0028 魔法のお勉強
「彼儚さん!」
部屋を出ていった彼儚のあとを追いかけ、ラティディアが彼儚の背中に向けて声を上げる。
宿の外へと出ようとしていたのか、扉に手をかけていた彼儚がその声に振り返った。
彼儚は、一度こそ蒼色の瞳をぱちくりとさせたが――すぐににっこりと微笑んだ。
「どうかされましたか」
「あ、あの……えっとね……」
穏やかな表情で見つめられると、そこはかとなく恥ずかしくなってしまってラティディアは指先をもじもじとさせる。
彼儚は柔らかそうな細い髪を揺らし、ラティディアの顔を覗き込む。絶えずに浮かべられる微笑はまるで、職人が意匠を凝らして作り上げた人形のような美しさがあった。
「大したことじゃないんだけど……せっかく一緒に旅してるのに、あんまりゆっくりお話しできてないなぁって思って……」
「言われてみましたら、そうですね。あまりラティアさんとお話しする機会がありませんでしたね」
「あ、でも……なにか用事だったんなら……?」
ラティディアが上目で彼儚を見上げる。彼儚は一度こそ思案するように視線を巡らしたが、
「いいえ。急ぎの用事でもありませんし、少しお話でもしましょうか」
と笑みを浮かべる。ラティディアの表情がぱっと華やいだ。
「やったぁ! 久しぶりに彼儚さんに会えたから、お兄ちゃんのこととかいろいろ聞きたかったんだー」
「ふふ。……立ち話もなんですし、部屋にでも戻りましょうか」
彼儚の提案に頷いて、ラティディアと彼儚は二階にある二人の泊まる部屋へと向かっていった。
***
ベッドと木製のテーブルがあるだけの簡素な部屋。歩くたびにぎぃぎぃと音を立てる脆い床板から、この宿も随分と寂れているのだと想像できる。
「はい、ラティアさん」
「ありがとう」
彼儚から手渡されたカップを受け取り、静かにくゆる湯気にふうっと息を吹きかける。ふんわりと鼻孔をくすぐる香りは、ラティディアの好きな桃の香りだ。好みを理解されてるなぁ、と甘い紅茶に口をつけながらラティディアはそう思う。
「お兄ちゃんって、いまどんな任務に就いてるの?」
ラティディアが尋ねたかったのは、唯一の肉親である兄のことだ。歳の離れた兄は、彼儚やティオンの所属する親衛師団に勤めている。
幼いころから親衛師団に出向くことも多かったラティディアは、彼儚と旧知の仲だ。兄に相談できないような悩み事などは決まって彼儚に相談してきたこともあり、彼儚は気兼ねなく話せる姉のような存在だった。だからこの旅に彼儚が同行すると聞いたときは素直に嬉しかった。
「この間トゥルースヌーンに帰ったとき、お兄ちゃん家にいなかったから……どこか遠くに行ってるのかなぁって」
カップを両手で包みながら、ラティディアは盛大な溜息を吐く。せっかく帰郷したのだから顔ぐらい見せておきたかったが、肝心な兄が家にいないのでは話にならない。
彼儚は口元に指先を当ててくすくすと笑う。
「本当にお兄さんが好きなんですね」
事実ではあるが、改めてはっきりと言われると少しばかり気恥ずかしい。ラティディアは拗ねたように唇を尖らせた。
「そうですね、いまはトゥルースヌーンから離れた任務に就かれています」
「そっかぁ……次はいつ会えるのかなー……」
ずるずるとテーブルに突っ伏してラティディアがショックを露わにする。
彼儚はそんなラティディアを咎めることもなく、なにかを考えるように頬に手を添わせてラティディアを見つめる。
「案外、すぐ会えるかもしれませんよ」
「え?」
「……ふふ。なんでもありません」
彼儚の微笑になんだか納得いかない気持ちを抱きながらも、昔から彼女はこうやって微笑んでいろいろ誤魔化してきていた。好きな人はいないのかと恋バナを振ってみたときも、彼儚は微笑みを崩さずに「さぁ?」と首を傾げるだけだった。だから問い質しても意味がないことぐらい、ラティディアは理解している。
「にしても……彼儚さんってすごいよなぁ」
ぽつりと漏れた本音に、彼儚が目を瞬かせる。
「なにがですか?」
「魔法とか……ちょっと前にさ、ティオンの怪我をあっという間に治したじゃん。ああいうの、すごいなぁって」
「そうでしょうか」
不思議そうにする彼儚を横目に、ラティディアは自らの耳元のピアスに触れる。
以前旅の途中で立ち寄った魔術師たちの街・ラーデポリス。そこで確認すると、自分の持つこのピアスはホープというものらしい。
ラティディアにとっては母親の形見の大切なピアス。だが確かに、このピアスには不可思議な力があり、その力によってラティディアは守られてきた。それは母親が守ってくれてるのだと信じて疑わなかったが、実際はホープの力によるものであった。
そう、これがあれば、魔法を使うことができる――。
ラティディアははっとして、顔を上げた。
「ねえ、彼儚さん! 魔法教えて!」
ラティディアが思い至ったのは、極めて単純なことだった。
「魔法、ですか……?」
彼儚が面食らった表情でラティディアの言葉を反芻する。
「うん、魔法。なにか、私にもできることはないかなって、ずっと考えてたの」
以前からずっと考えていた。自分はルクスの――世界を変えようというこの旅に、無理を言ってついてきている立場だ。
ハインラインは魔法が使えるし、彼儚やティオンは護衛としてとても優秀だ。なにもできない自分に、なにかできることは――そう考えて思いついたのは、このホープを活かすという結論だった。
「……ですが」
「わ、私ね、ルクスの役に立ちたいの。なにか、ルクスにしてあげたいの」
初めて彼と出会ったあの廃墟。彼はそこで、自分を守って重傷を負った。あのときは無我夢中で、自分でも知らず知らずのうちに魔法を使って彼の傷を治癒した。これから先、護衛がいるとはいえ、彼がまた同じような無茶をしないとは言い切れない。
「ルクス、無茶ばっかりするでしょ。だから……怪我とか、すぐに治してあげられたらな、って」
途切れがちになる言葉を必死に繋いで、ラティディアが告げる。顔中に熱が集まってくるのがわかった。
――なんでだろう、ルクスのことを考えると胸がドキドキする。
早鳴る鼓動が彼儚にまで聞こえてしまいそうで、それを隠すようにラティディアは視線を足元へと落とした。
静寂が満ちる。カップに満ちていた紅茶からの湯気が、いつの間にか消えていた。
彼儚は深海のような深い蒼の瞳で、射竦めるようにラティディアを見据えている。
「……ラティアさんは、ルクス様のことを好いておられるのですか?」
沈黙を破ったのは、彼儚のそんな問いかけだった。
ラティディアは目を瞠る。全身がかぁっと熱くなって、椅子を蹴倒して立ち上がった。
「どどど、どうしていきなりそんな話になるの!?」
唇を戦慄かせるラティディアに対し、彼儚はきょとん顔で彼女を見返す。
「いえ、なんとなくそう思っただけです。深い意味はありません」
「……ふ、深い意味はないって……」
どっと疲れが押し寄せてきて、ラティディアはそのまま床に崩れ落ちた。慌てて彼儚が椅子を起こして、ラティディアがそこへ座り直す。まだまだ頬の熱が治まるような気配はなかった。
「と、とにかくね! みんなに頼ってばかりじゃなくて、私もなにか役立ちたいの! それだけ!」
一息に捲し立てると、彼儚も納得せざるを得なかったようで、困ったように眉尻を下げながらも「わかりました」と頷いた。
「……ですが、あまり無茶をしてはいけませんよ」
穏やかに、そう告げる彼儚。その声音があまりにも平坦で、言いようのない恐怖が背筋を伝っていく。
彼儚は部屋の端にまとめて置いた荷物の中から一冊の本を取り出して、ラティディアへと手渡してくる。使い込まれた表紙には『治癒魔法』という文字が刻まれていた。
「魔法というものは――」
彼儚がすっかり冷めきった紅茶へと口をつけながら、静かに語り始める。
「ホープの中に魔法陣を描くことによって、発動することができます。魔法陣を描くには詠唱が必要で、それは発動したい魔法によって千差万別です」
ラティディアは一言たりとも聞き漏らさぬようにと、真剣な面持ちで彼儚を見つめる。
「詠唱については、その本に載っている文章を声にするだけです。そして、ホープに手を翳すことによって魔法は発動します。理論的には、これぐらいで、なにも難しいことはありません。――ですが」
「……ですが?」
「魔法を使うには、魔力が必要です。魔力は個人差はあるものの、生まれながらにして誰もが持っているものです。発動したい魔法によって、体内に有する魔力を消費していきます」
ラティディアが頷く。
「強力な魔法を使う際には、やはり多くの魔力を必要とします――慣れれば、魔力の消費も抑えられますが、いまはまだ慣れる以前の問題ですので、忘れてくださって構いません。――治癒魔法ですと、小さな擦り傷を治す程度でしたら、魔力の消費も少ないです。ですが、生死に関わるような傷を治す際ですと、治癒する側にもやはり多大な負荷があります。そもそも、治癒魔法自体の扱いが難しいのです。魔力の消費も、ほかの魔法と比べたらあまりにも多い」
そう告げて、彼儚がラティディアの瞳を見つめた。蒼い虹彩はラティディアを案ずるような憂いを帯びている。
その瞳に応えるように、ラティディアは大きく胸を張り口を開く。
「えっと……要するに、無茶をしたらダメってことだよね! うん、大丈夫! 気を付ける!」
両手を握り締め、小さくガッツポーズを作るラティディア。だがしかし、彼儚は未だに心配顔だ。
「……本当に無茶はなさらないでくださいね。魔法の扱いに慣れていないと、魔力も余分に消費してしまって体に負担がかかってしまうのですから」
真剣な彼儚の蒼い双眸。本心から自分を心配してくれているのが理解できた。いつも微笑を絶やさない彼女の表情がこんな風に揺れるのを見るのは、驚きよりも新鮮さのほうが上回った。なんだか照れくさくて、ラティディアの口元が思わず緩む。
「えへへ……なんだか彼儚さん、お姉ちゃんみたい」
「ラティアさん」
「ご、ごめんごめん。心配してくれてるのはわかってるよ。ありがとう」
怪訝な面持ちの彼儚に、慌てて告げる。
「でもね、ルクスが頑張ってるんだもん……私も頑張りたいんだ」
使い古された表紙を捲り、ラティディアが綴られた文字列へと視線を落とす。印字された文字の隣には、几帳面な筆跡で補足事項が記されている。
――彼儚さんも、この本で勉強したんだろうな。
詠唱文の隣に、この魔法はどのような傷を治すのに効果的か、そういった考察がなされていた。なんだか『らしいな』と思って、ラティディアはその補足事項も含めて必死に頭の中に叩き込む。
覚えきれるか不安だったが、彼儚曰く詠唱を覚える必要はないのだと。詠唱を覚えることによって、詠唱を簡略化したり破棄することが可能にはなるが、そんなに無理をしなくても魔法は扱えるとのことだった。
冷めた紅茶を飲み干し、彼儚が淹れてくれた二杯目の紅茶を飲み切る直前で――ラティディアの記憶は途絶えた。
***
ラティディアと彼儚が部屋を出て行ってから二時間が経とうとしていた。
「あれ、アイツらは?」
外を警戒してくれていたティオンが、食事に戻ってくると真っ先にルクスにそう問うてきた。ルクスの背後でハインラインが、待ち侘びたような顔をして唇を引き結んでいる。
「……さっき――って言っても二時間ぐらい前だけど、ここを出て行ったのは見たよ。出かけてるんじゃないの?」
「馬鹿言え。もうすぐ夜の刻になるんだぞ。食事前になっても帰ってこない馬鹿がどこにいるんだよ」
吐き捨てるようなティオンの声音に苦笑しながらも、ルクスはううんと首を傾げる。
「じゃあ部屋にいるのかな……ちょっと見てくるね」
そう立ち上がって、ルクスは宿の二階へと上がっていく。ぎぃぎぃと鈍い音を立てる床板。
二人の泊まる部屋の扉をノックすると、部屋の中から聞き慣れた少女の声が聞こえた。
「どうぞ」
「彼儚。もうすぐ食事の時間だし……って、あれ?」
部屋に入るなり、彼儚が口元に人差し指を当ててひっそりと微笑んできた。
そんな彼儚の正面――机に突っ伏して、桃色の髪をした少女がすやすやと寝息を立てている。
「魔法の勉強を」
ひそやかな声で、彼儚。ルクスはラティディアの枕になってしまっている古めかしい本を見て、ああと納得した。
「……ルクス様のお役に立ちたいと、そうおっしゃっていましたよ」
「そっ、か」
ルクスはなんとなくくすぐったい気持ちで、穏やかに眠るラティディアの寝顔を見つめた。
「ルクス様も罪なお人ですね」
そう言って悪戯な笑顔を浮かべる同い年の少女。そんな彼女の髪をぐしゃぐしゃにして、ルクスは照れ臭そうにそっぽを向いた。




