挿話 暗躍する影
ルクスとラティディアが廃墟から去っていく。その背中を、一人の男が見つめていた。
漆黒のロングコートを身に着けた、歳は20代前半ほどであろう。女とも見れる細い線の輪郭と、それと相反する冷めた鮮血のような赤い瞳。女であれば見惚れてしまう端正な容姿に、なに一つの感情も浮かべず男はその場に佇んでいる。
「緋守准将……追われないのですか?」
ルクスを追っていた女が、申し訳なさそうに問う。
その言葉に、緋守と呼ばれた男は彼女へと向き直った。
「いや、アイツは俺だけで追う。彼儚は、このことを報告しておいてくれ」
「かしこまりました」
恭しく頭を垂れる彼儚と呼ばれた女。
彼儚は、ルクスたちの逃げた方角を一瞥して困ったように眉尻を下げる。ルクスたちの姿は、もう見えなくなっていた。
「それにしても、世間は狭い……と言うべきでしょうか。まさか、ラティアさんと出会うなんて」
「まったくだ。寧ろ、ラティアはノルム国に向かおうとしてなぜこの『遺跡』に迷い込んだか。街道を普通に歩けば着くだろう」
「心配なんですね、緋守さん」
彼儚が肩まである青みがかった黒髪を揺らしていたずらに笑う。黒の装束に身を包んだ姿と丁寧すぎる口調のせいでどこか大人びた印象を受けるが、こうして笑う姿はまだ少女のようなあどけなさがある。
緋守は一度、深く溜息を吐いては彼女の額を軽く小突いた。
「余計なことを言うな」
「申し訳ありません」
きっと照れ隠しだろうと納得して、彼儚は額を摩る。事実、目の前の緋守はばつの悪そうに視線を明後日に向けている。
「……ご無理はなさらないでくださいね」
「ああ」
そう言って、緋守は彼儚へ背を向けた。互いにそれ以上の言葉はない。
ただ、不安そうに緋守の背中を見つめる彼儚の藍色の瞳が、心配だけでは言い表せない感情で揺れている。
緋守はそんな視線に気付くこともなく、腰に携えている刀へと手を添えた。
赤い瞳が、ルクスたちの消えた方角へと向けられる。そして、彼儚を取り残すように緋守は駆け出していった。
しん、と。静まる廃墟。
「寂しい……わけではないのですが」
彼儚が誰に言うわけでもなく独りごちる。
伏せた長い睫毛、形の良い唇からそこはかとなく清艶な麗しさが感じられる容姿。まだ少女のような華奢な体型に不似合いなまでの艶やかさを湛え、しかしそれを彼女の持つ儚げな雰囲気が調和し、この世のものとは思えないまでの繊細な美しさを成している。
彼女は憂いを帯びた瞳で空を見上げた。
もうすぐ、夜の刻が訪れる。
「……なにか、いやな予感がします」
囁いた声は、風に消えた。
***
――時が経ち、世界は闇に満ちていた。
18時間という長い闇が支配する夜の刻が訪れて、まだそう経っていない。
闇色のキャンバスに零れ落ちた宝石のような星が彩られた空。
長く重い沈黙が流れる部屋で、ルクスを追っていた若い男は窓越しの星空を見上げていた。
「――逃がしたのか」
若い男の正面で、椅子に腰掛けた一人の男。声からするに、歳は40代から50代といったところだろう。多くの苦難を乗り越えてきたであろう男の声音は、深く渋い――そして重圧のある声であった。
その言葉を投げられた若い男は、居心地の悪さに唇を噛み締める。背中に汗が伝う。
星明りを背にした相手の顔は窺い知ることができない。それが安堵であり、また恐怖であった。
「ウェイ」
名を呼ばれて顔を上げる。ウェイと呼ばれた若い男は、意を決したように口を開く。
「申し訳ありません。現在、緋守が後を追っています」
ぎこちない敬語でウェイは頭を下げる。闇に溶けそうな深い紫の瞳は、自分の足元を見つめるだけで精一杯だった。
「どうする、レオ」
その声音はウェイのものでも、椅子に腰掛けた男のものでもなかった。これもまた重みのある声音であるが先程の男のものとは違い、どこか豪快であり厳しさを含んだものであった。
椅子に座り込んだまま視線だけを持ち上げ、レオは思案する。
「親衛師団が総出で捜索に向かうこともできるが」
「いや、放っておこう」
レオの言葉に、ウェイと男は驚きを隠せなかった。
「いいのか!? 曲がりなりにもお前の――」
「だからこそだよ、義猛」
男の言葉を遮ってレオは笑う。
義猛と呼ばれた男は訝しげに眉間の皺を深めた。
「アイツも一度、世間を知って痛い目を見たほうがいいのかもしれない。今回は、ちょうどいい機会だろう。……なに、少ししたら逃げ帰ってくるさ」
レオは楽しそうに口元を歪める。まるで、子供のような無邪気さを持って。
レオと義猛の会話をただ黙って聞くことしかできなかったウェイは、そのようなレオの様子に苦く笑うしかできなかった。
(――こういうところが似てやがるから面倒だ)
内心でそう思ったのは、目の前のレオに言えるはずもない。
「では、緋守を追わせたままでおこう。なにかあってからでは遅いからな」
義猛のその提案に、レオも首肯した。
***
二つの重圧に押しつぶされそうな部屋から出て、ウェイは深く深く呼吸をした。あの空間は、息はおろか瞬きすらすることを躊躇わせる。それほどまでに、レオと義猛の威圧感が常軌を逸しているのだ。上に立つものの尊厳さとでもいうのだろうか。
「お! 終わったか?」
声変わりすら終えていない少年の声が聞こえたと同時、未だ緊張の残る体から力が抜けた。
声の主は見なくともわかる。今日共に捜索隊として野原を駆けずり回って罵りあった少年だ。
「ティオンも一回味わってみろよ、寿命が縮まるかと思ったわ」
「んなのぜってぇイヤだし。お前と違って僕は将来を期待された親衛師団の星なの! そんなことで寿命を縮めてられねーよ」
「将来を期待された人間が、一応上司である俺にそんな口を聞くとは思えないんだけどねー」
「はっ、お前や彼儚みたいなヤツは上司とは言わねーよ。緋守准将レベルにならなきゃ。しかし、緋守准将とお前が同い年だなんて信じらんねーな。やっぱすげーよ准将」
ウェイを茶化すような言葉を次々と投げかける少年・ティオン。歳はまだ10代半ばほどだろう。生意気そうな性格が見てわかる容姿で、目の前のウェイに向けて見下したような笑みを浮かべている。若すぎるためか、親衛師団の団服である黒の装束は体に馴染んでおらず違和感を感じる。
自分よりも10歳ほど年下であるティオンから茶化されきったウェイは、女性的な甘さのある容姿を怒りに歪ませこめかみに青筋を浮かべる。
「おうおう、悪い子にはおしおきしねーとなあ」
「おしおきって、上の立場のヤツがすることだよな。お前はそんな立場じゃねーと思うんだけど」
「んだとー!」
「はいはい、お二方とも。静かになさいましょうね」
本日何回目かわからない諍いを始めた二人を、あまりの騒々しさにやってきた彼儚がようやく止めきれたのはその30分後だった。




