夢かり草
その時、ぼくはテーブルに置かれている観葉植物に遠慮しながら、小さくなって夏休みの宿題をしているところだった。足もとには猫のモモ太が寝そべって、不機嫌そうにしっぽをバタンバタンと鳴らしている。彼もお気に入りの場所を『幸福の木』に占領され、すっかり不幸な気分になっていた。
かあさんだけはご機嫌で、ベランダで鼻歌を歌いながら、ガ-デニングに夢中だった。マンション2階にあるぼくの家には庭がない。だから、どんどん増えていく観葉植物のおかげで、ベランダやリビングは『ジャングル』となっていた。
ピンポ-ン。
玄関のチャイムの音だ。ベランダから、
「今手が離せないから、かわりに出てェ」
とかあさんの声。仕方なくぼくが玄関の方に行くと、そこにはどうやって入ってきたのか、一人の男が立っていた。
「これはいらっしゃいませ、お客さま」
変な人だなあ。
この暑い日に、茶色のスーツをきちんと着て、茶色のネクタイをしている。髪の毛も茶色。でも、その大きな目はどこかで見たことがあるような気がする。
「あなたはだれですか?」
「これは申し遅れました。私、ホ-ムショップ ヤマネコからまいりました。実際に商品を手に取って買っていただける、今までにない画期的な通販会社でして。どうぞ商品をごらんになってください」
いつのまにか、玄関の上がり口にはいろいろな物が並べられていた。色とりどりの鈴にレースやチェックのリボン、毛糸玉、キラキラ光る石のついたブレスレットやペンダントのようなもの等々。なんかろくなものはないなあと、ぼくは思った。
「この金の鈴など、おたくの猫さんによくお似合いだと思いますが」
「でも、ぼく、お金持っていないし」
「いえいえ、お安くしておきますから」
男はニカリと愛想笑いをしている。思った通りのことを言うのも、気の毒のような気がして、ぼくはすっかり困ってしまった。
その時、グッドタイミングで、用をすませたかあさんが奥から顔を出した。
「今どき押し売りなんてめずらしいわね」
と言いながら、ぐるりと品物を見回すと、
「あら、これはなあに?」
と男に聞いた。うす紫色のビ-玉のような丸いものだった。
「これは奥様、おめが高い。それはゆめかり草の種です。日本ではまだ出回っていないめずらしい植物でして、一週間で花が咲き、三ケ月間咲き続けます。今なら奥様のお持ちのキャットフ-ド三缶とお取り替えいたしましょう」
なんかへんだぞと、ぼくはまた思った。でもかあさんは全く気にならないようで、大喜びでゆめかり草の種とキャットフ-ドを交換した。
そして、男が帰ると、さっそく種をまき、たっぷりと水をあげたのだった。
* * *
ゆめかり草は男の言ったとおり、ぐんぐん大きくなり、その週の土曜日にはうす紫のつぼみをつけた。
その日、ぼくはとうさんとかあさんと三人で、久しぶりに海に遊びに行く約束をしていた。なのに朝起きたら、とうさんは会社に出かけていなかった。かあさんが「ごめんね」と言った。
「急に仕事が入ったの、今日は花火いっぱい買ってきて花火大会をしよう。それで我慢してね」って。
……いつも、こうなんだから。
ぼくは無言で、学校のプール解放に出かけた。
帰り道も、ぼんやりしながら歩いていた。
「ゆうくんち、今夜は花火かい? さっきおかあさんがいっぱい買ってるの見かけたよ」
近所のおばさんが話しかけてきても、黙って通り過ぎてしまった。
先日の変な男とは別人の、でもやっぱり奇妙な男に呼び止められたのは、マンションの入口まで帰ってきたときだった。この暑い日にトレンチコートを着た男はポケットから1枚の写真を取り出して、僕に尋ねる。
「こんな男を見かけませんでしたか」
写真には、先週の押し売りが写っていた。
「この人、おじさんの兄弟かなにか?」
ぼくがそう思ったのは二人の雰囲気がなんとなく似ていたからだ。黒い髪に黒のサマーセーター。姿形はぜんぜん違う。でも、目の前の男もどこかで見たことがあるような、印象的な目をしていた。
「とんでもない、ぼくは探偵だよ。こいつは詐欺師でね、禁制のゆめかり草まで、誰かに売ってしまった悪党なんだ。早くつかまえないと大変なことになってしまう」
心臓がトクンと鳴った。
「大変なことって?」
「ゆめかり草の花は夢を食うんだ。夢を食いつくされた人間は心をなくしてしまう。だから花が咲く前に……、あっ君、どうしたの?」
男の話を最後まで聞かず、ぼくは走り出して、マンションの階段を駆けのぼった。
玄関のドアを開けると、げた箱の上にコンビニの袋が置いてあるのが見えた。中にはたくさんの花火が入っていた。
ぼくは袋を手に持つと、靴をぬぎすて、リビングにとびこんだ。
「かあさん!」
かあさんはそこに倒れていた。
ぼくの後を追いかけてきた男がその様子を見て、静かにぼくに話しかけた。
「まだ間に合うかもしれない。夢が消化されていなければ、ゆめかり草の花の中に君のおかあさんの姿が見えるはずだ」
テーブルの上には、見たことのないうす紫の花が咲いていた。ぼくは駆け寄って花の中をのぞきこんだ。
花の底は一面の花畑だった。花畑の中に誰かが立っているのが見えた。
かあさん?
もっとよく見ようと体をのりだした時、ぼくはバランスをくずし花の中に倒れ込んだ。
* * *
ぼくは空中を花畑に向かってまっさかさまに落ちていった。もうだめだと思ったとき、突然背中がムズムズした。次の瞬間、ぼくの背中には鳥のような羽がはえ、宙を飛んでいた。
「ゆめかり草の花の中では、夢見たことが現実になるのさ。ぼくが羽がはえるように念じたんだよ」
上空から、ぼくと同じくらいの年の、やはり翼を持った男の子が舞い降りてきた。
「ぼく、モモ太だよ。ゆうくんと話ができるように念じたから、今は人間の姿になっているんだ。まったく、ゆうくんったら誰でもすぐ信じてしまって。危なっかしくて見ていられないよ」
花畑の真ん中にふわりと着地すると、二人の羽はスッと消えた。
男の子は猫のモモ太と同じ三毛柄のTシャツを着、モモ太と同じ目をしていた。ぼくはあの二人の男達の目が誰に似ていたのかわかった。モモ太の目にそっくりだったんだ。
「とにかく、ゆうくん。ゆめかり草の見せる夢に気を許したらダメだよ。夢に取り込まれてしまうからね」
かあさんはやっぱり花畑の中にいた。色とりどりの花の観察に夢中になっていた。
「ゆうくん。すてきでしょう、この花畑。ここにあるのはみんな新種の花なの。こんな新種の花を育てるのがママの夢だったのよ」
かあさんの笑顔を見てぼくはほっとした。それから、やたらと腹が立ってきた。
「なんだい、こんな夢。ぜんぜんつまらないよ!」
ぼくは思わずそう叫んだ。すると、あんなにきれいだった花畑は瞬時に凍りつき、無彩色の世界に変わってしまった。そして、突然わいてきた霧に何もかもかき消された。
霧が晴れると、大きなログハウスが目の前に現れた。緑の芝生はきれいに刈られ、敷地を小川が流れていた。花壇には赤や黄色や白の花が咲き、小鳥の鳴き声がしていた。
これはとうさんの夢だとぼくは思った。かあさんが思いっきりガ-デニングができ、ぼくやモモ太がのびのび遊べる広い庭。一人に一つ部屋がある大きな家。この夢のためにとうさんは朝早くから夜遅くまで働いている。時には日曜日も忙しく、ぼくとの約束はあまり守られたためしがない。
しかも、なぜかそこにとうさんの姿はなかった。ぼくはとうさんをさがした。家の中も木の陰も。だけど、とうさんの姿はなかった。
ぼくはなんだかすごく寂しくなった。
「なんだい、こんな夢。ぜんぜんつまらないよ!」
ぼくがそう叫ぶと、また景色は凍りつき、霧にかき消されてしまった。
次に現れたのは海だった。真っ白な砂浜に波が寄せては返している。今日みんなで出かけるはずだった海……。
「海に来れるのなら、別に花火を買わなくてもよかったわね」
と、かあさんが言った。ぼくとモモ太は顔を見合わせた。花火の袋は、まだぼくがしっかりと手に持っていた。ぼく達は同時にとってもいいことを思いついた。
モモ太が砂浜に花火の持ち手をさしていく。ぼくがおまけの百円ライターで火をつける。
シュル シュル シュル。
砂浜に次々と色とりどりの炎の花が咲いていった。ぼくとモモ太は大はしゃぎ。花火がなくなると、欲しいと念じれば、いくらでも花火は出てきた。
煙がもうもうと立ち込めて目が痛くなる。しばらくすると、砂浜も海もぐにゃりぐにゃりとゆがみだした。何回目かに大きくゆがんで、景色はぼくの家のリビングに変わった。
* * *
いつもの見慣れたリビングだった。かあさんは、ほっとため息をついて、窓を開けた。探偵とゆめかり草は姿を消していた。
「今見ていたのは、夢だったのかしら。最初のお花畑は、私の夢みたい。ログハウスはおとうさんの夢……。じゃあ、海はゆうくんの夢だというわけ?」
ぼくは足元でぼくを見上げる、猫の姿に戻ったモモ太をそっと抱き上げた。
「ううん。そういうわけじゃないと思う。とうさんやかあさんの夢とぼくの夢は食い違っているから、夢かり草も混乱してしまったんだよ。きっとね」
「おかあさん、ゆうくんの夢って、改めて聞いたことなかったね。ゆうくんの夢って何?」
振り返ったかあさんの問いに、ぼくはちょっと驚いて、それからなんだか温かい気分になって、
「たぶん、そういった事をとうさんやかあさんと話をすることかな。いや、夢なんて難しいことじゃなくても、その日あったささいな事や、ぼくのちょっとした失敗や不安なんかを、とうさんやかあさんが聞いてくれて、時には笑い飛ばしたりしてくれる事が、ぼくの一番の夢なんだと思う」
「そうか……」
かあさんはそう言うと、軽く笑って、言葉を続けた。
「おかあさん、この頃ショーウインドーに飾ってあるような夢ばかり追いかけて、大事な事を忘れていたかもしれない。さっきゆうくんが来てくれなかったら、夢かり草に夢を食べられて、心がなくなってしまっても、そんな事にも気づかなかった気がするわ。案外、夢かり草に心を食べられたのに気付いていない人って、世の中にはたくさんいるのかもしれないわね」
ぼくは腕の中のモモ太に、小さな声で話しかけた。
「かあさんの言うように、夢を食べられた人って本当にいるのかい?」
モモ太はばくの目を見て「ニャア」と答えたが、ぼくにはそれが「そうだ」という意味なのか「違う」という意味なのか、もうわからなかった。
ただ、これからはベランダやリビングの観葉植物も、とうさんの残業も、少しは減るような予感がした。 空には白い三日月がまだ残っている。なんだか夢かり草の男が空の上で、ニカリとウインクしているようだった。