結局のところ自然現象の域を出るモノじゃないんだ。だから、浮遊や飛行だって物理法則を無視出来ない。ここまでは大丈夫だな」
ユウは自信なさげに頷いたが、ヴィマラは不思議そうな顔でオリガを見上げていた。そんな二人を気にせずオリガは説明を続けた。
「そして、人間には翼も無ければ、エンジンも無い。何より飛ぶには重すぎる。飛行機やヘリが飛べるのは、あれが工学理論と技術の粋を集めた結晶だからなんだ」
やや興奮気味のオリガは続きを話そうとしていたが、元気なく沈んだ様子のヴィマラを見ると、それ以上先を説明することはしなかった。
落ち込んでいるヴィマラを励まそうと、ユウは思いきって「魔法」の話題を続けた。
「残念だったね。でも、僕も素敵だと思うな。ヴィマラは空を飛べるなら何をしたいの」
ヴィマラは少しの間ユウの言葉に目をぱちくりしていたが、にこりと笑うと身振り手振りを交えて話し出した。
「わたし、風船みたいに浮かんでいくの。ふわり、ふわりって。それで、小鳥さんとおしゃべりしながらお空をお散歩したり、雲の上まで昇ってお星様を眺めたりするのよ。その後こうやって……」
目を閉じたヴィマラは手脚を大きく広げると、その場に背中から倒れ込んだ。
「雲の上に寝転がるの。きっとプールに浮いている時みたいに気持ちいいわ」
不思議なことに、仰向けで横になったヴィマラの身体は地面に接していなかった。初めは親指の長さ程度に地上から離れていたヴィマラは、ゆっくりと、しかし確実に浮き上がっていった。慌てたユウが彼女の手を握っても何の抵抗にもならなかった。
ヴィマラがユウの頭を越える頃には、手を握り続けるのも困難になった。ユウは思いきって彼女の腰の辺りに飛びついたが、二人はそのまま空高くへ昇っていった。
「ね、ねえ、ヴィマラ、飛んでるよ、高いよ」
半べそのユウが情けない声を上げる。
「そうね、やっぱり『魔法』ってすごい。見て、もうすぐこの木を追い抜くわ。それにシェンズたちがあんなに小さくなっちゃった」
空飛ぶ『魔法』に夢中なヴィマラに対して、ユウは周りを見る余裕がない。自分の二本の腕だけが最後の命綱だとばかりに、より強くヴィマラに抱きつくのに必死だった。
しばらくして、ヴィマラが目を瞑ったままのユウに声をかけた。
「見て見て、ユウ、すごいわ。世界の全部が見えるみたい」
ユウは恐る恐る目を開いた。
視界の中には上も下もなく、前も後ろもわからなかった。昇っているのか、落ちているのか、進んでいるのか、後退しているのかも不確かだった。空も地面も同じように遠く、世界のどこからも切り離されたような、奇妙な感覚だった。
「ここって、お山が全然無いのね。もうずっと、世界の果てまで見えそうよ」
ヴィマラの示す方を見ると、「新世界」の大地が見渡す限りに広がっていた。
山と呼べるような巨大な盛り上がりはなく、草原と森の緑に所々土の色が見える。川はあったが海や湖のような広大な青は目に入らなかった。遠くに翼を持った生き物が何匹か飛んでいる。
二人は空想の中に迷い込んだような、捕らえ所のない高揚感に呆然としていたが、ユウはすぐに現実に引き戻された。
「ヴィマラ、一つ聞いてもいい。どうやって皆の所に帰るの」
不安気なユウの質問に、予想通りの答えが返ってきた。
「わからないわ。えへへ、どうしましょう」
「やっぱり……。少しずつ降りるって出来ないの」
「う~ん、何で飛んでるかもわからないし。落ちるってジェットコースターみたいな感じかなあ」
とヴィマラが言い終わる前に、二人の身体は吊していた糸が切れたように落下し始めた。
空気を切り裂いて二人は落ちていく。強烈な風が顔を打ち、轟音が耳を埋め尽くし、隣で黄色い歓声をあげているらしいヴィマラの声も聞こえない。周囲の景色はゆっくりと流れていくが、目の前の画面だけが急速に拡大されていく。
既に、ユウ達が元いた場所が確認出来る高さまで来ている。ユウは咄嗟にヴィマラを胸中に抱え込んだ。目を開けていられない。怖い、嫌だ、死にたくない。そんな思いも声にならなかった。
「止まれええー」
気が付くと、ユウはヴィマラを腹の上に乗せて、地面に倒れていた。身体に異常はなさそうで、腕も脚も二本とも身体についていた。
上体を起こそうとすると、ヴィマラが目を覚ました。
目が合った二人はどちらからともなく笑い合った。
「助かった、みたいだね」
「そうね。わたし覚えているわ。あなたが守ってくれたんでしょ、ありがとう」
そう言うとヴィマラはユウの額に軽くキスをした。
二人を発見したシェンズが何やら叫びながら走り寄ってきたが、その声はユウの耳には届いていなかった。




