0030 恋歌
ぎぃぎぃと不安になるような軋む音を立てる階段を、重たい足取りで上りながら、ラティディアは早鳴っている心臓を抑えるのに必死だった。
一時間ほど前――ロードに告げられた言葉が耳に張り付いて剥がれない。
『それはつまり………………恋にゃ!』
脳裏に、猫の癖に自信満々な笑みを浮かべたロードの顔が思い浮かぶ。
あの場は動揺してしまって冷静な判断ができなかったが、いまこうして時間を置いて改めて考えてみると、途方もなくルクスに会いづらかった。
(ロードのばか……彼儚さんのばか……!)
頭の中で恨み言を繰り返しながら、ラティディアは体調不良の二人を押し込めた部屋へと向かう。
妙に意識してしまう原因を作ったのはもちろんロードだが、彼儚はラティディアが動揺しているのを知ってか知らずかルクスとティオンに薬を届けてほしいと頼んできた。なんでも彼儚は、用があるので出かけたいのだとか。
そう頼まれてしまっては断れるわけもなく、そもそも勝手に緊張して会いづらくなった原因はロードでも誰でもなく自分自身だと理解しているラティディアは、彼儚の調合した薬を力強く握り締める。
二人のいる部屋の前に着くと、ラティディアは覚悟を決めるように大きなため息を吐いた。
(変に意識してはダメ……平然と、普通に、舞台に立った時を思い出して……そうよ、これがまだ恋と決まったわけでは……!)
急激に顔が熱くなるのを自覚して、ラティディアは扉の前で一人蹲る。自分で意識してしまう原因を思い出してしまってどうすると、自身に対して憤りを感じていると――突然、目の前の扉が開かれた。
それに反応するのが一瞬遅く、ラティディアの顔面に扉が激突する。
「ぶっ!!」
「うわっ。……なんだよラティディア、人の部屋の前で気持ち悪い」
現れたのは、栗色の髪をした生意気そうな少年だった。ティオンは、鼻を押さえ涙目になるラティディアを見下ろして怪訝な顔をする。
「ふつう……まず謝らないかなぁ……?」
「あー……はいはい。悪かった。んで? お前も、人の部屋の前で不審な行動してることに対して説明してくんない?」
ラティディアは乱暴な口調の少年に向けて、握り締めていた薬を突き出す。
それを受け取ったティオンは不思議そうに首を傾げた。
「なにこれ」
「彼儚さんが調合した薬。吐き気とか抑えるのに効くって」
彼儚が言った言葉をそのままティオンに伝える。ティオンは納得したようなしてないような曖昧な表情で小さな小包を見つめては「どーも」とそれを受け取った。
「でも、結構体調戻ったみたいだね? ご飯とか食べれそう?」
「護衛がいつまでも寝てるわけにはいかねーだろ……。飯かぁ、あんま気分じゃねーなぁ」
「早く行かないと、ハインが二人の分の食事も狙ってるようだったよ?」
それを聞いたティオンがぎょっとする。「二人が食事の時間までに下りてこなかったら……ご飯食べても?」と、心なしかきらきらした瞳で言っていたのだから、あながち冗談でもなんでもない。
さすがに食事を取られるのは困るのか、ティオンは仕方なしといった表情で髪の毛を乱暴に掻き毟ると、ラティディアに背を向けて階段を下りていった。
「あ、そういえば……ルクスは?」
部屋の中でまだ寝てるのだろうか。そう思ってラティディアはそっとドアノブに手をかける。
さっきぶつけた鼻先は赤くなってないかな――と、そんな不安を抱きつつラティディアが部屋の中を覗き込む。
「る、ルクスー……?」
小さな声音で、名前を呼ぶ。返事はなかった。
おずおずと部屋の中へと入り、簡素な室内を見渡す。二つ並んだベッドに視線を向けると、綺麗にシーツが畳まれたその奥のベッドで、白く丸まった大きな塊に気が付いた。
「……寝てる?」
囁くように、ラティディア。脆い床板が音を立てないように慎重にベッド脇へ歩み寄る。大きな白い塊からは、規則正しい吐息が聞こえてきた。
――無理もないか、とラティディアの口元が思わず緩む。
初めての船旅ではしゃいでいたのだし、疲れてしまってもしょうがない。
自分よりも3つも年上で、しかも王子様なんて言う高貴な存在であるにもかかわらず、こうしてシーツに包まって眠る様は幼子のようだ。
「……王子様、なんだよね」
初めてルクスに出会ったとき、彼はラティディアを背にやって魔物から自分を守ってくれた。
太陽のような輝かしい金色の髪と、青空の色をそのまま映し込んだみたいな澄んだ碧眼。その姿はまるで、子どものころに読んだお伽噺に登場する王子様のようだった。幼少のころは、兄が読み聞かせてくれたこのお伽噺の王子様に、ラティディアは恋のような憧れを抱いていたのを覚えている。
だから、ルクスを見ていて胸が高鳴るのも、その王子様に似ているからだと――そう思っていた。
けれどそれは違うと、いまなら思う。本当にそれだけの感情であるのなら、ルクスと別れるとなったあの日、胸が張り裂けそうになったあの苦しいぐらいの切なさを説明することができない。
もう一つのベッドに腰掛けて、ラティディアは小さく嘆息する。
劇団で何度も見てきた甘く切ない恋物語。いくつもあるその物語を脳裏に思い起こしていく。茨に囚われた姫君の物語、家柄の違いによって結ばれることのなかった男女の物語。
「――……そういえば」
ルクスの前で、一度だけ、歌を歌ったことがある。
出会ったあの日、魔物に怯えていた自分に彼の言葉が深く沁みたあの日。
あの時歌っていた歌は、恋歌だ。あの瞬間、不思議とあの歌を次に歌うとき、きっともっとうまく歌える――そんなことを思った。
「うまく歌えるのかな……」
ルクスは今、気分が悪くてぐっすりだ。こっそり歌っても、たぶん起きない。
理由のわからない緊張に指先が強張りながらも、ラティディアは小さく唇を震わせた。
幾度となく練習して、それでもなおうまく歌えない曲を、そっと歌い上げる。恋しい人に、会いたい、触れたい、寄り添いたい――そんな少女の切ない感情が綴られた歌詞。
目の前には、ルクスがいるのに、起こしてはいけないのに――不思議と歌声に熱がこもるのがわかった。
――聞いてほしい? たぶん、この歌を彼に聞いてもらいたい。あのときみたいに、自分の歌を好きと、そう言ってもらいたい――。
「……もしかして、子守唄?」
突然聞こえた寝惚けた声に、ラティディアは息を呑んだ。指先が冷えて、頬に熱が集まってくる。ばくばくとうるさい心臓の音に気付かれないように、ラティディアはシーツに包まってにっこり顔を向けてくる――ルクスを、努めて冷静に見つめ返した。
「……いつから起きてた?」
「ちょっと前かな」
「起きてたなら、起きてるって言ってよ」
「うん。でも、久しぶりにラティの歌聴きたかったし。邪魔したくなかったからさ」
そう言って微笑むルクスからラティディアが視線を逸らす。
――ずるい、ずるすぎる。こんなタイミングでそんなことを言わないでほしい。
だが不思議と、気分は晴れやかだった。くすぐったくて、ルクスの言った「歌を聴きたかった」という言葉を、何度も何度も噛み締める。口元が緩んでしまう。
「気分は?」
「うん、たぶんもう大丈夫。でも、まだちょっと眠たいかな」
はにかんだように笑うルクス。ラティディアは、彼の包まるシーツを掴んで、ルクスの顔面を乱暴に覆った。
「ちょ、ちょっとラティ!?」
「…………ね、眠たいなら、歌ってあげるから」
どうしようもなくにやけてしまう口元と、真っ赤であろう顔を見られたくなくて、ルクスの視界を奪う。
シーツの中でルクスが首を傾げたのがわかったが、暫しの沈黙のあと
「うん……じゃあ、お願い」
と優しい声音が返ってきた。
その言葉で、ラティディアの心臓が跳ねる。嬉しい、嬉しい。気を抜くと、今にでも踊り出してしまいそうだった。
「きっと、これは――恋なんだ」
心の中でそう確信する。心音は心地いいリズムを刻んで、いまならなんでもできちゃいそうな喜びが体中に満ちている。
「え? ラティ、いまなんて?」
不思議そうに問うてくるルクス。
ラティディアは、ときめく感情をそのままに、シーツで覆ったルクスの顔へと距離を詰め――
「私は! ルクスに恋してます!」
この胸にあふれる感情を、言葉にした。




