0010 刻の歪み
じいっと穴でも開けられるのではないかと思えるほど、ルクスを凝視するハインライン。
これは――そう、生理現象だ。不可抗力だ。昨夜混ぜてもらったキャンプの行商人から一つパンを分けてもらっていたが、まだ十九という歳のルクスがそれだけの量で腹が満たされるわけもない。その上で魔物に追われて逃げ回っていたことから体力も消費している。腹が減らないわけがない。
頭の中でそう弁解するが、言葉が告げずにルクスは顔を赤くするばかり。
そんなルクスに対してか、ハインラインが小さく息を吐く。馬鹿にしているのかどうなのか、息遣いですらハインラインは感情を伴わない。
「……迷った、って言ってたよね」
それが問いかけであると気づいたのは、顔のほてりが治まり始めたときだった。
「え、あ、うん。イングレッソからノルム国まで抜けようとしていたんだけど、二手に分かれた道で間違えたみたいで」
「……ふうん」
「いや、僕もね、色々と推理してみたんだよ。道幅が広いとか、足跡がまだ新しいとか」
推理は結果として間違いであったのだが。
「道幅が広いのは……荷を運ぶから。足跡は……多分、ぼく」
ぽつぽつとハインラインが告げる。
「ここらへん一帯は……貴重な薬草が取れる。……だけど、魔物も多い」
魔物が多いのは先程、身をもって知った。
ハインラインを見遣ると、手に籠を提げていることに気付く。籠の中には今しがた説明されたばかりの薬草がぎっしりと詰められていた。
「で。どうするの」
首を傾げたハインラインの、一つに結わえられた髪が揺れる。
「申し訳ないんだけれど、さっき言った分かれ道まで案内してもらえないかな? あとは一本道なんだよね?」
こくりと、ハインラインが首を振る。
「そこまで連れて行ってもらえたら、あとは僕たちで泊めてもらえる場所でも探すよ」
道を違え、魔物に追われていたことで忘れかけていたが、二人は今夜の宿のアテすらない。
ジャナイアルの森を抜けてすぐに集落でもあれば助かるのだが、そうでなければ二人はまた暗闇の中をラティディアの持つ懐中電灯だけを頼りに歩いていかねばならない。五度の迷子にはなりたくないが、覚悟もしておかねばならないだろうと――情けない決意。
「……二人って、かけおち?」
初めてハインラインが、不思議そうに――と言うよりも、訝しそうな表情を見せた。蝋人形のように感情を灯さないハインラインが見せた表情の変化に驚きながらも、ルクスはそれ以上にハインラインの問いに動揺を隠し切れなかった。
「ちっ、違う! 彼女――ラティが、ノルム国のプラーズバズに行くからって、僕が護衛してるだけ! 女の子一人がイングレッソからノルム国までなんて危ないでしょ!?」
「そ、そうだよ! いや、ちょっとかけおちって素敵だなとか思ったりしたこともあるけど、私とルクスはそんな関係じゃないよ!?」
身振り手振りを加えながら、必死にルクス。その後ろでラティディアも、声を上擦らせて否定する。
確かに、若い男女がノルム国まで二人だけで向かっていると聞いたら、誰だって一瞬はかけおち等の想像はしてしまうだろう。だがそもそも、ルクスもラティディアもまだ結婚できる歳ではないのだが。
理解してくれたのか「わかった」とだけ呟くハインライン。……本当に納得してくれたのだろうか。確かめようもないが。
「あ、そういえば……」
思い出したように、ルクスはジャケットのポケットに突っ込んである懐中時計を取り出す。
魔物から追われていた時間は、体感的にいえば短いものであったが、あれからどれだけ時間が経っていたのだろう。下手したら昼の刻の間にジャナイアルの森すら抜け切れないかもしれない。
慌てた素振りで時計の蓋を開けたが――――時刻は確認できなかった。
「――え?」
真っ暗。漆黒。なにも見えない。
夜の刻が訪れたのだ。
そんな、最後に時刻を確認したのは四時だ。二時間もの間ゴブリンに追われていたというのだろうか。いくらパニックになりかけてたとは言え、そこまでの時間が経っているとは到底思えなかった。
「……『刻の歪み』だね」
闇の中で、平坦な声が淡々と告げる。ハインラインだ。
自分の背後からぱたぱたと足音が近寄ってくると、自分たちの周囲が眩しいぐらいの明かりに照らされる。ラティディアが懐中電灯を使って照らしてくれているのだろう。その中でルクスは、改めて懐中時計の文字盤に目を凝らす。
「まだ、五時だ」
針が指し示す時刻は5時6分。普通であれば、まだ昼の刻のはずだ。
規則正しく昼と夜の変化が訪れるこの世界。
昼の刻は零時から六時。それから夜の刻が十八時間もの長い間続く。
時計が六時を示す、その一瞬で太陽はどこかに消え、空には月が佇む。夜から昼への変化も全く同じだ。月がいつの間にか消え、気付いたときには太陽が燦々と世界を照らしている。
その変化が起こる時刻は一分一秒、瞬きのその一瞬ですら狂ったことはなかった。
――一年前までは。
「……ど、どうしよう」
懐中電灯を握り締めるラティディアが、そう零す。
振り返り、おぼろげに浮かぶ華奢なシルエットを見つめると、懐中電灯を握り締める手が小刻みに揺れているのがわかる。
無理もなかった。魔物に恐怖を抱いているラティディアが、こんなどこだかわからない――しかも魔物が多いと言われた――場所で、怯えないわけがない。
「……ねぇ、なんならさ」
ハインラインが髪を揺らす。こちらの調子を窺うように小首を傾げたためだ。
そんな仕草は幼い容姿に似合っていて、彼の人間らしさが垣間見える。
「ラーデポリスに来る? 二人が泊まるぐらいできるし……食事も取れると、思う」
ハインラインの瞳がルクスを捉える。
先程腹の虫が鳴いたことを言っているのだとすぐに理解した。感情の起伏は少ないのに、言葉は随分と含みがある。
それよりも。
「『ラーデポリス』って?」
「……魔術師協会のある街。少し歩けばある」
あまり耳に馴染みのない『ラーデポリス』という街。
ハインラインは、魔術師協会のある街だと言うが、そんな街が地図に載っていただろうかとルクスは頭の中で地図を広げる。
「街って言っても、森の中にある……。小さいし」
ルクスの疑問に答えるかのように、ハインライン。
森の中にある街か……どんなところなんだろう。と、ルクスの好奇心が掻き立てられるのもそこそこに、ハインラインに抱えられたままの黒猫が口を開いた。
「まぁ、こんなところで迷子ににゃられても、こっちはにゃざめが悪いからにゃ。あんにゃいしてやるにゃ」
「『魔術師協会に近いこんな場所で迷子になられたら寝覚めが悪いから、案内してあげる』――だって」
「わざわざ言いにゃおさにゃくてもいいにゃ!!」
ロードの爪がハインラインの頬を狙う。
しかしハインラインは慣れた動きでロードから放たれる猫パンチ……を器用にかわしていた。
腹が減ってはなんとやら――だ。迷子になるのも魔物に追われるのも嫌であったため、一人と一匹の提案にルクスは二つ返事で頷いた。
***
獣道をハインラインが先導し、曲がりくねった道々を歩いていく。
小石が転がり、雑草がそこかしこに生えたそれは、おおよそ道とは言い難いものであったが、ハインラインの言うように歩いて数分もしないうちに開けた場所へと出た。
――そこはまさしく、魔術師たちの街であった。
魔術師協会のある街なのだから、当たり前と言われればそれまでなのだが、魔法を使用して灯を点された街灯が照らす街並みは、ルクスの故郷とは全く異なっていた。
等間隔で設置された街灯に照らされて、街は昼の刻――とまではいかないがそこそこに見晴らしがよかった。
周囲を木々に囲まれた街は、一時間もかからず外周を一周できそうな広さだ。街と言うには小さく、町と言うには大きい。
街のあちらこちらには得体の知れない小動物の干物や毒々しい色をした木の実を売る店や、うず高く積まれた古書が今にも倒れそうに揺れている店など、風変わりな露店が軒を連ねている。
街を歩く人はそう多くない。そもそも住宅と呼べるものが数少ないのが特徴的だった。
ルクスの真正面――街の一番奥に立派な佇まいの古ぼけた屋敷がある他、その周囲を取り囲むいくつかの無機質な建造物があるだけで、建物と呼べる建物がほとんどない。
「おもしろい街だね」
そんな感想を漏らすと、ハインラインは首を捻る。見慣れた彼からすればおもしろい要素などないのだろうが、王都に住んでいたルクスは不思議で特徴的な街に興味津々だ。ラティディアはそんな彼の背後で、露天で売られているヤモリの干物を見て「ひゃっ」と悲鳴を上げていた。
「……こっち」
ハインラインがくるりと背を向けて、そそくさと先を歩き始めた。
街の入り口からひたすら真っ直ぐ。ハインラインの靴先は、建物の少ない街の中で特に目立つ、立派な屋敷に向かっている。
近付いていくにつれてわかるその屋敷の大きさに、ルクスは圧倒される。
幾百年もの時を経て風化した煉瓦造りの屋敷は、そこかしこに蔦が絡みつき、年老いた老人のような古めかしい印象を受ける。
だがその色褪せた風合いは、魔術師協会の長い歴史と共に刻み込まれてきたものだ。歴史を感じさせる景観に、ルクスの視線は釘付けだ。
「ここが……魔術師協会の本部」
ハインラインの足取りは迷いがない。両開きの扉の前まで着くと、錆付いて赤茶けた取っ手に手をかける。ぎぃぎぃと年老いた扉は悲鳴を上げて開かれた。うるさく響く音を気にも留めず、ハインラインは中へと入っていった。慌ててその後を追いかけるルクスとラティディア。
扉の先は――吹き抜けだった。
舞踏会でも開けそうな広間が眼前に広がる。広間の奥には幅広の階段があり、階段を上った先から左右に伸びた廊下には数え切れないほどの扉。それが一階、二階……五階まであるのだから、広い上に高い。外観からの期待を裏切らない壮大な光景であった。
広間にはハインラインやロードが羽織っているようなパーカーを着た老若男女問わない人間が行き来している。彼らもまた魔術師・魔法使いなのだろう。前が見えないだろう山積みの本を抱えた人に、人語が通ずる動物を連れ添う者がルクスたちの前を通り過ぎていく。
「だ、大丈夫なの? 私たちがこんなとこに来ちゃって」
魔術師協会がこんな場所だとは。気圧されたようにラティディアがハインラインへと問いかける。
「別に……ここの人たちは他人に興味ない。魔法の研究しか見えてない人ばっかり」
ハインラインが言うように、外部の人間のルクスとラティディアが立ち尽くしていたところで誰も二人を気にかける者はいない。
「こっち」
ハインラインに促されるまま、二人は魔術師協会の内部へと足を踏み入れた。




