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0013  憧れと現実

 正確な日付は、一年と少し前だろうか。


 ――7月14日。

 その日、今まで一度たりと狂うことのなかった昼と夜の均衡が崩れ去った。


 『それ』が起こった時刻は夜の10時。空は漆黒に塗り潰され、月が静かに世界を照らす――普段となんら変わりのない夜の刻だった。

 その時のことを、ルクスは今でもよく覚えている。

 スタンドライトで机上を照らし、ルクスが大嫌いな歴史書と睨めっこしていた時に『刻の歪み』は起こった。

 なんの前触れも前兆もなく、ただただ突然に世界に光が満ちる。背後の窓から太陽からの日差しが差し込んできたときは、あまりの眩さに暫く目を開けることができないでいた。繰り返し何度も懐中時計で時刻を確認していたのも覚えている。

 突如として、本来であらば夜の刻であるはずなのに昼の刻に変わってしまったその日。――それが『一年前の刻の歪み』と言われる出来事だ。

 結局その日、何時間経とうと再び夜の刻になることはなかった。

 日を跨いで6時。昼から夜へと移り変わるその時間になってようやく、世界には再び闇が満ちた。おおよそ二十時間もの長い間、空には悠然と太陽が佇んでいた。

 その日は大人たちがやけに騒いでいたのもよく覚えている。

 やれ『天変地異の前触れだ』、やれ『世界の崩壊がはじまった』だのと大騒ぎで、その日はまともに寝付けなかった。窓の外が明るすぎたことも、原因ではあるのだろうが。

 ルクスが覚えているのは、それぐらい。

 珍しいことが起こったとは理解していた。自分が物心ついた時から世界の刻は昼が六時間、夜が十八時間と定められて当たり前だったから。

 しかしそれだけだ。自分の生活に支障があったわけではない。


「…………ねえ。さっき闇の民には『昼の刻に生きられない呪いがかけられてる』って、言ってたよね」


 ルクスの問いには、ハインラインが頷くことで答えとした。


「じゃあ、刻の歪みが起こった日って――――」


 その質問には、沈黙が返ってきた。耳が痛くなるような張りつめた沈黙。


「みんな――――死んだわい」


 静寂の中に魔元老のしわがれた声がいやに響いた。

 ボールドウィンは表情一つ動かさず、柔和な面持ちのままでルクスたちを眺めて続ける。


「闇の民は、昼に生きられないから夜の刻に活動をする。刻の歪みが起こったのはちょうど、外に出て家事や遊びを始めたぐらいかの。そんなときに昼夜が逆転したのじゃ。一溜りもなかろう」


 ――背筋がぞっとした。

 それと同時に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃と後悔を覚える。

 自分がなにも知らずに呑気に過ごしていたあの日、世界ではそんな出来事が起こっていた。

 自分が眩しさに目を瞬かせていた、たったあれだけの瞬間に大勢の命が奪われた。その事実が、どうしようもなくルクスの胸を締め付ける。

 なんでそんなことも知らなかったのだ。そんな重大な事実を。

 膝の上で握り締めた手のひらに、自分の爪が食い込む痛み。

 僕は光の民だ。太陽の日差しの温かさが好きで、光に照らされた色鮮やかな世界が大好きだ。だけどそれは僕が光の民だからで、闇の民の人々は自分たちをいとも簡単に死に至らしめる日の光がどれだけ恐ろしいだろう。それを避けて生きていたはずなのに突如として昼と夜の均衡が崩れて、命を奪われる。目の前で家族や友人が死んでいく。

 その光景を想像しただけで、息もできなくなりそうなほど苦しくなった。


「先にも言ったじゃろう。光の民と闇の民に交流はない。お主が知らないのも無理はないんじゃ」


 ルクスの心中を見透かしたように、ボールドウィンは告げる。

 しかしその言葉も、ルクスには届かない。


「…………僕は」


 なにも知らない。

 魔物もいない、危険もない、ひどく快適で安全な鳥かごの中で暮らしていた。

 その中で外の世界に焦がれ、かごの中は退屈だと拗ねていた。――それが、どれだけ幸せなことか知ることもなく。


「知らなきゃいけないんです、この世界のことを」


 なにも知らないままで僕はいられない。知らなきゃいけない『義務』がある。

 だから鳥かごを飛び出して旅を始めた。

 そして知ったのは『刻の歪み』の影響により魔物が狂暴化、人間を襲うことが増えているということ。もう一つ『刻の歪み』が原因で、多くの人間が命を落としたという絶望的な事実。

 ゲルナイトという組織が世界を闇に変えようとしている理由は痛いほどわかった。


「でも、だからって世界を闇に変えるなんて……」

「じゃあ、どうするの」


 それはナイフのように鋭い言葉だった。ハインラインが俯いていた顔を上げ、ルクスの瞳を見つめている。

 淡々とした抑揚のない声のはずなのに、その声にはルクスを問い詰めるような冷たい感情が窺えた。


「…………闇の民の、呪いを解くとか」

「有史以来の歴史のにゃかで、闇の民も魔術師協会も、多くの人間が呪いを解こうと躍起ににゃったにゃ。それでも有史以来の500年の歴史で、誰一人としてこの呪いを解けた者はいにゃい。――はっきり言って、無理にゃ」


 悲壮感も諦めもないロードの声音は、それが不可能であることを悟ったものだった。

 ハインラインはそれに否定も肯定もしない。現象としてそれを当たり前であると受け入れている者の反応だった。


「いんにゃ、諦めてはいかんよ」


 弾かれたようにルクスがボールドウィンに向き直る。

 視線を上げた先のボールドウィンはどこか楽しげに、優しげな笑みを口元に湛えてルクスを見つめていた。


「いつの時代も、歴史を変えてきたのは諦めなかった者だけじゃ。ロードやい、教官ともあろうものが若者に希望のないことを言ってはいかんよ」

「も、申し訳ありませんにゃ……」


 ロードがしおらしく耳を垂れさせる。

 魔術師協会のトップから直々に説教を受けたのであっては、威勢のいいロードもさすがに委縮するのは当然だろう。


「――のう? ルクスくん」


 そう言って年甲斐もなく悪戯に口元を釣り上げた魔元老に、再びルクスの背筋が粟立ったのは言うまでもない。

 そういえば、自己紹介してなかったよね。――紹介するまでもなく、この魔元老には名前を知られていたのだが。


 ***


 話し込んでいた所為ですっかり冷めきった料理を食べ切り、ラティディアはお風呂に入りたいからと言ってロードに連れられ食堂を後にした。連れられ……というよりは、ラティディアがロードを抱えて、ロードが口案内するという構図だったが。まぁ、間違ってはいないだろう。

 食堂に残ったのはルクスとハインラインとボールドウィンだけだ。先ほどまでは他にもちらほらと人がいたのだが、魔術師協会のトップが現れたことに驚いたのか食堂内にいた人間は逃げるように去っていくし、誰も食堂内に訪れる気配はない。

 食後のデザートと言って、大量の食事を平らげていたはずのハインラインがシフォンケーキを頬張るのを眺めながら、ルクスは紅茶を一口。香りがあまり立っていないとも思ったが、ここは魔術師協会だ。そんなのを求めるのはお門違いだろう。

 ルクスの背後では、魔術師協会の魔元老がひどくゆったりとした動作で食事を取っている。


「ルクスは…………」


 もそもそとケーキを咀嚼しつつ、ハインラインが声を上げた。

 カップを置き、ルクスは首を傾げる。

 長い長い沈黙の後、躊躇いがちにハインラインが言葉を紡ぐ。


「ルクスは――――『刻の歪み』を、直せると思う?」


 突拍子もない質問に、ルクスは目を瞬かせた。

 テーブルを挟んで正面、座っている状態でもはっきりとわかる華奢な背丈のハインラインがルクスの瞳を真剣な面持ちで見つめていた。

 相も変わらず、彼の表情は読めない。声色も平坦としていて、ルクスにはハインラインのその言葉が冗談であるのかからかいであるのか――または、本気であるのか区別はつかなかった。


「…………直せるかは、わからない」


 だからルクスは、自分が答えられる精一杯を答えようと思った。

 ハインラインの瞳の奥の光彩が僅かに揺れる。


「だけど、助けたいとは思う。……僕ね、ここに来るまでに色んな人にお世話になったんだ。ラティもそうだし、途中の集落にあった夫婦とか行商人とかね」


 見ず知らずの得体の知れない自分に、彼らは手を差し伸べてくれた。

 ラティの屈託のない笑顔に、老夫婦と囲んだ食卓に――僕がどれだけ嬉しかったかなんて、彼らは知る由もないだろう。

 だけどもそんな優しい人たちに、世界はあまりにも冷たすぎる。

 ラティディアは狂暴化した魔物によって大怪我を負わされた。老夫婦は作物が育たないと嘆いていた。そして、まだ関わったことはないけど――闇の民は光に怯えて暮らしている。

 そんな世界を、少しでもよくしたいと思うのは事実だ。そしてそれが、自分の『義務』であるとも理解している。


「だから僕は刻の歪みを――世界を、変えたい」


 ありのままの気持ちを、素直に告げた。この気持ちに嘘はなかった。

 ハインラインは眉一つ動かさず、まるでルクスを見定めるかのような視線を向けている。

 些細な物音も、吐息すらも響かない食堂内。一体どれだけの沈黙が流れていただろう。

 ――ようやくと、ハインラインが口を開いた。そのときだった。


「あれ、珍しいね魔元老。食堂にいるなんてさ」


 唐突に突然に。

 柔らかな青年の声音が、朗らかに食堂内へと木霊した。

 首を捻って背後を見遣る。食堂への入口に、まだ若い――線の細い印象の青年が佇んでいた。


「ケネス……さんっ……?」


 ……え、いまの声誰?

 上擦り痞えたような妙な声が、すぐ近くから聞こえた気がする。

 もしかして……と同じテーブルに座るハインラインへと視線を向けると――ハインラインは硬直していた。それはまるで金縛りにでもあったような。瞠目し、かちんこちんに体を強張らせてしまったハインラインは、入口に立ち尽くす青年を凝視したまま微動だにしない。

 たぶんだが、ハインラインはこの青年をケネスと呼んだ。身に纏った上質そうなコートの胸元に魔術師協会の紋章が縫い付けられていることから、彼もまたここの人間であるのは間違いないだろう。そしてハインラインのこの驚き様。先ほどのボールドウィンのときとほとんど変わらない反応に、この青年も魔術師協会ではかなり上の立場であると想像できた。


「……あれ、これはまた珍しいね。お客さん?」

「はじめまして。僕、ルクスっていいます。ノルム国に行く途中で迷ってしまって、こちらにご厄介に」

「これはこれはご丁寧にどうも。僕はケネス。見てわかると思うけど、ここの魔術師なんだ。よろしくね」


 そう言って――青年、ケネスは人の好い笑みを浮かべた。見た目だけだと、歳はルクスより少し上ぐらいだろうか。穏やかそうな物腰と口調に、ずいぶんと大人びた印象を受ける青年だ。


「……ねぇ、ハインライン。魔術師は階級でいったらどれぐらいなの?」


 固まったままのハインラインの耳元に口を寄せ、ひっそり問うてみる。

 ハインラインはびくりっと大きく体を震わせたかと思えば、目に見えてわかるほどに興奮したような口振りで


「階級は魔元老のすぐ下。魔術師の位は五人しかいないけども、その中でも第一位。魔元老の次に偉い人」


 先ほどまでの挙動が嘘のように、饒舌に語るハインライン。そうか、じゃあいまこの場には魔術師協会のトップと、その次に偉い人物が揃っているわけだ。ハインラインが緊張するのも頷ける。

 そう納得していると、紺色のコートをはためかせながらケネスがルクスたちの許へと歩んできた。

 身近に来られると、優しげな面立ちがよくわかる。魔術師協会と聞くと、気難しそうな人が多いのかというイメージであったが、魔元老といい魔術師の第一位といい人の好さそうな人たちばかりだ。

 ケネスは口元に弧を描いては、ルクスの顔を覗き込んできた。


「ノルム国までって言ったらジャナイアルの森を抜けるだけなのに、またどうして迷っちゃったのかな?」

「あ、いや……分かれ道で間違えてしまったみたいで。それに、途中で『刻の歪み』も」


 そう告げると、ケネスは「ああ」と伏せ目がちに視線を逸らした。


「――……魔物は大丈夫だった? 刻の歪みの影響で魔物が狂暴化してるって話は僕も聞いてるし」

「ああ、はい。それは大丈夫でした。ゴブリンに追われてたんですけど、ハインラインが助けてくれて」


 ルクスは身を縮みこませたままのハインラインを指差す。ハインラインは目に見えてわかるほどに大きく震え、目を瞠った。

 口をぱくぱくと動かしてはいるが、声が出ていない。よほどの緊張のようだ。


「えらいね」


 そう一言、ケネス。ハインラインの顔が見る見るうちに困惑と羞恥に赤く染まっていく。

 そんなハインラインを横目に、ルクスは一人思案していた。

 ケネスもやはり刻の歪みが原因で世界に及んでいる影響について知っているらしい。先ほどロードも、闇の民の呪いを解くため魔術師協会で研究を行っていると言っていたし、魔術師協会の人間が、そういった世界の事情について詳しいのは当然だろう。


 ――ああ、それならちょうどいいかも。


 この場には、魔術師協会のトップである魔元老と、魔術師の第一位が揃っている。これを逃す手はない。

 ルクスは思いついたままに口を開いていた。

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