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0007  初めての

 再び目覚めたとき、窓の外には変わらずの闇が広がっていた。

 ベッドの上に放り投げたままの懐中時計を手に取り時刻を確認すると、まだ夜の23時になったばかり。

 ルクスは伸びをしようと大きく腕を天井に伸ばそうとするが、


「か、体が痛い……」


 ギシギシと悲鳴を上げる体。

 痛む首と背中を摩りながらベッドに倒れ込むと、包み込まれるような布団の柔らかさにほっと安堵する。

 眠ってしまう前、ラティディアと話をしていたことは覚えている。が、いつ眠ってしまっていたか記憶がない。目覚めたときに窓枠を枕にしていたのだから、話し込んでいる最中に寝てしまったのだろう。堅い窓枠に凭れて寝たのだ、体の至るところが痛むのも無理はない。

 二度寝ならぬ三度寝でもしようかと考えたが、そうしようにも中途半端に目が冴えてしまっている。

 ベッドにうつ伏せたまま暫くぼんやりとしていると、一階のほうから物音がした。


「……ドナさん、もう起きてるのかな?」


 まだ昼の刻まで二時間はある。

 こうやってなにもしないでいるよりは体を動かすほうが好きな性分であるので、ルクスは体が痛んでいたことも忘れ、ベッドから飛び起きた。


 ***


「あら、ルクスくん。おはよう」

「ホントにおはようですね」


 想像通り、一階のリビングではドナさんがいた。

 はたきを片手にせっせと掃除に励むドナさんは、ルクスの顔を見るなり朗らかな笑顔を向けてくれる。


「昨日はよく眠れたかい?」

「眠りすぎて、体が痛いぐらいですよ」

「いいことだいいことだ。寝る子は育つって言うからね」


 この歳で育つのだろうか。できるならもう少しだけ身長が欲しいところだが。

 ドナさんは一時たりとも掃除をする手を緩めずに、忙しなく働く。そんなドナさんの姿を見つめながら、ルクスは邪魔にならないようにとリビングの柱に寄りかかって、凝り切った肩を揉み解す。

 こんな風に全身が軋んでいるのは剣の稽古で扱かれたとき以来だ。それももう何ヶ月前だろう。


「そういえば、ノルム国に向かうんだろう?」

「はい」

「じゃあ、早いこと出ないとね。また迷子になって夜の刻にそこいらをブラブラしてるようじゃ、パクッと魔物に食われちまうよ」


 縁起でもないことを言わないでほしい……とも思ったが、迷子にならないと否定できないためにぐっと声を詰まらせる。

 腰を曲げ、続いて箒で床を掃き始めたドナさんの口元は苦笑を浮かべている。


「昼の刻になったらすぐ出な。ノルム国まではまだまだあるんだからね」

「えっ……! いや、それじゃ、一宿一飯の恩義をお返し――」

「若い子がなに言ってんだい。昨日も言っただろう。人様を泊めることなんてザラにあるんだよ。寧ろ、久々に若い子と話ができたからねぇ、こっちのほうが感謝したいぐらいだよ」


 言って、ドナさんはカラカラと気前のいい笑い声を上げる。

 ドナさんの言うとおり、昼の刻は六時間しかない。ここから六時間では、ちょうどノルム国の国境を越えるか越えないかの距離であり、早いうちにここを出たほうがいいのは確かだ。

 しかしそれでは自分の気持ちに収まりがつかない。見ず知らずの自分たちにこんなに親切にしてくれたドナさんとリックさんに感謝してもしきれないほどなのに、なにもしないままでは申し訳がつかなかった。


「……じゃあ、掃除。手伝わせてください」


 ルクスはテーブルの傍らに置いてある使い古された掃除用具の中から雑巾を掴む。

 ドナさんは忙しなく動かしていた手をぴたりと止め、大きく目を見開いてルクスを凝視した。


「いや、低いとことか腰痛いかなー、なんて。知り合いが、掃除するとき雑巾がけが一番腰に堪えて嫌いだって言ってたんで」


 慌てて言い繕いながら、ルクスはバケツに手を突っ込み雑巾を絞り上げる。

 ドナさんもちゃきちゃきとして元気そうに見えるが、少なくとも若くはない歳であるはずだ。腰を曲げて床を掃く様子を見ていたら、腰を折って行う雑巾がけは重労働であるはずだ。――知り合いの言うことが正しければ、だが。と言うよりも、知り合いはドナさんよりも随分と若いはずだけれども。

 床に膝をついて、人生初の雑巾がけを始めると、ドナさんも諦めたように息を吐いた。


「なんだい? 私がもう歳だって言いたいのかい?」

「え!? いや、ちが――――いったい!」


 思わぬドナさんの問いかけに、動揺を隠し切れなかったルクスは傍にあったテーブルの角に後頭部をぶつける。

 ガダンッ、と騒々しい音が鳴ったことを思うに、随分強く打ち付けたんだなーと考える。考えるまでもなく、後頭部には激痛が生じているんだけれども。

 ルクスが涙目になっていると、離れたところでドナさんが笑い声を上げていた。


 ***


「それじゃあ、ドナさん、リックさん。ありがとうございました」


 振り返り、改めて昨日の感謝を示すと、わざわざ見送りに出てくれた老夫婦は優しげな笑みを浮かべてくれた。

 仰いだ先の空は澄んだ青色で、天気の心配をすることもなさそうだ。


「あ、あの! 私、なにもお礼できなくてすみません!」


 まだどこか間の抜けた声音のラティディアが、心底申し訳なさそうにそう告げる。

 昼の刻になってようやくリビングに降りてきたラティディアは、ドナさんの掃除を手伝っているルクスの姿を見るなり目を白黒とさせていた。

 それからは急いで準備を整えて、あっという間に出発だ。まだ昼の刻になって15分ほどしか経っていないので随分と慌しい出発だとは思うが、今日中にはノルム国に着きたいのでどうしても時間が惜しい。

 朝食用にといつの間にかドナさんが作ってくれたサンドイッチを入れた袋を抱えながら、ラティディアはなにもできなかったとひたすらに謝り倒していた。


「あの! 代わりって言うか、今度トゥルースヌーンで劇やるときは、お二人を招待しますね!」


 ラティディアのその言葉に、ドナさんが「まぁ」と嬉しそうに頬を緩めた。

 昨夜の食事の場でラティディアが劇団の団員だと知ったドナさんは、興味深げにラティディアの話に耳を傾けていた。行ってみたいものだと零していたドナさんにとって、ラティディアの申し出は十分なお礼になり得るだろう。


「さて、名残は惜しいけれど、二人とももう行きなさい。最近では『刻の歪み』だとか影響で、昼でも魔物が暴れているって話を聞くからね」


 ぴくりと、自らの頬が痙攣するのがわかった。それをひた隠すようにして、口を開く。


「『刻の歪み』――ですか」

「ああ。それの影響で作物が荒らされちまったりね、育ちもなんだか悪くなってるし……どうにかしてほしいものだよ」


 ドナさんが諦めとも思える溜息を吐き出す。ずきり、と胸の奥に棘が刺さるような痛み。

 こんな小さな集落にも、影響が出ている。その事実を『事実』として突きつけられた衝撃に、ルクスはずっと浮かべていた笑顔を取り繕えないほど動揺していた。隣立つラティディアの表情もどこか曇り気だ。

 そんな自分たちの変化を不安と受け取ったのか、ドナさんはこちらにずかずかと歩み寄ってきては自分とラティディアの肩を力強く叩いた。


「なにそんな顔してんだい! ルクスくん、腰にあるその剣は飾りかい? なんかあったとき、アンタがラティディアちゃんを守ってあげないといけないんだから、もっとしゃんとしなさい! ラティディアちゃんも、女がそんなしょげた顔してたら、男も守り甲斐がないってもんよ? 女は愛嬌。笑っときなさいな」


 ドナさんの豪快な一撃と畳み掛けられる言葉にルクスが慌てて背中を伸ばすと、ドナさんは満足げな笑みを浮かべて「よし!」と背中を押してくれた。ラティディアもぎこちないながら笑顔を浮かべている。照れくさそうに緩んだ目元がほんのりと朱を帯びていた。


「また来ますね、お元気で」


 それだけ告げて、ルクスたちは集落を後にした。

 ドナさんは見えなくなるまで手を振ってくれたが、リックさんは最後まで黙したまま言葉を交わすことはなかった。リックさんの声をきちんと聞いたのは数度程、それも相槌ばかりで今きちんと声を思い出せと言われても曖昧なものだ。

 ――次来るときは、もっとゆっくりお話してみたいものだけど。

 それが叶わない願いであることはルクスも承知していた。だからこそ、この数時間だけの出会いを忘れないように二人の笑顔を心に刻み付けた。


「ルクス、サンドイッチ食べないの? 美味しいよ?」


 ドナさんの作ってくれたサンドイッチを早速頬張りながら、ラティディアはルクスにサンドイッチを一つ差し出した。


「ラティディア、頬っぺたにソースついてる」

「なッ……!」


 一瞬で頬を真っ赤に染めたラティディアが、大慌てで頬のソースを拭う。そんな仕草を見てルクスは微笑しながら、渡されたサンドイッチを口に運ぶ。レタスとベーコンを零れそうなほどに挟んだそれは、自分でも口元を汚してしまいそうなほどのボリュームだった。一口食べるだけで顎が外れそうなサイズ感だ。

 ベーコンの味を噛み締めながら、ルクスはぼんやりと空を仰ぐ。


「これから何日でノルム国に着けるかなー」

「ノルム国って言っても、首都のプラーズバズにいるはずだからね。下手したら一週間近くかかるかも」


 冗談とも本気ともつかない声音でラティディア。ルクスはうーん、と一つ唸る。

 一週間も旅を共にするのだから、ラティディアとは仲良くなりたいところだ。ドナさんやリックさんを交えた食事の席で語り明かしたことで随分打ち解けたはずだが、いまひとつ自分の中で決め手に欠けていた。仲良くなるのに、決め手もなにもあるのだろうかとも思ったが。

 仲良し……気兼ねなく話せること……愛称……。――そうだ。


「ラティ!」

「え?」


 ラティディアが目を丸くして振り返る。驚いたような表情にしたり顔を向けて、ルクスは続ける。


「ラティディアのこと『ラティ』って呼んでいい? こうしたほうがさ、なんだか『仲良し』って感じしない?」


 純粋に問いかけるルクスの顔を凝視し、ラティディアは幾度か目を瞬かせる。意味を解せない様子で。

 あれ、なにか間違えたか? と首を傾げるルクス。

 それを見たラティディアが、堪らずといった具合で吹き出した。


「本人に対して、仲良しって感じしない? って変な質問。ふふっ……ルクスってやっぱり面白い」


 目元を拭いながらラティディアは笑う。

 面白い……あんまり褒められたような気がしない。実際に褒めてはいないだろうけど。

 膨れ面をするルクスにごめんごめん、と謝りながらラティディアはルクスの正面に回りこんで


「でもね、私の周りの人って私のこと『ラティア』って呼ぶんだよ?」


 と悪戯な微笑を浮かべた。

 そっか。ラティディアにはもう愛称が決まっているのか。確かに『ラティディア』といったら長い名前であるために、愛称をつけて短くするのも納得する。彼女の周りがつけた愛称で呼んでもよかったのだが、ルクスは


「でも僕はラティって呼ぶ。そっちのほうが『特別』な感じじゃない?」


 自分が始めて同年代で親しくなれた女子なのだ。彼女が自分の中で特別な存在であることを示したくて、敢えて周りとは異なった愛称を提案する。

 どうかな、と尋ねるようにラティディアの顔を覗き込むと、ラティディアは後ろ足で器用に歩いていた足を止め、口元を両手で覆い隠す。


「気に入らない?」

「気に入らないことはないデス……」


 視線を逸らし、押さえられた口からくぐもった声音でそう告げられる。


「ならよかった。改めてよろしくね、ラティ!」


 笑いかけながら、ノルム国へ急ぐために歩を進めていく。

 均されただけの土の上を踏みながら歩んでいくと、先程まで元気だったラティディアが、まるで苦虫を噛み潰したかのような苦悶の表情で自分の半歩後ろをついてきていた。未だに口元は両の手のひらで覆われたままだ。やっぱり気に入っていないのだろうかと不安になって何度か背後を振り返る。が、ラティディアはその視線から逃れるように明後日の方向を見つめたままだ。

 諦めて、正面を向いてノルム国へと続く道のりを眺める。

 地平線を望む、見渡す限りの平原に一瞬だけ眉を顰めるルクス。これは本当にノルム国まで一週間かかってもおかしくないだろう。まず目指すべき国境の森の一部すら窺えない。


「特別……トクベツ……へへ」


 そんなラティディアの笑み声が、背後から聞こえたような気がした。

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