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0005  思い描いたふうけいが

 泥や砂を洗い流しさっぱりした体で風呂場を出ると、香ばしいパンの匂いに引き寄せられるようにしてダイニングへと着いた。

 ダイニングには4人掛けのテーブル。その上にはサラダや鍋に入ったままのシチュー、チキンの香草焼きなど、所狭しと並べられている。


「あ、ルクスちょうどよかった。ご飯もうできるよ。リックさーん、ご飯できましたよー!」


 先程の風呂場での出来事がなかったかのように、変わり映えなく朗らかなラティディアの声音。

 聞き覚えのない名前に首を傾げていると、テーブルの奥にあるソファーから、一つの影がゆっくりと起き上がった。

 影が振り返る。彫りの深い、50代半ばほどの男性だった。男性は、のんびりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる。正直な話、なかなかに強面な男性だった。


「はじめまして、僕、ルクスって言います」


 濡れたままの髪を揺らし、ぺこりと頭を下げる。

 男性――ラティディアはリックさんと呼んでいたか――は大きく頷き、それきり。

 椅子に腰掛けては、まるで石像のように固まったままどこぞともわからない場所を見つめている。


「お父さんはシャイなんだよ」


 と言って初老の女性、ドナさんはこんがりと焼けたパンを皿いっぱいに盛ってやってきた。

 食事の準備も終わったのか、その後ろからラティディアも小走りでこちらに向かって来る。

 全員が揃ったところで、リックさんは再び首を大きく縦に振った。これは、シャイと言われたことに関しての返答なのだろうか。少し悩んだ。


「今日は腕を振るったわよお。若い子が来るなんて久しぶりだからねぇ。たんと食べて頂戴」

「ありがとうございます!」


 言いながら椅子に腰をおろし、食事が始まる。


「さ、サラダは私が作ったよ!」


 隣に座ったラティディアが、意気揚々とルクスに告げる。

 言われるままにサラダに視線を向けると、大きな木のボウルにこれでもかと盛られた瑞々しく色とりどりの野菜。多分、軒先にあった畑で作られたものだろう、かけられたドレッシングを弾かんばかりの新鮮なものだった。

 せっかく作ってくれたものだ、一番に手を伸ばしたサラダは見た目通りに瑞々しく野菜にも甘みがあって美味しい。


「うん、美味しい!」

「ホント!?」


 ぱっと顔を綻ばせ喜ぶラティディア。

 そんな二人の会話を聞いて、テーブルを挟んで正面に座るドナさんが呆れたような笑いを漏らした。


「本当に、びっくりするぐらい料理ができないんだねぇ」

「だ、だって……いっつもお兄ちゃんが作ってくれてたから……」


 ドナさんの言葉に、ラティディアはしょんぼりと肩を落とし縮こまる。


「料理ができないといいお嫁さんになれないよ」

「え、そうなんですか?」

「なんだい? ルクスくんも素敵なお嫁さんになりたいのかい?」

「い、いや、そういうわけではなくて……」


 意地悪そうに笑いかけてくるドナさんに困惑しつつ、取り分けてもらったシチューを受け取る。

 ドナさんの隣に座るリックさんは、相も変わらず無言のままでシチューにパンを浸していた。


「料理が作れなくても、一生懸命頑張ってくれたものだったら嬉しいかなって。そういう相手がいるわけでもないんですけど、多分……。ホントにドナさんの言うとおりですね、気持ちがあるだけでどんな料理だって美味しく感じられる」


 そう言ってシチューを口に運ぶ。歪な形の人参は、言わずもがなで誰が切ったかわかってしまった。

 こうしてテーブルを皆で囲んで、団欒をしながら食事を取る。そんな極々一般的な食卓の風景が、ルクスにとってはまるで絵画の世界の話だった。

 当たり前の一日の一場面。それなのに自分は、そんな一場面に混ざれない、手に入らない。

 風景画には、いくら手を伸ばそうとも阻まれる。自分と絵画を隔てるものは、次元の違いだ。存在する場所が違うのだ。

 いつしか手を伸ばすことすらしなくなっていたのに、今自分は幾度も思い描いた風景の中にいる。

 綺麗に均等なサイズで切り分けられているじゃがいもやブロッコリーの中に、大きさも形もバラバラな人参が申し訳なさそうに皿の中に収まっているのを見たら、頑張ってくれたんだと思わず笑いが生まれてきた。――こんな風に一生懸命になられちゃ、今更人参が嫌いだなんて言い出せないや。

 口元が緩んでいると、そういえば妙に静かだなと顔を上げる。

 視線を上げた先ではラティディアとドナさんの二人が、まるで珍しいものでも見るかのような目でルクスを凝視していた。そんな中でもリックさんはどこ吹く風で料理を口に運んでいたが。


「な、なんですか二人とも……鳩が鉄砲食べたみたいな顔して」

「さすがに鳩も鉄砲は食べたくないと思うけどねぇ」


 あ、豆鉄砲だった……と、慌てて訂正。


「しかし面白いこと言うもんだね。ルクスくんっていくつだっけ?」

「この間、19になったばかりです」

「そうかい、アンタのお嫁さんになれる子はさぞかし幸せだと思うわね」


 え、なんでいきなりそんな話?

 なにかまた変なことでも言っていただろうかと、ルクスは内心でうろたえる。

 ドナさんの言葉に大きく頷くラティディアを横目に、なんだか恥ずかしくなってきたルクスはパンの山から一つを掴み口の中に押し込む。

 すると、これまで沈黙を貫いていたリックさんが突然


「どんなものでも、母さんが作ったものは美味しい」


 と、掠れそうな声音で呟いた。

 一瞬、聞き間違いかとも思った。ドナさんが驚いて視線を向けると、リックさんは先程よりも僅かに顔を俯かせていた。それにどこか、口元に力が込められているような。

 リックさんはそれ以上は言葉を発することはなく、ただ黙々と目の前に並んでいる料理を口の中に放り込んでいく。


「………………そうかい」


 そっと囁いたドナさんの声もまた、どこか嬉しさを噛み締めたものだった。


 ***


 ドナさんとラティディアの作ったご飯をたらふく平らげてすっかり重くなってしまった体で、ルクスは夫婦のお子さんが使っていたという部屋へと向かった。

 あのあとだが、リックさんの言葉に気をよくしたドナさんが、あれもこれもとルクスに料理を勧めてきた。


「ルクスくんのために愛情込めたからねぇ」


 とはにかみながら料理を取り分けてくれるドナさんに、ルクスも断ることはせず延々と食べ続けた結果、階段を上るだけで息切れを起こすほど満腹となってしまった。

 そんな食事とお喋りに盛り上がった結果、時刻は夜の10時。

 隣の客間を借りたラティディアに心配されながら自分も部屋へと入り、限界を超えていた体はそのまま窓際にあったベッドへと落ち込んでいった。


「今日は色々あったなぁ……」


 柔らかい布団に顔を埋めて呟く。同時に、どっと体に疲労感が押し寄せてきた。瞼が重くなる。このまま寝てしまいそうだ。

 そう思ったのも束の間、ルクスの意識は夢の世界に連れて行かれた。


 ***


 ぼんやりと意識が現実に引き戻されたとき、あぁあのまま寝てしまったのだと薄ぼんやりと理解した。

 一体どれだけ寝ていたのだろう。窓の外を見てもまだ闇夜が広がる。

 力がうまく入らない手をズボンのポッケに突っ込み、懐中時計で時刻を確認してみると夜の13時。まだ3時間しか経っていなかった。気分的には短針が一周していてもおかしくなかったが。

 よほど深い眠りだったのだろう、全身の倦怠感は残るが寝覚めは悪くなかった。

 履いたままだったブーツを脱ぎベッドの上に乗ると、ルクスは窓を開け放って夜空を眺める。

 入り込んできた夜風がルクスの髪を靡かせる。くすぐったさに髪を撫で付けると、自慢の金髪がふわふわのウェーブがかっていた。すさまじい寝癖だとのんびり思う。


「なんか、のどかでいいよなぁ……」


 こんな風にだらしない格好で寝ても髪の毛がぼさぼさになっても、誰も咎める者はいない。それがルクスにとっては初めての経験であり、妙な満足感を覚えさせた。

 窓枠に腕を置いて、それを枕に空を見上げる。

 静寂な世界。聞こえる音は風声と、自らの吐息だけの静まり返ったおだやかな空間。

 自らの腕を枕にしたまま再び襲ってきた睡魔に身を委ねようとしていると、突然、風音だけだった世界に規則的な音の連なりが響いてきた。


「ん?」


 それは歌のようだった。風に混じってかすかにしか聞こえないが、確かな旋律は宵闇の中に溶けるように響いている。

 ――綺麗な、歌だった。

 鈴のように軽く、吹けば消えてしまいそうな頼りない歌声。だがしかし、こんな綺麗な澄んだ音は聞いたことがなかった。

 なんて歌だろう――そう思って、歌の出所を僅かな音だけを頼りに探す。

 月は雲に隠れてしまい、明かりが届かない真っ暗な地上。耳を澄まして音の方角を探していると、音は自分の部屋の隣の部屋から聞こえているようだった。

 そこまで気付いたら、もう歌声の主はわかったも同然だった。

 窓から身を乗り出し、隣の部屋のほうへと耳を傾ける。風もいつの間にか凪いでいて、世界は彼女の歌声だけが満ちていた。

 歌の歌詞は聞き取れない。なんの歌だろうか、曲が終わったときにでも彼女に問うてみよう。

 そう考えていたら、いままで雲の奥に隠れていた月が顔を覗かせて、地上に明かりが降ってきた。

 視界が冴え、ルクスは視線を歌声が聞こえるほうへと向ける。月明かりに照らされたラティディアが、窓枠に腰をかけて確かな旋律を紡いでいた。

 自分が寝ている間に着替えたのだろう、淡い色のワンピースに袖を通し月明かりに照らされる様は、昼間のあどけない雰囲気とは打って変わり、神秘的でいて綺麗だった。

 月を見上げたままのラティディアはルクスの視線に気付いていない。じいっと彼女の横顔に見惚れていると、歌は静かに終焉を迎えた。

 顔を下ろし、深く息を吐くラティディア。

 その表情があまりにも憂いに揺れていたものだから、ルクスは声をかけようとしていたことを止めて戸惑っていた。

 一度喉の奥に引っ込んだ言葉は、時間が経つにつれて奥のほうへ沈んでいく。タイミングを計り兼ねていると、彼女のほうが自分の視線に気付いた。


「ゴメン、起こしちゃった?」

「あ、いや、ちょっと前に起きてたよ。こっちこそ邪魔したかな?」

「ううん。そんなことない。でも、ちょっと恥ずかしいかな。まだ練習中だから」


 ラティディアはそう言って右耳のピアスに触れる。

 照れたように笑う仕草は、先程の憂いの色が見間違いだったのではと思うほど愛らしく少女らしいものだった。

 一瞬疑念が混じると、今しがたの出来事にも自信が持てなくなる。なにせ自分は寝起きだ。

 とりあえずの疑問は頭の隅に追いやり、ルクスは会話を繋げる。


「練習中って?」

「昼間話したと思うけど私、劇団リベルヴィの劇団員なんだよね。そこで踊り子してるんだけど、ちょっと前に劇団の歌手が結婚するって辞めちゃったの。だから、劇団にはいま歌手がいない状態で。募集もかけてるんだけど、なかなか応募がなくってね。で、ちょっと興味があったって言うか、歌うことも好きだったから、歌手になるための練習をこっそりしてるのです!」


 照れ隠しなのか、ラティディアは勢い込んで拳を虚空に突き出す。ほの暗い闇の中ではっきりとはわからないが、その頬は僅かに赤みが差していた。


「頑張ってるんだね」

「まだまだ全然。よく音外すし……」


 そこまで言ってラティディアは肩を落とし唇を尖らせた。

 勢い付いたかと思ったら落ち込んで、見ていて飽きないなあと内心で思う。


「そんなことないよ、僕はラティディアの歌声好きだな」

「…………ほ、ホント?」

「うん、ホント」


 そう言って彼女に笑いかける。ラティディアは一瞬目を見張り、体を丸めて「えへへ」と声を上げた。

 表情のほとんどは隠れてしまって窺えない。照れてるのだろうか。

 だが、柔らかそうな桃色の髪の隙間から見えた瞳は、ほんの、ほんの僅かだったが曇った色を映していた。


「――ラティディア、どうしたの?」

「え?」


 ほとんど無意識で、言葉が吐いて出た。

 聞き返してくるラティディアに自分のほうが驚いてしまって、慌ててルクスは言葉を続けた。


「いや……なんとなくなんだけど、ラティディア……時々、なんだか不安そうな顔してるから」


 歌の直後の表情も、見間違いではなかった。それは今まさに彼女が浮かべた暗い色を見て確信する。

 聞いていいものか躊躇いはしたが、一度口に出した以上有耶無耶にしてしまうことはできなかった。

 自分の気のせいである可能性もあるし、聞かれたくないことであれば受け流すだろうと。

 それに、何故だろう――彼女のことはきちんと知っておかなくてはならない気がした。これもまた、なんとなくだけど。

 ルクスの言葉に、ラティディアは。

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