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0019  カゲの中で出会った少女

 じんじんと膝が疼く。熱くひりつくその痛みは、地面に投げつけられた際についた怪我の所為だ。

 舗装されていない土の上に、一粒の血が落ちる。――ああ、結構深いみたい。そう思ってはいても、ラティディアはその場から身じろぎすらできずにいた。

 怒らせた、激昂させた。目の前の男は、今にも殴りかからんとした強い怒気を滲ませてラティディアの姿を見下ろしている。

 このピアスにさえ気付かれなければ、お金を渡すだけで済んだかもしれないのに。そう後悔しても、後の祭りであるのは自分自身がよく理解していた。


「このピアスだけはダメなんですっっ」


 恐怖に震える声音を押し殺し、必死に告げる。じんわりと目の奥が熱くなってくるのがわかった。


「殴られた挙句に突き飛ばして、それでこっちの要求も呑めないって。わがまますぎやしねぇか」

「でも……これは、これは……!」


 世界にただ一つだけの、母親の形見なのだ。

 いままで何度だって自分を守ってくれて、助けてくれて。心の支えになってくれた大切なモノ。

 ちっ――と、男が再び舌打ち。痺れを切らしたかのように、男は拳を作りラティディアに向けて振り被った。

 殴られる、男の拳はもう目の前だ。でも、それでも――。

 ――こんな、何物にも代えがたいものを失うなんて、絶対に嫌だ!


「これはっ、お母さんの形見なの!!!」


 そう叫ぶと同時、男の拳が目の前に振り落ちてきた。

 目尻から涙を零し、ラティディアが襲いくる暴力へと瞼を閉じかけた、その時だった。

 座り込んだラティディアの耳元を、黒く細い何かが掠めていった。

 風を斬るような速度で、その黒い何かは正面まで迫っていた男の鳩尾を正確に突く。

 男が泡を吹いて地面に倒れ込んでいくのを呆然と見つめながら、ラティディアはようやく、その黒いものの正体が人間の足だと気付いた。


「…………昼間から騒々しい」


 冷たい少女の声音が頭上から降り注がれる。

 顔を上げる。視界を埋め尽くしたのはエメラルドのように艶やかな常盤色の髪だった。ラティディアの眼前には、その髪を二つに結い上げた華奢な少女が佇んでいる。

 真っ黒なタイツに包まれたすらりとした足。厚手の灰色のコートにその身を覆っているが、コートの上からでもわかるそのたおやかな肢体。こんなにもか細い少女が、自分に襲いかかっていた恰幅の良い男を気絶させたなどとは俄かには信じられなかった。

 しかし、それを肯定するかのように、少女は男の腹を蹴り上げたヒールを地面に打ちつけ小さく嘆息する。


「……迷子か?」


 それが自分にかけられた言葉だとすぐに気付けずに、ラティディアは目を白黒とさせる。


「あ、えっと、あの……ありがとう……?」

「……私は、迷子かどうかと聞いているんだが」


 少女が呆れたように頭を振る。

 男性のような口調と吊り上った眉に気の強そうな印象を受ける少女だが、ラティディアを見下ろす、髪と同じ輝きをした常盤色の瞳は柔らかな光彩を映し出していた。

 迷子――その単語を聞いてようやく、ラティディアは自分の状況を理解した。


「あっ! うん、迷子だったの! ありがとう、助けてくれて!」


 捲し立てるように目の前の少女へと告げると、少女は猫のような大きな瞳を数度瞬かせて、くしゃりと笑った。


「元気じゃないか。男に襲われてるときは、あんなに縮み上がってたのに」


 少女が手を差し出してくる。真っ黒なグローブに覆われた手を取り立ち上がると、ラティディアは少し気恥ずかしそうに右耳のピアスへと手を伸ばした。


「これ、お母さんの形見なの……これを渡せば見逃してくれるって言ってたけど、これだけはどうしてもあげられないから」


 情けないことに、いまさら指先が震えてきた。

 すぐ背後で伸びている男を見遣って申し訳ないと思う感情も抱くが、それ以上にいまは恐怖のほうが上回っていた。

 あのときはピアスを守るために必死だったが、この少女が居合わせて助けてくれなかったら今頃自分はどうなっていただろう。想像するだけで身震いがする。

 常盤色の少女は、ラティディアの耳元に光るピアスを一瞥して、ふっと小さく息を吐いた。


「そんなに大切なものなら、せいぜい盗られないように自衛するんだな。こんな路地裏に来るだなんて、狙ってくださいと言っているようなものだぞ」

「で、でも、あなたは?」

「私のことはどうでもいいだろう」


 言って、少女はエメラルドのような光輝を放つ髪を靡かせてラティディアへと背を向けた。

 そのままカツカツとリズミカルにヒールを鳴らしながら、少女は足早に路地の奥のほうへと進んでいく。


「え、あっ……待って!」


 笑い出した膝に力を込めて、先を行く少女の後を慌てて追う。

 目の前で風に揺れる少女の常盤色の髪を見遣り、ラティディアはこれが日に照らされたらどれだけ綺麗なんだろう――と、そんな関係のないことを考えながら少女の後をなぞるようについていく。

 その途中で転がった樽だとか、血の跡だとか――そういったものが視界に入って、やはりここは治安がいいと言える場所ではなかったと改めて後悔する。


「そういえば――」


 地面に落ちた血の跡を見遣ると、先を歩いていた少女が徐に足を止め振り返る。数瞬遅れてラティディアが立ち止まると、少女の視線は自分の膝に向けられていた。


「怪我をしてるな」

「え、あ……大丈夫だよ」


 ラティディアが言い終える前に、少女は長い髪を結い上げている髪飾りに手を翳し、小さく唇を震わせた。

 髪飾りにあしらわれた、夜空のような昏い色をした珠が小さく煌めく。

 その刹那、擦り剥いていたラティディアの膝が煌々とした光に包まれた。あたたかい――と、そう感じた直後には、真っ赤な血を滴らせていた傷は見る影もなく治っていた。


「へっ!? ま、魔法?」


 驚くラティディアを尻目に、少女はまた歩み始める。


「あっ、ありがとう……! そうだ! 名前! 名前聞いてなかったよね!」


 先行く少女の背中に向けて問いかけるが、少女は答えない。

 代わりに、被っていたフードを目深に被り直した少女は、意を決したように唇を引き結んだ。深く被られたフードの所為で、少女の顔は影に隠される。見間違いかと思うほどの一瞬の、少女の辛そうな表情に――ラティディアは悟った。

 少女が左へと曲がる。

 ラティディアもそれに随って左へと曲がると――急に視界が開けた。それと同時に、頭上から降り注ぐ色とりどりの鮮やかな花びらがラティディアを出迎えた。突然の光景に目を瞬かせ、硬直。

 頬に張り付いた花びらを剥がすと、ラティディアの思考はようやく動き出した。

 鳴り響くトランペットの軽快な音。オルガンが奏でる華やかなメロディ。思わずステップを踏んでしまいそうな軽やかな音楽が満ちる中、それに合わせるようにして周囲の人々が歓声を上げる。

 街の入口でも随分な人ごみであったが、ここはそれ以上に人が溢れかえっていた。足の踏み場もないほどごった返した群衆。目視だけでも100人以上いるだろう。ひしめき合うようにして集団を成してはいるが混乱はなく、むしろ彼らはみな同様に一点を見つめている。

 その視線の集まる先――人ごみの奥にちらりと見えた馬車に、ラティディアは見覚えがあった。


「え、あ……ここ……南広場……?」


 目を瞬かせる。

 慌てて周りを見渡すが、あの常盤色の髪をした少女の姿はどこにもいなくなっていた。


「……結局、名前……聞きそびれちゃったな」


 少女は、迷子になっていた自分をわざわざ広い場所へと連れてきてくれた。

 ――もしまた出会うことがあれば、きちんとお礼を言いたいな。ぼんやりと、人ごみの先の華やかな舞台を見つめながらそう思う。

 舞台はもうすぐ終幕だ。人の影が重なってはっきりとは窺えないが、舞台に上がる見知った男女が熱い口づけを交わしている。――それがフリだとは理解しているのだけど、どうしてもこのシーンを見るのは気恥ずかしくて耳が熱くなる。


「あ、れ……。ラティア?」


 背後からの声にラティディアが振り返る。

 そこには道化の衣装を纏った、この劇団の若き団長――ペネロップが目を見開いて立ち尽くしていた。


 ***


 目の前に佇む人物を見上げ、ルクスは口をぽかんとさせた。そこでようやく顎の痛みに気付いて眉根を寄せる。噛み締めた口の中には幾度目かの土の味が広がっていた。


「やぁやぁ、少しぶりだね。ルクスくん」


 声音だけでも笑顔だとわかる、飄々とした口振り。柔らかそうな灰色の髪を揺らしてルクスの顔を覗き込んできたのは――つい先日、魔術師たちの街・ラーデポリスで出会った青年、ケネスであった。

 燃え盛る炎のように赤い瞳が、面白そうなことに出くわしたと言わんばかりの好奇の色を映している。

 一瞬こそ現状を理解しきれず呆然とするルクスであったが――背後から騒々しい足音が聞こえてきたと同時、一気に意識が現実へと引き戻された。もうすでに汗だくの背筋に、冷たい汗が噴き出す。

 勢いよく背後を振り返る――が、そこにあったのは灰色の壁であった。


「へっ?」


 喉の奥から情けない声が漏れる。自分が元いたはずの道が、突然消えてしまっていた。

 困惑もそのままに、灰色の壁の奥から響く足音が遠ざかっていくのを聞き届けると――ルクスはようやく理解した。


「――……貸し一つねー」


 その声音でもう、青年の表情が想像できる。

 案の定、振り仰いだ先のケネスはにやにやと意地悪そうな笑みを湛えていた。


「そんなイヤそーな顔しなくてもいいじゃん。あ、わかった。じゃあこれはオマケだ」


 ケネスが自らの指に嵌められた指輪に手を翳す。その指輪にあしらわれたテラコッタの色をした珠が、ケネスが手を翳したと同時に小さく煌めいた。

 煌々とした光が擦り剥いた顎先を包み込む。その光を温かいと感じるのも束の間、光が消えると共にルクスの顎の怪我は完全に治っていた。顎先に触れてみるが、痕もなにも残っていない。


「僕は回復魔法苦手なんだからね? 感謝してよー?」

「……ありがとうございます」


 素直に感謝を告げると、柔らかそうな灰色の髪を揺らしてケネスが笑う。


「で? ルクスくんはどうして追われていたの? 駆け落ちが見つかって連れ戻されそうなの? にしては抱えてる人物が違うと思うんだけど」

「違うと思うなら言わないでくださいよ! って言いますか、そもそも僕は駆け落ちなんてしてませんから!」


 そうでなくとも上がっていた息が、一息に捲し立てたせいで余計に上がる。「ジョークだよ、ジョーク」と、ルクスの反応を見て笑みを深くするケネスに毒気が抜かれてしまって、ルクスも諦めたように深い息を吐いた。


「で、あの……大変申し訳ないんだけど……ハイン」

「ご、ゴメン……もうちょっと、待って」


 すぐ近くから聞こえるハインラインの荒い息。それもそうだ――だってハインラインは、ルクスの背中の上で倒れている。

 自分が地面に突っ込んだ衝撃でこんな状況になったのだろう。放り出さなかっただけよかったと安堵しつつ、ルクスは背中に感じるハインラインの重さに驚愕を隠しきれなかった。

 ――あんまりにも軽すぎだ。ルクスよりも五つは離れてるといっても、こんなに体格差があるものなのだろうか。ハインラインの歳の一般的な体重は、もう少しあってもいいように思う。

 まだ少しばかり乱れた息を落ち着かせながら、ハインラインが申し訳なさそうにルクスの上から降りる。それに続いてルクスも立ち上がった。


「……ごめん、苦しかったでしょ」

「あんなに食べてるのに、太らないんだね」


 あっけらかんとルクスが笑うと、ハインラインは一度ばかり瞠目して深い息を吐いた。彼の顔色は相も変わらず、病人のような蒼さを残している。


「…………パフェおごりね」


 疲れ切った様子もどこへやら。ルクスを見上げるハインラインの瞳の奥に、怒りの炎が熾っているのが見えた。

 ――どうやら、体重に触れることも禁忌だったようだ。

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