0025 僕の名前は
眩いまでの太陽の光が差し込んでいた純白の空間が、黒く塗りつぶされる。
明かりを灯すことも躊躇う静けさが包む中、自分の手元すら見えない恐怖にルクスの背筋には冷たいものが伝う。
漆黒の中、聴覚を研ぎ澄まして少年たちの様子を窺う。誰の呼吸も、衣擦れの音も聞こえない研ぎ澄まされた静寂が満ちている。
「…………渡せないと言ったら?」
闇色の少年の要求は、古文書だ。
だが、ルクスは古文書というものの存在を今、初めて知った。それを悟られぬように、ルクスは声音を低くして少年に問う。
返ってきた答えは、キンッ――という、高い金属音だった。旋毛から爪先まで、一瞬にして寒気が突き抜ける。
少年の剣が、適当な箇所を斬りつけたのだろう。その行動の意味することは、ルクスもすぐに理解できた。
「……」
恐怖に肺腑が潰されそうな息苦しさを覚えながら、ルクスは静かに決意した。カラカラに乾いた口を開いて、少年に向けた声を上げよう――とした、瞬間だった。
「いやっ! 離して!!」
突如として広間に響いたのは、ルクスもよく知った少女の悲鳴だった。
闇に視界を閉ざされているにも関わらず、ルクスは驚いて声のほうへと振り返る。
「ラティ!?」
「あっ……ルクス!」
声だけで互いの存在を確かめ合う。悲鳴の中に猫の鳴き声も混じっていたことから、この場にはハインラインとロードもいると判断していいだろう。
でも、彼女たちとは街の宿で別れたはずだ。それなのになぜ、彼女たちがこんな場所にいるのだ。
「――――灯りを点けてくれ」
乾き切った喉を震わせて、ルクスが傍にいた親衛師団の男に命じる。
背後の少年たちが僅かばかりに動いた気配を感じたが、
「古文書は渡す。けど、灯りがなければ渡せないだろう」
そう告げる。少年たちは沈黙を返してきた。了承の意だろう。
命じられた男が、小さく詠唱を開始した。そしてすぐに、男の目前に小さな光の玉が浮かび上がる。浩々としたこの間全てを照らすには不十分ではあるが、今この場では十分な光だ。
ルクスはすぐさま、ラティディアたちのほうへと視線を向ける。後ろ手に拘束された、今までの旅を共にしてきた二人の姿がそこにはあった。彼女らを拘束しているのは、黒い団服を身に纏った親衛師団の人間だ。
「彼女たちを離せ。僕の友人だ」
ルクスの声が凛と響き渡る。ラティディアたちを捕えている親衛師団の人間は、訝しげな視線をルクスへと投げたが――命じられたまま、彼女たちを解放する。
「る、ルクス……?」
ラティディアの震えた声音を背中に受ける。
――彼女たちがなぜここにいるのか。それを確かめたい気持ちを胸の奥に抑え込む。
ルクスは震える体を落ち着かせるように、大きく息を吸い込んだ。
国王に剣を突きつけた、闇色の少年へと向き直る。心許ない灯りの中、彼の握った大剣が月のように鋭く輝いていた。
「……古文書は、どこに」
その問いかけは、闇色の少年に剣を突き付けられた――この国の王に向けてだった。
国王は玉座に腰を下ろしたままの体勢で、その額に僅かばかり汗を浮かべている。
ルクスの問いを受けた国王は、一度こそその空色の瞳を瞠った。だがしかし、すぐに精悍な表情を浮かべ
「……国書大臣ならばわかるはずだ」
そう、ルクスに告げた。澄み切った蒼穹のような青い瞳が、ルクスの姿を見つめている。
視線が交わる。ルクスは、光を灯した親衛師団の男に素早く国書大臣から古文書を受け取ってくるように命じた。
男がラティディアたちの隣を通り過ぎ、駆け足で広間を後にした。彼の駆けていく足音が遠ざかると――広間には再び、静寂が満ちた。
闇色の少年は、未だ国王に剣を突き付けたままだ。
「――古文書を渡したら、すぐにその剣を収めろ」
少年は答えない。ルクスは歯軋りしたい衝動をぐっと堪えた。
手のひらには汗が滲む。対応を誤ってしまったらという恐怖から呼吸もままならず、思考が混濁してきた。広間はこんなに静寂としているのに、自分の鼓動の音が早鐘のように頭の中に響いている錯覚すらしている。
国王の身になにかあったら――そんな怯えと共に、胸中を支配しているのは自分の背後にいる少女と少年のことだった。
――――初めから、隠し通せるわけもなかったんだ。
ルクスは視線だけを彼女らへと向け、様子を窺う。突然の出来事に現状を理解しきれていないのであろう、目を白黒とさせて縮まり込んだラティディアと、事を荒立てないようにと配慮してくれているのか、身動ぎひとつすらしないハインライン。
そんな彼らを見つめていると、ラティディアと目が合った。不安に揺れる若草色の双眸。ルクスは、冷え切った両の手を握り締めた。
それと同時、古文書を取りに行かせた親衛師団の男が戻ってきた。その後ろに、白髪混じりの老爺がいる。その老爺の手には、古めかしい表紙の古書が握られている。
「これが、古文書……」
老爺から古書を受け取る。時代と共に風化した表紙には、もはやなにが書いてあるのかすら読めやしなかった。中身の紙も色褪せ、とてもじゃないが読めたような保存状態ではない。
こんなものが、保管されていたとは――初めて知った事実を受け止める暇もなく、少年が急かすように声を上げる。
「それを渡せ」
「剣を収めろ。渡すのはそれからだ」
冷たい少年の声音に臆することなく、ルクスもまた凛然とした返答を返す。
闇に隠された少年の表情。だがしかし、射殺されるような鋭い少年の視線をルクスは感じていた。乾いた喉を鳴らして息を呑む。
――少年は、国王に突き付けていた大剣を鞘へと収めた。その姿を見届けてから、ルクスは一歩、また一歩と少年の許へと歩を進める。
一瞬たりと、気は抜けない。まだ国王は危険な立場にある。少年が剣を抜けばすぐの間合いだ。
ルクスは、少年の目前で立ち止まる。闇色の少年の鋭い瞳がルクスへと向けられる。視線が絡む、交差する。
沈黙――時間にしてみれば一瞬かもしれないが、長い長い静寂が二人の間に流れた。
「……受け取れ」
こんな古ぼけた本にどれだけの価値があるのか、それは知らない。
だが、こうして『ゲルナイト』という集団が欲するものだ。刻の歪みに関係するなにかがそこに記載されているのは明白だった。
その情報を得るために、ルクスはこうしてこの鳥かごに戻ってきた。それなのに、その情報が記されている可能性のあるものをみすみす奪われてしまう。
しかし、この色褪せた古書にはこのイングレッソ王国の国王の命がかかっている。迷うことはなかった。
ルクスは、古文書を少年に受け渡した。
「……」
少年は静かにそれを受け取る。手に取って、しげしげと装丁の剥げた表紙を眺める。そして少年は、背後に控えていた背の高い青年へと、それを押し付けた。
「――行くぞ。ここにもう用はない」
少年が、ルクスの真横を通り過ぎていく。闇色のマントが翻る。それに続いて、背後に立ち尽くしていた少女と青年が立ち去っていく。それを横目に、ルクスの背筋からは大量の汗がどっと溢れた。
いや、まだだ。まだ油断はできない。――ルクスは後ろ手に、腰に携えていた剣の柄を握り締めた。
ゲルナイトの三人が、広間を抜け扉の前へ進んでいく。誰も身動ぎすらできない。少年たちの実力を測っている。タイミングを、窺っている。
少年たちが、扉を抜けよう――とした、その瞬間。
「――逃がすかよ!!」
幼げな少年の声音が、広間に響き渡った。それと同時、りぃんっという甲高い音が木霊する。ルクスははっとして顔を上げた。
栗色の髪をした華奢な少年が、闇色の少年に向けて槍を突き付けていた。だがしかし、闇色の少年はそれを自らの身の丈の半分ほどもある大剣でいとも簡単に受け止めていた。槍を持った少年が、小さく舌打ち。
「ティオン! 離れろ!」
続いて男の声が鼓膜を揺らす。また、聞き覚えのある声だ。それを認識するか否かのタイミングで、ルクスの正面に真っ黒な装束を纏った青年が躍り出る。
槍を振り被っていた少年が、その声に反応して飛び上がり闇色の少年と距離を置く。
ルクスの目前の青年が、右手に銃を握り締めた。それを目線の高さまで持ってきて、素早くトリガーを引く。
「痺れろ!! ランニャテーラ・ガルヴァーニコ!」
高速の弾丸が、銃口から放たれた。それは空気中の静電気を吸収し、火花を纏ってゲルナイトの三人との距離を詰める。
弾丸が少年の目前まで迫ったとき、静電気を吸収した弾丸は突如として――弾け散った。四散していく弾丸は、まるで蜘蛛の糸のような形状を成して広がっていく。拘束系の、高度な魔術だ。
だがそれが少年たちの許に届く直前、少年の背後に控えていた青年が口元に弧を描いた。
「――無駄だって」
青年が呟くと同時、放たれた魔術と少年たちとの間に透明な障壁が生まれた。広がっていた蜘蛛の糸は、その壁に阻まれて呆気なく散っていく。
「無詠唱!?」
槍を構えた少年が驚愕を露わにする。――と、口元に微笑を湛えたままの青年が徐に、コートの袖からナイフを取り出した。
「自分たちの立場わかってる?」
いたずらに、飄々と。柔らかい声音で青年はナイフを――あろうことか、扉の付近にいたラティディアたちへと突き付けた。彼女たちの傍に立ち尽くしていた親衛師団の人間が反応できないほどの速度。
ルクスは目を見開く。鈍く光る刀身が、ラティディアの鼻先に向けられている。ラティディアの大きな若葉色の瞳が、恐怖に揺らいでいる。
逡巡の間もなく、彼女たちの許へと駆け出そうとした瞬間だった。
「――やめろ」
そう告げたのは、ルクスではなかった。
ナイフを持った青年が、ゆっくりと顔を上げた。そして視線を、背後に佇む闇色の少年へと向ける。
「……へぇ」
口元の微笑を深くして、青年がナイフを収めた。
少年が再び、踵を返す。三人の姿が、重厚な扉の奥へと消えていく。
それを見届けて、ルクスはようやく息を吐いた。いまさら、膝が笑っている。情けない。
安堵の表情でルクスが玉座のほうへと視線を投げる。――と、広間に明かりが灯された。玉座に座った国王の顔が、よく見える。幸いに怪我などはなさそうだった。
そして――。
「る、ルクス……?」
震えた声音を背中に受ける。ルクスは、静かに両の手を握り締めた。緊張と恐怖から、手のひらは汗でぐちゃぐちゃだ。
「……うん、大丈夫」
覚悟を、決めなければならなかった。
大きく息を吸い込んで、いつも通りの笑顔を作って、ルクスは振り返る。
少年たちの消えた扉の傍で、困惑した表情のラティディアとハインラインが真っ直ぐな瞳でルクスを見つめていた。
「……ラティたちはどうして、ここに?」
「ルクスを探して……た、たまたま、城壁に壁が開いてるのを見つけて……」
しどろもどろになりながら、ラティディアが言う。彼女の肩は震えていた。大きな若草色の双眸が、涙を湛えて揺らめいてる。
当たり前だ、怖かっただろう。突然こんな状況に陥って、拘束されて、ナイフまで突き付けられて。日頃は大人しいハインラインも、信じられないといったような表情で、唇を戦慄かせている。
「――――ルクス」
背後からの威圧的な声音に、ルクスはびくりと肩を跳ねさせた。首だけ捻って、声のほうへと視線を向ける。
玉座に坐した、精悍な面立ちの初老の男性が、威厳のある瞳でルクスを見下ろしていた。ルクスはそれを受けて、小さく息を吐く。
「この者たちは」
「僕の、友達だよ。ここまで一緒に旅をしてきた。信頼できる人たちだ」
一息に告げると、金色の髪をした国王はゆっくりと頷く。
「……ね、ねぇルクス……あの……」
当惑した声音が耳朶を揺らした。ルクスは高い天井を仰ぎ見る。
――ずっとずっと、ここは僕を閉じ込めていた鳥かご。
「ルクス……国王と、知り合いなの? なんで、ここにいるの……?」
――言わないと。そうは思っていても、喉が震えて言葉が出てこない。
騙してたつもりでも、隠すつもりでもなかったんだ。
ただ、僕を縛るその名を、せめて外にいる間だけでも忘れていたくて。
怒られるだろうか、驚かれるだろうか。ああ、でもハインラインは僕の正体に気付いているようだった。
ルクスは、大きく息を吸い込む。懐かしい匂いが、胸いっぱいに満たされる。
――大丈夫。たとえ真実を告げたとしても、二人は受け入れてくれる。さっき自分でも言ったじゃないか。この二人は、友達で、信頼できるんだって。
ルクスは、ここまで旅を共にしてきた二人へと振り返る。
「ゴメンね。改めて自己紹介するよ」
ラティディアが目を瞠った。ハインラインは静かに、ルクスの言葉を待っている。
二人を真っ直ぐに見据えて、ルクスは口を開いた。
「僕の名前はルクス・アデライド。国王は――僕の父親だ」




