0016 きっと雨だから
空が昏い。
地平線の果てにまで続いてるのではないのかと思えるほどの遥か遠い雨雲を眺めながら、ルクスは濡れそぼるジャケットを脱いだ。
今日は『雨が降る日』ではなかったはずだ。一年365日、その一日一日に晴れや雨などの天気が決まっており、それが違うことは今まで起こりえなかったはずなのにも関わらずだ。定められた天気が予定から狂うことは、刻の歪み以前では一度たりとなかった。この不安定な天候も刻の歪みが原因だろうとは容易に想像ができる。
突如として降り出した雨に多少濡れはしたものの、幸いなことに道の外れに掘っ立て小屋を見つけたルクスたちはそこで暫しの雨宿りをすることとなった。
「いつ止むんだろうね」
ルクスは空を覆い隠す厚い雲を仰ぎながら、雨を吸ったジャケットを絞る。
「……わからない」
誰にでもなく問うた言葉に、返事をくれたのは魔法使いの少年だった。
ハインラインは小屋の端のほうで小さく、凍える体を温めるようにして膝を抱えている。
ポケットに突っ込んでいた懐中時計を取り出したルクスは時刻を確認する。昼の五時――あと一時間で雨は止むだろうか。雨雲をいくら見つめても答えは返ってくるわけもなく。
「すぐ止んだとしても、ここからプラーズバズまではまだ遠いし、近くに集落もないし……今晩はここで待っていたほうが得策かもね」
出会った当初と比べると、幾分饒舌になったハインラインがそう告げる。
自分と違ってノルム国の地理について詳しいハインラインが言うぐらいだ。ここは彼の提案に乗るべきだろう。
「そうだよね……ラティもそれでいい?」
振り返り、先ほどから随分と静かなラティディアに問う。しかし、ラティディアからの返事はなかった。
ラティディアは錆びついた椅子に深く腰掛けては、どことも知れぬ虚空を見つめてぼんやりとしている。
「ラティ?」
「え? あ、ゴメン。ぼーっとしてた」
弾かれたように顔を上げるラティディアに、ルクスは首を傾げる。
ぱっと華やいだような笑顔を浮かべるラティディアは、見る限り体調が悪そうでもない。
「ラティ、どうかした?」
「ううん。なにもないよ? …………くちゅんっ」
随分と可愛らしいくしゃみが響く。くしゃみを発したラティディアが、バツの悪そうに肩を竦めてみせた。
「ハインもラティも濡れてる服着たままじゃ風邪ひくよ? ――って言っても、暖をとれそうなものもないしなー……」
「ルクスのスケベー」
「なんで!? なんでスケベになるの!?」
茶化すようにして笑うハインラインに声を荒げて否定する。服を脱いだほうがとはいっても、それは濡れた服を着たままじゃ冷えるからって意味だし、決してスケベな意味合いで言ったわけじゃない。
声色こそ平坦ではあるが、ちらと覗いたハインラインの口元は意地悪そうな弧を描いている。
――ああもう。恥ずかしさに自分だけ熱くなっているようだ。
「まぁ、ルクスの言うことも一理あるし。……ルクス、あそこの窓開けてきて」
ハインラインが指で示す先に、換気用の小さな格子窓がある。言われた通りその窓を開け、続いて扉を閉めるように言われたのでそれに従う。古い、立て付けの悪い戸を無理くりに閉じていると――座り込んでいたはずのハインラインが魔術書を開いて部屋の中央に佇んでいた。彼の足元にはどこからか集めてきたのであろう、薪が乱雑に積み重ねられている。
ハインラインは首に提げたペンダントの先――ホープを握り締め、聞き取れないほどの小さな声音で言葉を紡ぐ。魔法の詠唱だった。
「――――その希望に願いを刻む」
その言葉から続く魔法の詠唱。ルクスは魔法を不得手としているために彼がどんな魔法を使おうとしているのか想像はできない。ただ、ホープを握り締めた手のひらの隙間から淡い光が零れ出ていることから、魔法の詠唱が完成しつつあるのはわかった。
そして一際強く、その光が煌めくと――ハインラインの足元に小さな火が生まれていた。
魔法で発生した火はいとも容易く薪に燃え移り、あっという間に大きな炎へと変化する。じりじりとした熱気が冷えた肌に沁みるようだ。
「あ、あったかいにゃぁ……」
弱々しく火の元に歩み寄ってくる、一応ハインラインの教官であるはずのロード。小さな体躯は先ほどの雨でも随分と濡れてしまったようで、ロードはしゅっと細くなった体を火に寄せては幸せそうな顔をする。
「ね、ねえ、ロード。そんなに近いとヒゲとか焦げない……?」
「にゃにを言う……みゃーがそんな馬鹿なこと……ん、焦げ臭い」
「ロード! ヒゲ! ヒゲ燃えてるから!!」
「みゃあああああ!!!」
前足をじたばたさせて、ロードがヒゲに燃え移った炎を消そうと暴れる。
それを見つめるルクスとハインラインは、共に呆れ気味の苦笑を浮かべていた。
ご自慢のヒゲが縮れたことに不満げなロードは、とぼとぼとした足取りでラティディアの膝の上へと移動して小さく丸まってしまった。
「……あ、そうだ。聞こうと思ってたんだ」
唐突なルクスの言葉に、ハインラインが視線を持ち上げる。
「ねぇ、ハイン。ラティのつけてるピアスって、ホープかな?」
いつか聞こうと思っていた質問を、ハインラインに投げかける。三人と一匹で旅をはじめて数日経つが、なかなか聞くタイミングを掴めずに結局今頃となってしまった。今回ようやく聞けたのも、ハインラインが直前に魔法を使ったのがきっかけで思い出したからであるし。
ハインラインは寝惚けたようなぼんやりとした瞳をラティディアへと向ける。ラティディアの耳元で揺れる澄んだローズドラジェの色をしたピアス。それはハインラインの持つグラスグリーンのホープと色味こそは違うものの、透明感のある特徴的な煌めきと珠そのものの形状はよく酷似している。
ルクスはラティディアが魔法を使う瞬間を見てはいるものの、それがホープであるとの完全な確証はなかった。
だから、魔術師協会に所属する専門家――といっても、魔法使いで教官付きであるからまだ見習いなのだろうが――にきちんとした確認を求めたのだ。
光彩の乏しいハインラインの瞳が、食い入るようにしてラティディアのピアスを見つめている。見つめられる側のラティディアは、困惑交じりに視線を彷徨わせては硬直していた。
「……うん、ホープだと思うよ」
ハインラインの確認の結果は、やはりルクスの思っていた通りのものだった。まぁそうでないと、あの廃墟で起こった現象を説明しようがなくなる。
「ラティは、どこでそれを手に入れたの?」
次いでハインラインは、彼女の持つホープの入手経路を気にした。確かにそれはルクスも気になっていたところだ。
いつの間にかハインラインもラティ呼びとなっていることを気に留めることもなく、ラティディアは考え込むようにして顎に手を添えた。
「確か……お母さんが魔術師協会にいたことがあるとか聞いたような……?」
「え、じゃあ母親からもらったものにゃのか?」
誰よりもまず驚きを示したのは、ラティディアの膝の上で微睡んでいた黒猫だった。
「もらったっていうか、形見っていうのかな。お母さんの物だからって、お兄ちゃんが私に渡してくれたの」
形見――そういえば、ラティディアは小さいころに両親を亡くしたと言っていた。ちくりと、胸に針が刺さったような痛みを覚える。
「それは、珍しいことにゃ! ホープは、持ち主が死んだと同時に壊れてしまうのが普通なのにゃ!」
興奮を抑えられないといった様子で、ロードが長い尾をゆらゆらと揺らしている。
そんなロードに反してラティディアはなにが珍しいのかきちんと理解できていないようで、首を傾げてはきらきらと目を煌めかせるロードを見下ろしていた。
「それってそんなにすごいこと?」
「そうにゃ。ホープが壊れてしまう原因も、壊れない理由も研究中でまだ詳しいことはわかっていにゃいが――穏やかに死を迎えた場合、ホープが壊れにゃいのではにゃいのかという説が一番有力にゃ」
雄弁に語るロードの言葉に、ラティディアが大きく目を瞠った。
ガラス玉のように透明な、若葉色の瞳が揺らぐ。それは炎の揺らめきが映ったものなのか。
「そっか。……そっか」
俯いて、そう繰り返すラティディア。
頼りない声音とは裏腹に、呟くラティディアの瞳は僅かばかり嬉しそうに細められていた。
***
その日はいつも通りの時刻――六時ぴったりに夜の刻が訪れた。
途中の町で買っていたパンを分け合い食べ終わったころにはハインラインが魔法で熾してくれた火も消えた。それからはラティディアの持っていた懐中電灯で小屋の中を照らし、ルクスたちは取り留めもない話を繰り返しては長い夜を過ごしていた。
「ここからなら、プラーズバズまで何日ぐらいかな?」
懐中時計で時刻を確認し、ルクスはハインラインに問うた。時計の針は夜の一四時過ぎを指している。もうそろそろ明日に備えて寝てもいい頃合いだった。
「あと、二日……かな。順調にいけば」
「二日…………」
ハインラインの言葉を呟くように反芻したのは、ラティディアだった。懐中電灯の心許ない灯りだけでは、その表情までは窺うことができないが――ラティディアのその声音は吐息交じりのか細いものだった。
昼間から感じている、微かではあるが確かな違和感。
出会ってまだ一週間程度ではあるが、ラティディアは感情の変化がはっきりとしている素直な子だ。だからこそルクスは、ラティディアが普段と異なった様子であることにも気付けた。
もうすぐ目的地であるプラーズバズにも着くというのにも関わらず、ラティディアは物憂げに俯いている。
やっぱり体調でも崩しているのだろうか。そう思って声をかけようとすると――
「ルクスたちは、プラーズバズに行った後どうするの?」
「僕たち?」
突然投げかけられた問いに面食らってしまった。
そういえばハインラインとは今後のことを相談していたが、ラティディアには話していなかったなと思い出す。だが、ラティディアはプラーズバズまでの護衛を終えたらそこで別れる予定だった。話したとしても、彼女がルクスたちとこれからの旅を共にするわけではないのだ。
「ラティが劇団の人たちと合流できたら、すぐにイングレッソ王国のトゥルースヌーンに戻るよ。魔元老からもらった紹介状もあるしね……」
魔術師協会のあるラーデポリスに赴いた際に、魔元老・ボールドウィンから刻の歪みを直すならばイングレッソ王国と神聖エグザト帝国の両王家の協力を仰ぐべきだと提案された。そのためにボールドウィンに書いてもらった『神聖エグザト帝国』の皇家へ謁見するための紹介状がルクスの荷の中に詰められている。
「クロノアジャストの場所は……王家しか知らないらしいし、話してくれるかなんてのはルクスの力量次第だろうけど」
ハインラインがぽつりと呟いた言葉は正鵠を射ていた。
彼の言うとおり、結局は自分の問題なのだ。彼がそれをどういう意味で発したか、それはわかりかねるが。偶然か意図的なものか、ハインラインの呟きに図星を突かれたルクスは苦虫を噛み潰したみたいな顔をする。
「そっか、じゃあルクスたちといられるのも……あと二日なんだね」
二人のやり取りを静かに見守っていたラティディアが、そう言って穏やかに笑った。右耳の、昼間ハインラインからホープだと確認のとれたピアスを指先でいじっている。
本人が気付いているのか定かではないが、それはラティディアの癖で――廃墟のときも、ほの白い月明かりの下で語り合ったときも同じようにピアスに触れていた。
「ねぇ、ラティ。やっぱり風邪でもひいた?」
「え? どして?」
「いや、なんか……元気ないように思ったから」
思ったままを問うと、ラティディアは唇を引き結んで黙り込んでしまった。
なにか変なことでも聞いてしまったかと心配になって、慌ててルクスが椅子から立ち上がる。
「……げっ、元気だよ! ほらこの通り!」
言って、慌ただしくラティディアはガッツポーズを作ってみせる。
ふんっ、と鼻息を荒く、細い腕を曲げてできもしない力こぶを作ろうとするその姿はどこか滑稽で。
ラティディアの仕草に既視感を覚えたルクスは、目を瞬かせてからくすりと笑みを零した。
「……それ、僕の真似?」
たぶん、偶然だろうけど。
真っ白な廃墟でラティディアと初めて出会ったとき、ルクスはラティディアに向けてガッツポーズをした。
あのときは追っ手に追われ崖から転落して気が動転しており、ああいった可笑しな行動を取ってしまった。今のラティディアの反応はまさしくルクスが慌てて行った動きと酷似しており、たった一週間前の話だというのに懐かしくて思わず笑みが零れてしまう。
一瞬こそなぜ笑われたのか理解していないようなラティディアだったが――思い出したのか、突然あたふたとしては目元を朱に染める。
「違うの! たまたまなの!」
「うん、わかってるよ。…………よかった、元気そうで」
顔を赤くしてしどろもどろとする様は、いつも通りのラティディアで。
それを見て安心したように微笑みを浮かべるルクスに、ラティディアが目をぱちくりとさせる。
少女は目元を緩めると、すっと柔らかな笑顔を湛え――
「…………きっと雨だから」
「えっ?」
囁くように告げる。
「雨だから、髪の毛がぺたんこになって困ってただけ。それだけだよ!」
そう言ってはにかむラティディア。
「明日もあるんだし寝よう!」――と桃色の髪を靡かせながら背を向けて、あっという間にラティディアは部屋の隅で丸まってしまった。
(んー……やっぱり気のせいか)
その愛らしい笑顔に安堵してしまい、ルクスは笑顔の裏に隠された彼女の気持ちに気付くことができなかった。




