0001 鳥かごの少年の決断
ただ、早く目が覚めただけだったんだ。
日の出よりも早く、まだ『夜の刻』に目覚めた僕は、鉄格子越しに見える遠い星空を眺めていた。
すぐそこにあるようなのに、遠くて、遠くて。
目の前の鉄格子がまるで僕を閉じ込めているようで。僕は逃げることを許されない、まるで鳥かごにいるようだ。
空は規則正しく『昼の刻』を迎える。一分一秒の狂いもなく、空の色は漆黒から突き抜けるような青に変わる。
闇に慣れていた目には、突然の太陽の日差しはひどく眩しいもので。
瞬きを幾度かして、もう一度その蒼穹を見上げた。
そのとき、ふと思ったんだ。
――この鳥かごから飛び立とうと。
***
こけた数が10回を超えたときから、ルクスはもう数えるのをやめた。
身体中は土埃と傷だらけで、それでもなお必死に走り続けるざまはみっともないだろう。
息もうまくできない。視界も眩んできた。足が縺れて、また転びそうだ。
それでもルクスは、駆け続けた。一体何時間、こうして逃走劇を繰り広げているのだろう。時計を見る余裕もありはしない。
気を抜いていたら足元のなんてことはない小石に足を取られた。
本日何度目だろう。ずいぶんこけ方も様になってきている気がする。嬉しくない。
口の中で土の味を噛み締めながら、ルクスは限界を訴える体を必死に起こし上げた。
「おい! どこに逃げやがった!」
遠くから若い男の怒号が聞こえた。
声からするに、まだずいぶん距離はある。しかし、足音は確実に迫ってくる。
ぐっと、酸素を求める口を結び、腰を低くして声の聞こえた場所とは反対側へと逃げていく。
もう、気が気じゃない。心臓がいまにも口から吐き出されそうだ。頭もぐらぐらして、あざになった膝の痛みも、頬を裂き溢れた血の熱さもわからなくなってきている。
潜り込んでしまえば自分なんてすっぽりと覆ってしまう生い茂った雑草が姿を隠してくれているのか、足音は茂みの入り口付近で止まった。
いや、もしかして。男は茂みに入るのを躊躇っているのかもしれない。きっと後者だ。男の性格上、こんな茂みで泥まみれになるのは嫌なんだろう。ルクスは知っている。
「いましたか?」
次に聞こえた声音は女のものであった。
「悪い……逃がしちまった」
「そんなに広くない森のはずですが……どこに隠れられているのでしょう」
「さあね。大方茂みの中だろうけど」
こけたのが幸いしたのか、会話の多くは聞き取れないが男はルクスの姿を見失ったようだった。
会話を交わす男と女の声をどんどん遠ざけながらも、痛む頬を引きつらせて、ルクスはしたり顔で笑ってやる。
しかし、少しでも安堵したのが間違いだった。
「それなら『刈れば』いいだろ」
今までの男女の声とはまた違う、声変わりも終えていない少年の声が、えらく澄んで聞こえた。
ルクスの体が恐怖に震える。本能で、危険を感じた。
少年の声がぶつぶつとなにかを呟く。
それを聞き取ろうと意識を集中させた瞬間に――周りの樹木が、『刈り』取られた。
ルクスの胴ほどもある大木が、横に一刀両断。それも、一本だけではない。辺りのものが何本も、だ。
「いっ!?」
目を疑った。
押し殺していた声も、思わず漏れる。
その刹那、一陣の風がルクスの真横を吹き抜けた。
無意識で瞼を閉じたルクスの耳に、刃のように鋭い風の音と、辺りにあった大木が崩れ落ちる音が聞こえる。
やばい、向こうは本気だ。
「ちょっ、おい! 魔法はやめとけよ! 怪我でもされたら……」
「ケッ。どうせこけて身体中傷まみれだろ。これ以上怪我してもバレねーって」
「それでも容赦はしろ!」
……本気で殺される気がする。
間一髪のところで自分の姿はまだバレていない。生い茂っていたはずの傍らの雑草も、ずいぶんすっきりしてしまったがまだバレていない。
諍う男と少年の声を尻目に、ルクスは今のうちと静かに這って行く。
見上げれば、視界を遮っていた雑草が消え、ぱっと目の前が開けた。
森の出口だろうか。男たちが口論している間に、逃げ切ってしまえばいける。
そう思った時だった。
「――え?」
這ったまま伸ばした左手が、地面を捉えなかった。
ふわりと、空だけを掴む。
体重を左手にかけていたためか、ぐらりと自分の体がバランスを崩す。前方に向かって、倒れていく。
ここでようやくルクスは気付いた。
開けた視界の先はなにもなく、ただ崖だけがあった。
体が宙に浮く。落下していく。
それを認識した瞬間、ルクスはどうやって受身を取ろうか、よし声を出さないように口を噤んでおこう、とどこか冷めた気分で考えていた。
***
ガラガラと、どこからか土砂の雪崩れる音。
それに視線を上げた若い男が、辺りの様子を伺ってみる。
「いま、なんか音しなかったか?」
「あ? 僕には聞こえなかったぞ? 気のせいだ、気のせい」
そう言われ、若い男は釈然としない表情で音の方角を見つめた。
見つめても、そこにはただ生い茂った樹木が立ち並ぶだけ。
「ほら、さっさと手ェ動かせ」
ぼうっと突っ立つ男に痺れを切らしたのか、少年がぎろりと男を睨みつける。
「ヤダよー。もう俺、泥まみれの草まみれ。これ以上は汚れるのなんて無理っ」
「あのなあ。アイツ探し出せなかったら、僕らどうなるかわかってんの? 准将に殺される未来しかねーぞ」
「大丈夫大丈夫。なんだかんだ言って『緋守』は優しいから、2時間の説教ぐらいしかしないって」
「お前なんでそんな呑気なんだよ! そもそもお前が汚れるのが嫌だからって、茂みに入ったアイツ見失ったのが原因だろ! どこに目がついてんだよ!」
叫びつつ少年は屈んでいた身を起こし、男に指を突き立てる。指先は雑草で切ったか、少し血が滲んでいる。
「ん? ついてるの見えない? この愁いを帯びた紫の瞳が……」
「っ……この無能男が……」
今にも殴りかからんとする少年。男はおどけた様子でからから笑う。彼らはルクスを見つけられない原因が自らにあることを気付いていないのか。
と、その二人と離れた場所を捜索していた女が、ふと声を上げた。
「もしかしたら、『遺跡』のほうに迷い込んでしまわれたのかも……」
その声に、男と少年があからさまに嫌そうな顔をした。
「それは勘弁してほしいねェ。あそこ、バカにでかいから」
「あくまでも可能性ですが。わたし、少し探してまいりますね」
そう言って女は、衣服についた汚れを軽くはたく。
彼らが身に纏う黒を貴重とした服装は、どこか厳かな印象を受けた。袖口や襟元には細工を施した貴金属があしらわれ、左の胸元には太陽をモチーフにしたと思われる紋章が縫い付けられている。
それだけでなく、女の腰には刀が下げられ、見てみれば男は銃を、少年は槍を所持している。皆一様にして物々しい装いだ。
「いやいや、女の子一人では行かせらんないっしょ。俺も行くよ」
「お前はただ遺跡のほうが服が汚れないとか、そんな理由だろ。くっだらねー」
語り合いつつ、ルクスを追っていた一行は女の言う『遺跡』へと歩を進めた。
***
とりあえず、一瞬気絶してたと思う。
ルクスは全身に激痛を味わいながらそう思った。しかし冷静に受身を取れたおかげで、骨折などはなさそうだ。右手首は少しひねったようだが。
崖から落下し、これだけの怪我で済んだのは奇跡であろう。声を上げなかったのも褒めてほしいぐらいだ。
しかし土が入ったのか、痛くて目を開けることができない。涙を湛える瞳で辺りの様子を伺うも、浮かぶ景色は白一色だ。
――あれ、僕死んじゃった?
眩いくらいの純白は、今のルクスの瞳に沁みる。
疑問を浮かべたのも束の間。眼前の色がふっと失せた。
「――!」
滲む視界を押し開く。
ルクスの目の前に、人影があった。
どくん、と、全身の血が震える。
もう見つかったのか、逃げ道はあるか。
そんなまどろっこしいことを考えるよりもまず、体のほうが反応を示した。痛む体に力を込めた、瞬間。
「大丈夫?」
聞いたこともない、澄んだ音だった。
鈴のように軽く、吹けば蝋燭の火のように消えてしまいそうな儚い音。
その声が鼓膜を揺らすことで、平静を失っていた自分の思考が落ち着きを取り戻した。
何度か瞬き、視界が冴えてくる。
自分の目の前にいたのは――可憐な少女であった。
芽吹いたばかりのような若葉色の瞳を細め、ルクスに対し心配そうな視線を投げかけている。
「だ、大丈夫……なんとか」
「そう?」
少女が眉根を寄せてルクスを凝視する。傷だらけであった。
「いや、うん。色々あって。僕、元気だけは取り柄だから!」
右腕を持ち上げ、ルクスはガッツポーズ。なんで僕、見ず知らずの少女にいきなり自分の長所をアピールしているのだろう。やっと塞がった頬の傷口を開かないようにしながらルクスは笑顔を作ってみせると、少女も訝りの視線を安堵に変えた。
「よかった。いきなり落ちてきたから、びっくりしちゃったよ」
「ご、ゴメンなさい……?」
「謝らなくていいよ。勝手に落ちてこられて、私には被害も何もないし」
少女はクスリと笑う。事実を言われただけだが、ちょっと傷ついた。
「ねえ、なんで落ちてきたの?」
少女はころころと表情や声音を変化させる。ずいとルクスへと顔を寄せてくると、彼女の鮮やかな桃色の髪がふわりとなびいた。
目と鼻の先にある少女の顔立ちは、まだあどけなさが残るものの整っており、それがこう近くにあると戸惑ってしまう。それに、質問の内容も突飛過ぎる。
「えっとワケあって追われてて……」
苦笑交じりにルクスが答えると、少女は目を丸くさせる。そりゃ、普通の人間は追われたりなどしないだろう。返答がまずかった。
「えっと、追われてるって言ってもね、」
「ねえ。そう言えば私、まだあなたの名前も聞いてなかった」
……慌てた自分がバカみたいだ。
少女の気まぐれすぎる言葉に、ルクスはがっくりと肩を落とす。
少女は耳元のピアスに指で触れながら、呑気に笑顔を浮かべている。
「私の名前はラティディア」
「僕は……ルクス」
「じゃあルクス、よろしく!」
ラティディアはルクスに手を差し伸べてくる。握手ってことでいいのかなと、ルクスが間誤付いていると、焦れたのかラティディアは無理くりにルクスの手を持ち上げて力強く握り締めた。彼女の手は、自分のものよりも小さくて柔らかかった。しかし、右手首をひねっているので痛かった。
「ところでさ、ルクス。追われている身の人にこんなことを聞くのは変かもしれないけど、ここがどこだかわかる?」
くるりと踊るように身を翻し、ラティディアは背後の真っ白な景色を指差した。
――そこは、廃墟であった。
柱も石畳もなにもかも、純白で造られた石造物の残痕。世界から忘れ去られたような、時が止まったかのような、静かすぎる空気が周囲には満ちている。見渡す限りの広大な廃墟に、ルクスは言葉を詰まらせた。
自分はここを、知っている。
「私ね、今からノルム国に行かなきゃならないんだけど、方向音痴なもんだから間違ってこんなとこに迷い込んじゃってさ」
「ここから、ノルム国に?」
「そう。あ、話してなかったね。私、巡業劇団リベルヴィの団員なの。結構有名だと思うけど、知ってる?」
ルクスは首を横に振ることで答えとした。残念、とラティディアが指先でピアスを弄りつつ眉根を下げる。ピアスに触るのが癖なのだろうか。
「僕、あんまり外のこと知らないんだ」
自分でも弱った声音になってしまったと後悔した。きょとんとしたラティディアの表情に、思わず苦笑する。
その矢先だった。
静謐とした廃墟の影に、剥き出しの殺意が滲んだ。
「静かに」
その声は、喉の奥から搾り出した。目前のラティディアの体が、金縛りにあったように固まる。大分調子を戻した体を起こし上げ、彼女の背後――柱の影を睨み付けた。




