0002 それは必然の邂逅
「ウルフか……」
独りごちる。
ラティディアの腕を引き寄せ、彼女を自分の背後にまわす。現状を掴めないラティディアに言葉をかける余裕もなく、ルクスはじっと影の様子を伺った。
重く長い一瞬が流れる。
影から姿を現したのは、人間の子供ほどの大きさのある魔物・ウルフであった。
鋭い視線がルクスに注がれる。足先から旋毛まで、舐め上げるようなウルフの視線にぞくりと全身が粟立った。真っ黒な体躯は自らの涎や獲物の血で汚れ切っており、それが白日に照らされることによって鈍い光を放っている。
ウルフは待ち遠しいと言わんばかりに、今まで多くの獲物の命を奪ってきたであろう牙をルクスに見せつけた。
「そう、急かさないでよ」
おどけてみせたが、裏返った。今の光景を信じたくなかった。
膝が笑う、心臓が悲鳴を上げそうなほど大きな脈を打つ。逃げ出したい、けれど、自分の背にはラティディアがいる。そもそもウルフは人間を上回るスピードで駆けることができる。逃げ出したところで、追いつかれてヤツの血肉になることは目に見えている。
覚悟を、決めなければならなかった。
――まさか使うとは思ってもみなかった。
腰に携えた大剣に、手をかける。無機質な冷たさが、ルクスの指先に伝う。自分では強く握り締めているはずなのに、うまく握れない。
躊躇いと戸惑いにルクスの身が竦んでいると、ウルフは見計らったようにルクスに飛び掛ってきた。
「いやっ――!」
背後のラティディアが、悲鳴に近い声を上げる。
ぐっと柄を掴み、ルクスは自らの体の半分ほどもある大剣を引き抜いた。ウルフはもう、目の前だ。
左足を引き、つま先に力を。駆け出す勢いで、体を低く沈める。
ウルフの瞳に自分の姿が映りこんだ、そのタイミングで。
ルクスは大剣を横に薙ぎ払った。
重量のある大剣が遠心力により風すら切り裂くスピードを得る。その力のまま、柄を握り締めるルクスの腕に違う重みが加わった。
「っ!」
言い知れぬ不快な感覚が、指先から全身を震えさせる。
物質を裂く鈍い重み。命を絶つという重み。
目の前いっぱいに、真っ赤な光景が広がった。
「……っは、はぁ……」
真っ白な石畳の上に広がる赤い水溜り。それを作り出したのは他でもない自分だ。胃を握りつぶされているような痛みと吐き気をぐっと堪える。こうしなければ、自分もラティディアも死んでいた。
まだ荒い息を呑み込む。
「ラティディア、ここから出よう。またさっきみたいな魔物がいても困るし――」
振り返り、腰を抜かして座り込むラティディアの手を取ろうとした。しかし、ラティディアは微動だにしない。
無理もない。魔物なんて誰にだって怖い。もちろん自分だってそうだ。魔物の中でもウルフは特に恐れられており、ヤツらのスピードに逃げ切れずに命を落としたものは多いと聞く。そんな相手を目の前にしたのだ。
「大丈夫だよ、」
こんな言葉でどれだけラティディアを慰められるのだろう。でも、言わないよりはマシだと思った。
それでもラティディアは俯いたまま、顔を上げることはなかった。
「……大丈夫、僕が守ってあげるから」
その言葉に、ラティディアはようやく視線を持ち上げた。顔面は血の気が引いて蒼白。若葉色の瞳は朝露のような涙を湛えている。恐怖で声も出ないのか、瞳だけで訴えてくる心は痛いくらい伝わった。
彼女が少しでも安心できればと、ルクスは口角を上げて笑みを作った。絶対変な顔だ。だけどもラティディアは目元を緩め、差し出されたルクスの手を取ろうとした。
――瞬間、ルクスの左肩に激痛が走った。
まだ握り締めていた大剣がからんと高い音を立てて地面に転がる。
「うそ、一匹だけじゃなかったのな……」
倒れていく自分の体。その際、先程よりも二周りほど巨大な獣が、ルクスの目に映る。
「――ルクス!!」
ラティディアの悲鳴も、揺らいで聞こえた。同時、自分の体が石畳の上に投げ出される。全身の血が沸騰しそうなほど、体が熱い。
ウルフに刺された肩口に手のひらを押し当てて止血をしようと試みる。が、指先の隙間を縫って溢れ出す真っ赤な鮮血は止まることを知らない。
痛い、痛い。左肩から先の感覚がなくなってきた。景色がぶれる。その中に、怯えて硬直したラティディアの姿が見えた。
「ラティ、ディア……逃げて」
ようやく出した声は、喘ぎと区別がつかなかった。
ウルフ相手に逃げろという自分ももうまともな思考はできていないだろう。逃げ切れるわけがない。なら、どうすればいいのかはわかっている。だけど、なんで体は言うことを聞かないんだ。
ウルフとラティディアの距離は、おおよそ5メートル。ウルフが飛び掛れば一瞬の距離だ。間合いを詰め、ウルフは後ろ足で石畳を掻く。ラティディアは、身動ぎすらもできずに蹲っている。
「逃げて!」
ルクスの叫びに反応したのか、ウルフの体が宙を駆けた。
瞬きする間に、ウルフとラティディアの距離が縮まる。
襲いくるウルフに、ラティディアが目を閉じ耳元のピアスに手をかざした――その刹那。
魔物とラティディアの間に、透明な障壁が生まれた。
ウルフは見えない壁に衝突し、弾き返される。一瞬なにが起こったか、ルクスにもわからなかった。だが、魔物が衝突するその直前。ラティディアのピアスが煌き、魔物との間に光が生じたのをルクスは見ていた。
魔物は弾かれた衝撃で地面を這いずる。今なら、このタイミングならいける。取り落とした大剣に手を伸ばした。
その時だった。
「――どけ」
抑揚のないたった一言で、空気が静まった。
自分でも、もちろんラティディアでもない低い声音。
たった一つの言葉だけで自分はおろか、荒れ狂っていたはずの魔物も、風すらも時を止めたかのように静止する。
冷たい静寂が満ちる中。コツ、コツ、と優雅に近付く一つの足音。その音がルクスの目前を通り過ぎたとき、見えたのは純白の廃墟には似合わない闇色のマントであった。
そのマントを風にはためかせ、現れた人物は一人の青年。しかし、それ以外は判断することができなかった。
青年は、頭の先から指の先まで暗い衣服に身を包んでいる。肌の一部足りと見えることはない異様な風貌。しかし、その奥から発せられる明確な殺意だけはルクスにも伝わった。額から零れた汗が、頬を滑り地面に落ちる。
青年は背中に携えた大剣を、ぐっと引き抜く。ルクスのそれよりも、ずっと流麗で淀みがなかった。
鍔から刀身にかけ精密な紋様の彫り込まれた大剣。重量のありそうなその剣を片手だけで獣に突きつけ、目の前の青年は歌うような詩を紡ぐ。
荒れ狂っていたはずの巨大な魔物は、足を地面に縫い付けられたかのように微動だにしない。青年の殺意が、思考などないはずの魔物を怯えさせている。
流れるような詩が終わりを迎えると同時、青年は突きつけた大剣の鍔にあしらわれた透明な珠に手を翳した。
「――散れ」
青年が淡々と、感情の一つも滲まない声音で宣告した。
音も、なく。
巨大な獣が眠るかのようにその場に崩れ落ちた。
その光景を瞬時には理解できなかった。横たわったウルフの体には、すでに生気というものは失われ、おぼろげに開かれた目玉はうつろに虚空を捉えていた。
一瞬にして、目の前の凶暴な獣を造作なく倒した青年。お礼を言おうにも一連の動作が淀みなく、まるで舞台の芝居を見せられているかのような美しさに見惚れてしまい、すぐには言葉が出なかった。
ルクスが言葉を発するより先、青年はくるりと踵を返した。振り返っても、彼の顔は漆黒の仮面に覆われて窺い知ることはできない。
だが、仮面の奥に覗いた瞳は――月のように神秘的な金色であった。視線が交差する。氷を連想させる刺すような青年の眼光。ルクスと、その背後のラティディアの姿を一瞥すると、青年は闇色のマントをはためかせ廃墟の奥へと消え去っていった。
数瞬の沈黙が過ぎ去ったと感じたときだった。座り込んでいたラティディアが慌てて駆け寄ってきた。
「ルクスっ、ルクス!」
「あは、は……大丈夫だよ。ちょっと痛いけど」
まるで死の間際の人間を看取るような泣き出しそうな表情。力を込めるとウルフの爪が刺さった左肩が激痛を全身に走らせる。そんな肩口を、ラティディアは見つめている。弱った子供みたいな顔だ。
思わず、ルクスは彼女の頭を撫でていた。柔らかい髪に触れると、ラティディアはよりいっそう涙を瞳に溜める。もちろん、ルクスは当惑する。
「どうしたらいいんだろう…………お母さん……」
呟きと共に、ラティディアは耳元のピアスに触れた。確か、さっきも同じ動作をしていた。話しているときも、魔物に襲われた瞬間だって。
「それ、癖なの?」
そう、問おうとした瞬間。
ルクスの左肩が、煌々とした光に覆われた。
柔らかい金色を思わせる光。目を細めていると、太陽の日差しのように暖かく、くすぐったい感覚を負傷した箇所に感じた。
「――え?」
そんな感覚を覚えたのも束の間だった。
自前の赤いロングジャケットに穴を開け、血みどろになっていたはずの大きな傷が――完全に治っていた。
ルクスはもちろん、ラティディアも目を丸くして驚愕を露にしている。
「あの、これって……」
ラティディアは現状を理解していない様子だった。しかし、驚いたもののルクスはわかっていた。
追っ手の少年が起こした鋭い風も、闇色の青年が魔物を倒したことも、そしてなにより、ラティディアが魔物と対峙したときのあのときも。すべては『魔法』が起こした現象である。魔法によって、自分の傷が癒されたのだ。しかし、そうだとしても納得できないことがある。
「ねえ、ラティディアのそれって……『ホープ』なの?」
聞き慣れない単語にラティディアは首を傾げた。
ルクスの視線の先には、ラティディアの耳元に光るローズドラジェの色をしたピアスがあった。
「知らない? 魔法を使うときに必要な道具」
「ううん。知らない」
首を振るラティディアに、ルクスも唸った。
『ホープ』は、魔法を使う際必ず必要になる、人間の魔力を引き出すための道具のことを言う。それらは一見宝石に似た珠の形をしており、使い手の人間によって色や形状が異なる。
追っ手の少年がホープを持っているのは自分も知っていることだし、先程の闇色の青年は魔物に剣を突きつけていたことから、武器一体型のホープだというのは大体検討がつく。
青年が魔物を倒す直前、彼が紡いでいた歌うような詩。あれはきっと魔法の詠唱だ。
詠唱が終わると青年は鍔にあしらわれた透明な珠に手を翳した。魔法は、ホープに術者が手を翳すことで発動される。
ラティディアが魔法を使った際に共通して行っていた行動は『ピアスに触れる』ということだった。だが彼女は、自分のピアスがどういったものなのか知らない様子だ。
もしピアスがホープであれば、詠唱のことはともかくとして彼女は魔法と知らずに魔法を使った――ということになる。
そう言った旨をラティディアに説明するものの、ラティディアは目を白黒させるばかりで意味を理解できていないようだった。
「普通、一般の人は持てないはずだけどな……」
ラティディアもそうだが、あの青年がホープを持っていることにも疑問を感じずにはいられなかった。
しかし、答えを見つけ出そうにもラティディアは首を傾げるし、青年はもうこの場にはいない。
自らの金色の髪を掻き毟りながら、ルクスは自らの投げ出された大剣を眺めていた。豪奢な文様が刻まれ、鍔にクロムイエローの珠があしらわれた大剣。
「さ、もう大丈夫だしここを出ようか!」
ルクスが必要以上に明るく言い放つ。剣を鞘に仕舞いつつ立ち上がると、遅れながらラティディアも腰を上げた。
――その時だった。
「…………ルクスー!!」
「…………ルクスさまー」
先程まで自分を追っていた男たちの声が、廃墟の奥のほうから響いて聞こえた。
その声がルクスの鼓膜に届いたと同時――ルクスの顔面から血の気が引いていく。
「る、ルクス? 顔、真っ青だよ……」
ラティディアの心配そうな声にも、返事を返す余裕がなかった。
……とりあえず。
ルクスはラティディアの腕を引き、壊れた柱の影に身を潜めた。
「どどどど、どうしたのルクス! なんなの、これ――」
慌てるラティディアの口を手のひらで塞ぐ。柱の影とはいってもそこは人二人が辛うじて隠れられるぐらいの場所だ。少々密着している形だが仕方がない。と思っていたら、覆っていたラティディアの口元がどんどん熱くなってきた。
「ラティディア……大丈夫?」
腕の中にいるラティディアに問うも、返事を返してくれなかった。顔が真っ赤だった。
ルクスの名を呼ぶ声が、どんどん自分たちとは反対方向へと遠ざかっている。逃げるなら今しかない。
「ねえ、ラティディア。一緒に逃げよっか?」
おどけたように笑ってみせて、ルクスはラティディアの腕を引いた。その勢いのまま、見渡す限りの廃墟の中を駆け抜けていく。
追っ手の気配はない。ルクスは駆ける速度を速めた。
「…………ありがとう」
背後から、そんな言葉が聞こえた。振り返ると、俯いたラティディア。
「――守ってくれて」
顔を上げたラティディアは、そう言って花のように笑った。




