挿話 そして歯車は廻りだす
青年が路地を駆ける。影を切り取ったような漆黒の装いは、イングレッソ王国の親衛師団の団服だ。右目に眼帯をした隻眼の青年は、薄暗い路地を当て所なく彷徨っていた。
先ほどまで追っていたはずの金髪の少年と小柄な少年が、突然姿を消してしまってから一五分は経過していた。
路地は入り組んではいるが、人二人を見失えるほどではない。それなのに数メートル先を逃げていた彼らが角を曲がった瞬間突然消えたのは、不可思議としか言いようがなかった。
その周辺をぐるりと回ってみたが、追っていた少年二人の姿は見つからなかった。
青年はいい加減に上がってきた息を抑えようと、足を止めて膝に手をつく。
彼は――あの、金髪の少年は――ここにいてはいけない人物だ。こんな、浮浪者や荒くれ者の多い港町で、その身になにかあってからでは遅いのだ。
そもそも、彼はなぜこんな場所にいる。彼はイングレッソ王国の首都・トゥルースヌーンにいるべき存在だ。それがこんな隣国の港町に、わざわざ一般人に紛れるような、旅人風の変装までしている。
願うことなら見間違いだと青年は思いたかった。だかしかし、青年と目が合った瞬間の金髪の少年の反応は、青年の期待を否定するものだ。少年はしまったと言わんばかりの表情で、青年に背中を向け逃げ出していった。――いや、それよりももっと確定的な証拠がある。
追っている最中に見た、少年の腰に携えられた剣。あれは――。
青年の意識が思案の中に沈んでいたそのとき、背後から名前を呼ばれた。「――ダイ」と、聞き覚えのある声音に、眼帯の青年・ダイは無意識に踵を揃え背筋を正していた。
振り返った先にいたのは予想通りの人物だった。ダイとそう歳は違わない外見だが、こちらに歩み寄ってくる足取りは無駄がない洗練されたものだ。
漆黒のコートをはためかせ、ダイの許へと歩み寄ってくるすらりとした長身の青年。血で染め抜かれたような真っ赤な瞳に一瞥されると、ダイは急ぎ腰を曲げた。
「ここでの任務か」
ダイは面を上げて青年の問いに肯定を示す。
青年はそれを聞くと伏せ目がちに、なにか考えるような表情をする。中性的な端正な容姿を持つ青年のそんな面持ちには、どこかぞっとするような気持ちを覚えるものだった。
「お前が追っていたのは――ルクスだな」
青年から唐突に告げられた名に、ダイは瞠目する。なぜ、ルクス――自分が追っていた少年――がここにいることを知っているのだ。
その疑問が表情に表れていたのか青年は腕を組んで、その整った面持ちの中に一匙ほどの困惑を滲ませた。
「それについてはこちらでも把握済みだ。すでに対応もしている、お前は自分の任務に戻れ」
「はっ」
ダイは再び一礼する。
少しばかり納得しない気もするが、青年の言葉に逆らえるわけもない。命じられた通り元の任務に戻るため、ダイは青年――いや、親衛師団准将の緋守に背を向けて路地から去って行った。
***
緋守はダイの背中を見送り、周りに誰もいないことを確認してから小さく嘆息した。
どこぞの少年を追い、まさかイングレッソ王国を出て隣国に来るとは想像だにしていなかった。数日もすれば逃げ帰ってくるであろうというレオの言葉は外れてしまったということだ。その事実には緋守も驚きを禁じ得ない。
世間知らずのかごの鳥が、よもやそのかごをこじ開けて逃げ出してしまうとは誰も予想していなかった。そして現在、鳥かごの中を抜け出してから十日が立っている。それだけの覚悟を決めていたのだと感じさせる日の経過には、驚きもそうだが感心すら抱かざるを得ない。
路地を抜けて空を仰ぐと、透き通った青色の中に小さな黒点を見つけた。それは次第に緋守の許へと近づいてくる。
黒点の正体は鷹だった。立派な両翼を羽ばたかせ、鷹は緋守の足元へと着地する。
「ビート、ごくろうさま」
緋守は屈み込み、飛びっぱなしで疲れているであろうこの鷹、ビートの翼を撫でてやる。
この鷹は自分と、親衛師団にいる幼馴染との間での連絡手段として飼われている。ビートの足首に括られた青色の紙は、定期連絡を求める色だ。
括られたそれを解き、折り畳まれた青色の紙を開く。記されていたのは、数日前に届けられたものと変わりない。現在位置を教えてくれとだけ、書かれている。
――ただ、一つ違うと言えば。
緋守は折り込まれていた桜色の小袋を指先で掴み上げる。さらり、と中で粉末状のものが揺れる音。
袋の裏面を見遣ると『彼儚ちゃんから』と、見慣れた幼馴染の文字でそう一言。
脳裏に、十日前に別れたきりの少女の顔が浮かんだ。
「よく気が回るやつだよ」
言葉とは裏腹に、緋守の表情は和らぐ。
特に変わった素振りもない――と、ただ少年のあとを追いその護衛をしているだけの緋守はそう認めて、ビートの足首に報告の紙を括る。
再び空高く飛び去っていくビート。その姿が見えなくなると、緋守は南広場の方向へと爪先を向けた。
アイツは、劇団と合流したはずだ。どこぞの少年はアイツを送るために、わざわざ隣国まで足を伸ばしたのだろう。途中で魔術師協会に寄って、魔法使いと思しき少年と道中を共にするようになっていたが、緋守は彼がどこへ向かい、なにがしたいのか、まったく見当がつかずにいた。
「……能天気が変なことを考えていないといいが……」
そんな呟きが現実のものになっているとは、彼の少年を追っているだけの緋守が知るはずもなかった。
***
ラティディアがルクスの手を取ったその瞬間、背後にある馬車のほうからクラッカーが弾ける音と歓声が轟いた。
突然のけたたましい音に目を瞠り、ラティディアとルクスは揃って背後を振り返る。
「ラティアおめでとー!」
団員たちの合唱が南広場に響き渡る。きょとん顔で涙も止まってしまったラティディアと、目を白黒とさせるルクス。
そして、
「てめぇらなぁ……」
こめかみに青筋を浮かべた、劇団リベルヴィの団長がいた。
ペネロップは歩先は言わずもがな、ルクスとラティディアの二人を冷やかしクラッカーを片付ける団員たちの元へ向かう。
団員たちが慌て始めたがもう遅い。ペネロップの履いたヒールが打ち鳴らす高い音。それは怒りの鉄槌へのカウントダウンだ。
「冷やかす暇があるんだったらさっさと着替えて舞台裏片付けろー!!」
ペネロップの怒号に、団員たちが馬車の中へと急いで逃げ込んでいく。あっという間に馬車の中に収まった団員たちに嘆息しながら、ペネロップは再びラティディアたちの許へと戻ってくる。
そこでラティディアはルクスの手を掴んだままだったと気付いて、パッと手を離しルクスから数歩分距離を置いた。
さっきは勢いに任せたとは言え、ルクスの背中にぴったりと寄り添うほど近くにいて、団長の脚本にも書かれていないような大胆な発言をした気がする。そう思うと、一気に顔面から耳元まで熱を帯びてきた。
「ラティア、とりあえず……暫くはまたお別れだな」
ラティディアの目前で佇むペネロップ。すらっとした姿勢と気の強そうな表情は変わらずだが、どこか弱ったようならしくない声音でそう告げられる。すると、高鳴っていた胸は静まり、違う痛みが去来する。
「寂しくなるな。まぁ……二度と会えないなんてことはない、私たちはいつだってラティアを待ってる」
団長も――ペネロップも、寂しいと思ってくれているのだ。ペネロップから向けられた優しい言葉に、胸の奥と目頭が熱くなる。
ペネロップは再び泣き出しそうな顔になるラティディアを見るや否や、くしゃりと顔を歪ませてラティディアの髪を両手で乱暴に掻き乱した。
「ちょっ、団長! なに!?」
「お前らしくない顔をするな! 女の子は笑っていろ!」
「そういう団長だって!」
「あたしは女の子と言えるような歳でもないさ!」
笑い合い、別れを惜しむように互いの体を抱き締め合うラティディアとペネロップ。
ペネロップがようやく解放してくれた時には、ラティディアの柔らかそうな桃色の髪はぼさぼさに乱れ切って情けない有様だった。
「もう、団長ったら意地悪するんだから」
「そんなことを言ってる暇があるんだったら、早くその髪を直すべきだな。ルクスくんにそんなみっともない姿を見せるのか?」
「るるるる、ルクスは関係ないよ!! っていうか、そもそもこれやったの団長でしょ!」
一気に耳まで真っ赤にして声を荒げるラティディア。大慌てで髪の毛を整え始めるラティディアの様子を一瞥し、面白いと言わんばかりにペネロップは破顔する。その笑顔を湛えたままペネロップは、二人の様子をぼんやり眺めていたルクスの許へと歩を進めた。
女性にしては背の高いペネロップは、ルクスの目前に立つと大人の女性らしい落ち着いた余裕のある面持ちでルクスを見据える。
「――というわけだ。うちの可愛い団員を、どうかよろしく頼む」
「はい」
「悪い子でないのは、ここまでの道中で君も知っているだろう?」
ペネロップ悪戯な笑みに、ルクスも笑顔を返すことで答えとした。
***
必死に手櫛で髪を整えながら、ラティディアがルクスたちの傍に寄ってくる。頬の赤みはまだ引いておらず、拗ねた子供のような表情を浮かべる少女。文句の一つでも言いたげに、半眼でペネロップを睨み付ける姿に、ルクスは一人小首を傾げた。――なんでそんなに怒ってるんだろう、と。
ペネロップにぐしゃぐしゃにされたとは言え、ルクスはこれまでの道中でラティディアの寝惚けた姿だったり怯えた姿だったりいろいろな側面を見てきた。いまさらそんな風に髪の毛が乱れたぐらいでは、ルクスはなんとも思わない。
「別に、そんな必死にならなくてもラティは可愛いよ?」
途端に、ラティディアは目を瞠った。唇を戦慄かせ、やっと引きかけていた頬の赤みが増していく。
――なにか変なことでも口走っていたかな? と、内心で焦りを隠せないルクス。その肩に、ニヤニヤ顔のペネロップが腕を回してきた。
「なんだい少年。うちの可愛い団員をそうやって誑し込んだのかい?」
「たっ、誑し込む!? そんなことするわけないじゃないですか!! そ、そうだよねラティ!?」
声を荒げて、顔面を真っ赤に染めた少女へと問いかける。が、ラティディアは視線を逸らして余計に顔を赤くするばかりだ。ペネロップの表情が、より意地の悪いものになる。
「これは詳しい事情を聞くべきかな? ルクスくん、十日の間にラティアになにをしたんだ?」
「だから! なにもしてないですってばー!!」
ルクスの絶叫が南広場に木霊した。
――そんな南広場の端。小さな子ども二人を連れた少女がぼんやりと佇んでいた。
人気もなくなり、辺りにはリベルヴィの舞台で使われた花びらがひとつ、ふたつと散らばるだけ。少女は「あちゃぁ」と苦い顔だ。
「舞台、もう終わっちゃったみたいだねぇ」
朱色の短い髪を掻き毟りながら、少女が左右にいる子どもへと問いかける。
少女よりも随分と背の低い、弟と妹だろうか。子どもたちは二人して唇を尖らせ、背の高い少女を怒りに吊り上った眼で見上げる。
「サーチェがのんびりしてるからだろー?」
「そうだよ! あたしこの舞台楽しみにしてたのに!」
「わーかったって、あたしが悪かったって」
左右から両手を引っ張られ責め立てられる少女は、観念したように謝罪の言葉を口にする。
それでも子どもたちは納得いかないような表情で、朱色の髪の少女を睨み上げた。
「じゃあお詫びにケーキ買ってよね! もちろんみんなの分だよ!」
「そうだそうだ! そうしたら許してやる!」
朱色の髪の少女は子どもたちへと引き攣った笑みを返す。
「みんなって……チビ共全員? さすがにうちにそんな金は……」
「じゃあこの責任はどう償ってくれるのさ」
腕を組み、むすっとした面持ちで少女に詰め寄る子ども二人。
「わかったわかった」と少女が諦めたように両手を上げると、子どもたちはぱっと花が開いたように笑顔になる。
「じゃあ早く買って帰ろう!」
「早くしないと、テルズ国に帰る船なくなっちゃうよ!」
「はいはい、わかったから――」
そうして、子ども二人に引っぱられるまま南広場を後にする少女。
数か月後、このすれ違った朱色の髪の少女――サーチェが、ルクスたちと道中を共にするとは、まだ誰も知らない。
***
場所は移り――イングレッソ王国の首都、トゥルースヌーン。
街の入口から少し離れた場所に、約500年前に建てられた古い建物がある。王国の民を守るために存在する組織、親衛師団の本部だ。
そこの一室。長旅を終えた一羽の鷹が、文字通り羽を伸ばしていた。
「おかえりビート。ごくろうさま」
飼い主に褒美をねだる鷹を腕に乗せ、紫の瞳の青年がそう労りの言葉をかけてやる。
足首に括られていた手紙を広げると、几帳面な筆跡で『ノルム国、プラーズバズ』とだけ認められていた。面白みに欠ける返答だとビートの飼い主、親衛師団に所属するウェイは小さく嘆息。
「もう、ノルム国まで行かれたのですね」
ウェイの背後から手元の紙を覗き込んだ少女がそう言って黒髪を揺らす。振り返って視線がぶつかると、彼儚がにっこりと微笑んだ。
――そういえば、手紙に添えていた薬を、アイツは気付いたのだろうか。無茶をする人だからと彼儚がわざわざ調合していた、疲労回復に効く薬。届けられた手紙には、それについてなにも書かれていなかった。それもアイツらしいか、とウェイは幼馴染の澄ました顔を思い出す。
「まさか、ってのが本音だけどな」
「どうせ迷って隣国にまで行っちゃった~とかだろ。あの世間知らずが自分の力だけでノルム国まで行けるとは到底思えないけどね」
ウェイと彼儚たちから少し離れたソファーで寝そべった少年が吐き捨てた。少年、ティオンが憎々しげに顔を顰める。
十日前、彼らは一人の少年を追い、連れ戻すように命じられていた。しかしそれを果たせずに、追っていた少年は呑気に隣国をご旅行中だ。
「――アイツの所為でこっちは始末書書かされたってのに」
「まぁ、無事でよかったじゃねぇか。アイツの身になんかあったら、俺ら始末書だけじゃ済まなかったぜ?」
「一度ぐらい大怪我でもしてみたほうが、アイツにとってもいいんじゃないのかねー。大人しく閉じこもってりゃ僕らもこんなことにはならなったわけだし?」
けっ、と舌を打つティオンにウェイも苦笑を返す。
「閉じ込められていたからこそ――」
ぽつり、と。彼儚が声を漏らす。口々に文句を言い合っていたウェイとティオンが揃って彼儚へと視線を投げた。
彼儚はぼんやりと、窓の外にある蒼穹を仰ぐ。空を見上げる蒼い瞳の先には、一羽の鳥が小さな羽を広げて空高く舞っていた。
「――鳥は、どこまでも高く飛べるのかもしれませんね」
かごの中の鳥が青空に焦がれるように。たとえその旅路が危険を伴うものでも、苦難の道であっても。飛び立った鳥がどこまでも飛んで行けるように、彼もまたどこまでも進んでいくのであろう。
それをわかっているからこそ彼儚の言葉になにも答えられず、ウェイとティオンは口を真一文字に引き結ぶだけだった。
***
「ねぇ。そういえばなにを奢ってくれるの?」
ペネロップからの冷やかし半分の質問攻めから解放され、劇団リベルヴィと別れた矢先のことだった。途中からプレザやヤンまで合流してからかわれて疲れ気味のルクスに対し、いつものようにハインラインが髪を揺らして告げてきた。
「奢る……? あ、あれね」
ルクスの表情が苦虫を噛み潰したような苦悶の色に染まる。そういえば、青年から逃げている際にそんなことを言っていた気もする。
「……なんなら、ラティのリクエストでいいんじゃ?」
そう言って、ハインラインから指名されたラティディアはきょとん顔だ。そもそも彼女は、なぜルクスが奢るという話になっているかの事情も知らない。
「……ルクスに泣かされたわけだし?」
「僕が泣かせてたの!?」
「……当たり前じゃん。酷い男だよね、ルクスって」
「えええっ!?」
淡々としたハインラインの毒舌がルクスに突き刺さる。年下に言い負かされて困惑気味のルクスを見ていたラティディアは、可笑しくてたまらないと言った具合に頬を緩ませた。
「じゃあ私、パフェ食べたい!」
髪の毛を弾ませて、ラティディアが笑顔で告げる。
「パフェ?」
「『特製山盛りフルーツチョコバニラパフェ』! 甘党なら知らない人はいない、プラーズバズの有名な名物なんだよ!」
聞くだけで胃が重たくなってしまいそうなパフェの名前を諳んじながらラティディアは、いまにもステップでも踏み出してしまいそうだ。
きらきらと、期待の眼差しで見つめてくるラティディア。そして、ルクスの隣で同じような瞳をして、言葉もなくじっとルクスを見上げてくるハインライン。奢る物は決定したようだった。
「それにね、そのパフェを出すお店では海が一望できるんだよ!」
「海っ!?」
途端にルクスの表情が華やぐ。そう言えば、この街に来て未だに大海原を拝んでいない。
「それを聞いたら行かないわけにはいかないよね! ラティ案内して!」
「はーいっ!」
そして三人は、軽やかな足取りでラティディアの言う店へと歩き始めた。
***
数時間が経った。
プラーズバズは、不夜の街として有名だ。夜の刻になって六時間も経つと、表通りに広がっていた露店が閉まる。それを合図に、路地裏や人通りの少ない入り組んだ道の奥にある酒場が一斉に営業を始める。
昼の刻とは真逆の、夜の刻になってようやく賑わいを見せる裏通り。闇の民がやっと落ち着ける時間だ。
路地裏に軒を連ねた酒場の中で、人気もなにも感じられない寂れた一軒の店がある。看板は汚れ、扉も軋んだ音を立てるような古めかしい店に、常盤色の髪をした少女が入っていく。
小さなカウンターと、店の奥にある煤けたテーブルとソファー。大よそ酒場とは言えないような店内に、店員と思しき人物はいない。店内にいるのは、一人の青年だけだった。
「やぁ、少しぶりかな」
飄々とした口振りの青年が、常盤色の少女を迎える。少女は口を真一文字に引き結び、青年を一瞥する。青年に返事を返すこともなく、少女は店の奥へつかつかと歩んでいき、ソファーへと腰を下ろした。
青年は少しばかり苦い顔をするが少女をとがめることはない。彼女はこういう人間だと諦めているようだった。
静まり返った店内。青年はカウンターの奥に並んだ小瓶に手を伸ばす。棚に所狭しと並べられているのは酒ではなく、薬草が詰められた小瓶や何百年前のものかもわからない古書だ。小瓶を手の中で弄ぶ青年を横目に、少女は腕を組んである人物を待っている。
壁に掛けられた時計の秒針が、じれったくなるような音を上げて時を刻む。
真下を指していた長針が、頂上までこようかという長い時間が経ったとき。ようやく、店の扉が開かれた。
少女が慌てて腰を上げる。青年はのんびりとした仕草で扉の先を見遣った。
月のような――冷たい双眸が二人の姿を捉える。店内に入ってきたのは、闇色のマントを纏った少年だった。
「……遅かったね」
青年がへらりと笑う。闇色の少年はなにも答えない。少女が少年に駆け寄っては、恍惚の表情を浮かべた。
「エグザトの皇家から、情報は得られたのですか」
青年に向けたものとは真逆の、うっとりとした瞳で少女は少年を見上げる。
少年は静かに首を横に振った。その手に握られていた、表紙に華美な刺繍や意匠が施された古めかしい本をテーブルの上に投げ捨てる。投げられた拍子で広がった本の中身は、この世界で一般的に使われてる言語と異なった言語で綴られていた。
「そういえばこの間、君の言ってたラティディアって子に会ったよ」
唐突な青年の言葉に、闇色の少年が視線を上げる。青年を見据える金色の瞳は、月光のように冴えたものだ。だが青年は、少年の瞳の奥が微かに揺らいだことに気付いている。少年からの言葉はなにもなかった。
「で? 次はどうするの?」
青年が古書を手に取りながら、少年に問いかける。少年は金色の瞳を壁に掛けられた時計に向け、憎悪の滲んだ怒りの形相を浮かべた。時計はもうすぐ、零時を示そうとしている。昼の刻が訪れる。
「――『トゥルースヌーン』に行く。王家から、古文書を奪う」
少年の言葉に、青年と少女が表情を引き締める。
「仰せのままに――」
少女が恭しく頭を垂れると、二つに結い上げられていたエメラルドにも似た艶やかな髪が揺れる。青年は古書を捲りながら、その場で直立したままの闇色の少年を薄ら笑いで眺めていた。
「――ダルク様」
少女に名を呼ばれた闇色の少年――ダルクは、今まさに昼の刻の訪れを示した時計を睨み付け、静かに拳を握りしめた。




