0037 卑しい民
刻の歪みが起こり、結局それから狂った時間が直ることはなかった。日が昇る時間である0時。太陽がすでに空に佇んだ状態で、本来の昼の刻を迎えたのだ。
宿で休息を取るつもりであった一行は、突然起こった刻の歪みが原因で結局ゆっくりと体を休めることはできなかった。
宿の外では騎士団をはじめとした人間が、阿鼻叫喚と化した街を鎮静化しようと駆けまわり大声を上げていた。それが昼の刻中続いたのだがら、今回の刻の歪みによる被害は甚大だと思われる。
昼の刻でも気にせず動き回れる光の民であるルクスが、なにか手伝えることはないかと街の外に出ようとしたが――それはハインラインに止められた。「やめたほうがいい……」と、説明はただそれだけ。
納得できずに宿の外へ飛び出したルクスの目の前にいたのは、フードを目深に被ったケネスと、それに寄り添うように隣立つ彼儚だった。
「無事だったんですね」
いつの間にかはぐれていた二人を案じていたルクスは、二人の顔を見るなり安堵のため息を吐いた。
そんなルクスに、ケネスは「見たとおりね」と皮肉げな笑みを浮かべるだけだった。
「で? 慌てて飛び出してどこ行くつもり?」
「街がこんなに混乱しているんです……なにか、役に立てることはないかって」
俯くルクスに、ケネスは口の端を歪めた。嘲笑するかのような寒気のする笑み。
「行かないほうがいいと思うけど」
「ケネスさんまで……」
「……わたしも、あまりおすすめはできません」
まさか、彼儚にまで否定されるとは予想外で、ルクスはむっとして声を荒げる。
「なんで! 目の前で困ってる人がいるんだよ!?」
「――――卑しい民がなにを」
ぞっ――と。突如として背後から聞こえた言葉にルクスが反射的に振り返る。
そこにはソファーに深く座り込む、年老いた老婆がいた。老婆は乾き切った手のひらをきつく握りしめ、血走った赤い目でルクスの姿を凝視している。全身が総毛立つような底知れぬ恐怖に、ルクスは口を噤んだ。
「……ルクスさん、行きましょう」
彼儚に腕を取られ、ルクスは渋々部屋へと戻った。老婆がいつまでも自分を見つめているような錯覚に囚われ、その日は結局まともに休むことはできなかった。
日をまたぎ、6時になったとき――長い間空に浮かんでいた太陽が消え、頭上には月が鎮座した。ようやく平常な刻の変化が起こり、ルクスもほっと胸を撫で下ろす。
7時になったとき宿を出ようと話し合っていた一行は、時間ぴったりに食堂に集まって宿を後にした。
ケネスとミランジェは目的を達したからと言って、そこで別れた。
「じゃあね、ルクスくん。――それと、彼儚ちゃん」
別れ際、名を呼ばれた彼儚が目を瞠って小首を傾げる。
「名前……覚えたからね?」
笑んだ顔でそれだけ。名残惜しそうにするでもなく、ケネスは一行に背中を向けて去って行った。
ミランジェはというと、ラティディアから「またね!」と告げられ、たじろいだ様子でケネスのあとを追っていった。
二人の姿を見送って、ルクスたちは彼らとは逆の方角へ歩先を向ける。
「じゃあ、行こっか」
***
昨日の騒動が嘘のように、城の周辺は静まり返っていた。トゥルースヌーンの城壁前は観光客や、城の警備や侍従たちが行き交い賑わっているのだがここはそういった喧騒とは無縁の寒々しいほどの静寂が満ちている。
堅牢な石造りの城門前に一行が着くと、隻眼の女性が出迎えてくれた。スフィルは一つに結わえた尻尾のように長い髪を揺らして、ルクスたちを先導する。城の内部は、昨夜の騒動の名残を残した雑然とした様子だ。壊れた照明はそのままに、騎士団や侍従や女中たちが忙しなく廊下を駆けている。
無口な女性に連れられ、一際豪奢な扉の前に立ったルクスたち。謁見の間だ。
「中にいらっしゃる」
という端的な言葉に促され、ルクスたちはその扉の中へと歩を進めた。
謁見の間の内部は、やはりイングレッソの城と同様高い天井と広々とした空間が設けられていた。自分たちの足音が広間に反響する音を聞きながら、視界の端に見受けられるへこんだ壁や、刃が床に突き立った跡などに、ルクスは静かに顔を歪める。
謁見の間に敷かれた絨毯の上を歩いていくと、階段の先――玉座の前に佇む少女がいた。
「……お待ちしておりました」
昨日よりずいぶん顔色はいい。菫の花のような淡い髪を揺らして、ユディーナが深々と頭を垂れた。
「落ち着いたみたいだね、よかった」
ルクスの笑いかけに顔を上げたユディーナ。躊躇いがちに口元を緩める仕草にルクスもほっと胸を撫で下ろした。
しかし、謁見の間――いや、正確には玉座を前に、ルクスは違和感を禁じ得なかった。
騒動の跡を残してはいるものの、ルクスの見慣れた城と同等に意匠を凝らした造りに特別変わったところはない。
――ああ、窓か。
と、夜の刻であるのに厚いカーテンで覆われた窓を見遣ると、ルクスはこれが違和感の原因なのだと思い致る。刻の歪みを恐れての対応なのだろう。だが、それでもなお胸の奥のほうにしこりがあるような気がしてならない。
そういえば――。ふと、この街にまで赴いた理由を思い出し、ルクスは口を開いた。
「皇帝陛下に、謁見をしたいのだけど……」
その瞬間、ユディーナの肩が大きく跳ねた。それに気付かないほど、ルクスも鈍くはない。
ユディーナの表情に影が差す。柔らかな笑みを湛えていた口元は、いまは噛み切ってしまうのではないかというほどにきつく結ばれている。
嫌な沈黙が場に満ちる。声をかけようにも、適した言葉が思い浮かばずルクスも口を噤むだけだ。
「…………一年前に」
ぽつりと落とされた言葉に、ルクスが首を傾げた。
ユディーナは細い指先を玉座へと伸ばし、愛おしむように金で縁取られた豪奢な肘掛けをなぞる。
「刻の歪みが起きたのは、ルクスさまもご存知ですよね」
顔を上げたユディーナの表情は、どこか虚ろなものだった。視線はルクスへと向けられているのに、その瞳にはなにも映ってないような空虚な色。
問いかけに頷くルクスにユディーナは瞑目し、再び一行の間には沈黙が流れる。
「刻の歪みによって、この国は多大な被害を受けました。街にも人通りが少なかったでしょう? それは、刻の歪みを恐れてもありますが――刻の歪みによってこの国の人口の二割が亡くなった為でもあります」
ユディーナから告げられた衝撃的な言葉に、ルクスは息を呑んだ。国の二割の人間が、刻の歪みによって亡くなった。その事実に、頭がグラグラとする。そんな重大なことでさえ、イングレッソとエグザトの両国間では知らされていない。
騎士団の青年から、刻の歪みにより騎士団の人間も多く亡くなったとは聞いていた。警備が十分でないいまを狙って、野盗たちが城を狙ったのが昨日の出来事だ。
そうでなくとも刻の歪みによってこの国は揺れている。それなのに刻の歪みは直るどころか、一年以上もの長い間繰り返されている。闇の民は気が気でないだろう。不安定な情勢に追い打ちをかけるかのように、治安も悪くなっている現状。玉座を前にした少女の肩が、その重みに耐えかねるかのように小刻みに震えていた。
「皇帝陛下……わたくしの、父上は……」
掠れた声で、ユディーナが言葉を紡ぐ。
「――――刻の歪みによって亡くなりました」




