カーテン
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を抜くと、私はいっきに飲み干した。
もう夜中の一時を過ぎている。
一才になったばかりのコウヘイを連れ、実家に戻って二日目。
やっとコウヘイを寝かし付け、私は心も体もくたくただった。
「夜泣きなんかしたことのない子だったのに‥‥」
ビールは好きではなかったが、アルコールの助けを借りて、このまま朝までぐっすり眠りたかった。
それなのに、ふと祖母の部屋をのぞく気になったのは、話声が聞こえたように思ったからだ。
子供の時からいつも私の味方だった祖母。
でも、この家に戻ってきた日、祖母は日中も夢の中をさまよう人になっていた。
「もう長くないかもしれない」
母がそう言って涙ぐんでいたっけ。
そっとふすまを開けると、思いがけず部屋の中は明るかった。
祖母は敷布団の上できちんと正座し、私を見るとにっこり笑った。
「待っていたよ、お入り」
「おばあちゃん、起きたりしていいの?」
「おまえのことが心配でね。おまえ、家を出てきたんだね」
「だって、あんな冷たい人とは思わなかったもの。もう一緒に暮らせないわ」
「おまえは満月のような幸せだけが、本当の幸せだと思っているのかい。いつまでたっても子供だねぇ」
祖母は布団のわきの座布団をすすめると、すっと立ち上がって仏壇の写真を取り、私に手渡した。
すっかり元気になったんだと、驚き以上に喜びの気持ちが、私の中でふくれあがっていた。
「おじいちゃんだよ。おまえにはおじいちゃんのこと、何も話してなかったね」
セピアにあせた写真の中で、父よりずっと若い男の人が、生真面目な顔をしてじっとこちらを見つめていた。
祖父はまだ父が幼い頃、亡くなったとしか聞かされていない。
それから祖母が女手一つで父ら兄妹を育てあげたのだ。
「見合い結婚でね、若い時にはわからなかったけど、今は私の運命の人だったと言えるよ。お金にはルーズな人だったから、口げんかはよくしたね。でも、憎めない人だった。子ぼんのうな人で、子供は二人とも、とてもかわいがってくれた。おまえのお父さんは肩ぐるまが大好きでね、よくしてもらったもんだよ」
初めて聞く、祖父の姿。祖母は少し考えこむように言葉を切り、また話し続けた。
「それがある日突然血を吐いてね、お金もなかったし、大丈夫と病院へ行くのを延ばし延ばしにしているうち、にっちもさっちもいかなくなって、病院へ担ぎこまれた時はもう手遅れって言われた。おまえのお父さんが四つ、アカネはまだ一才だった。
私は手に職もなかったし、戦後の厳しい時代だったからね、あの人が死んだら私たちも後を追って死ぬしかないと思った。
だけど、いよいよダメだという時、あの人は苦しい息で、私に言ったんだよ。
(おまえは生きてくれ。生きて、生きて、おばあちゃんになるまで生きて、本当に死ななきゃならない時は、おれが必ず迎えに行くから)って。
それから何度も死にたい時はあったけど、その度にあの人の言葉を思い出した。あの人はまだ迎えに来ない。それは生きろということだ。あの人が生きていたらどうしていただろう、私になんて言っただろうっていつも考えていた。こんなおばあちゃんになるまでずっとね。
そうして一つ一つ乗り越えてきたんだよ。 運命の人でも、心と心をつなぐ糸がさびて切れてしまうことがある。糸がさびないように努力しないとね。そうは思わないかい?」
祖母の優しい目に見つめられて、私の心は少女のように素直になっていた。そう言えば夫の顔を見るたび、私は文句ばかり言っていたような気がする。二人とも笑うことを忘れて、どれくらいの時を過ごしただろうか。
「でも、おまえは大丈夫。最後には本当に大切なものに気づくだろうよ。だけど、あの人があんまり心配するもんだからね」
「あの人って誰のこと?」
「ほら、あそこに座っているじゃないか。ニコニコうなずきながら」
祖母の指さす場所には誰もいなかった。ただ夜風をはらんでカーテンが生き物のようにゆれていた。
その夜、祖母は祖父のもとへ永遠に旅立っていった。本当に祖父が祖母を迎えにきたのか、一缶のビールで酔って夢を見たのか、今となってはわからない。ただ私は、祖母の不幸を聞き付け、真っ先に駆けつけてくれた夫と、もう一度やり直そうと考えている。
窓辺のカーテンが風にゆれている。
祖父と祖母が寄り添いながら、私にうなずいている気がした。