ソラと夜の魚
トトオは黒い金魚だ。
三年前に縁日の金魚すくいで買ってきた時、トトオには五匹の赤い兄弟がいた。でも、他の兄弟はトトオほど丈夫でなく、先月、最後の兄弟が死んで、トトオは一匹きりになった。
そしてこの春休み、私達家族は新しい家に引っ越した。
新しい部屋の窓辺に置かれた、はやりの黒い水槽の中で、一匹だけの黒いトトオの姿はよく見えない。実際、時々私はトトオのことを忘れてしまう。トトオのことを、気にしているのは三毛猫のソラだけだ。
ソラはいつもトトオを狙っているから、私はちっとも油断できない。足場が悪そうな棚の上に水槽を置いても、いつのまにかソラはよじ上り、水槽の縁に手をかけていたりする。
その度、私はソラをぎゅっと抱きしめて、叱らなくてはいけなかった。
春休みの最後の日。散歩の帰り道、私はこっそり新しい小学校を見に行った。
明日からここで、私は一からスタ-トする。それは、テレビゲ-ムで主人公をリセットするのに似ていると、少しわくわくした。
だが、校門は固く閉じられていた。
(前の学校は休み中も門は開いていたのに)などと思いながら、私は門柱のすきまから顔を突っ込んで中の様子をうかがった。校内はシンと静まり返り、誰も見ない桜が花びらを散らしていた。なんだかあきらめ切れず、ガチャガチャと門扉を揺らしていた時、
「変な子。休み中は門は開かないよ。そんなことも知らないなんて、あんた、この学校の子じゃないだろう」
と、後ろから声がした。
声の主は、私より一回りも大きい、かっぷくのいい女の子だった。「変な子」と言われて私はかあっと頭に血が上ってしまった。
「私は・・・」
続く言葉が出てこない。自分の考えを言うことは、一番苦手なことだった。まして、知らない子相手に、何をどう言ったらいいんだろう。結局、私は突然駆け出して、その場を逃げだした。
走って走って、自分の部屋に駆け込むと、ソラがトトオの水槽をのぞき込んでいた。
「ソラ。トトオをいじめちゃダメでしょう」
私はソラを両腕で抱え上げると、ぎゅっと胸に抱きしめた。
次の日は、新しい学校の始業式だった。
「緊張しなくても大丈夫よ。クラスのみんなだって、クラス替えしたところだから、不安なのは一緒だもの」
そう言ってくれた四年一組の新しい担任の先生は、優しそうな女の先生で、私はちょっぴりホッとした。
前の学校で、私はひっこみじあんの目立たない子供だった。いつもおどおどしている私は、自分でも好きではなかった。
でも、この転校は、そんな自分をリセットできるチャンスなのだ。
先生が転校生の私を紹介する。元気よくはきはきと自己紹介をしようと、私があらかじめ考えていた言葉を言いかけた時、
「なんだ。あんた四年生だったんだ。小さいから、てっきり二年生くらいだと思っちゃった」
と、聞きおぼえのある大きな声がした。
ぎょっとして、前を見ると、昨日のかっぷくのいい女の子がにやにや笑っていた。
みんながドット笑い、私は上がってしまい、自己紹介は散々なことになってしまった。
(リセット、しそこなっちゃった)
思いっきり情けない気分で、指定された席に着く私に、隣の女の子が話しかけてきた。
「マサヨは口は悪いけど、根はいい子だから心配いらないよ。私、マイ。よろしくね」
「だからね、ソラ。新しいクラスは、マイちゃんとか、けっこう優しい子も多いんだけど、マサヨちゃんが怖いというか、私とは合わなくて困ってるんだよね」
自分の部屋でひざに抱いたソラに、私は話しかける。ソラをきゅっと抱きしめていると、ソラの小さくて規則正しい心臓の音に、私はちょっと優しい気分になれる。
ソラはじっと抱かれながら、部屋の一点を見つめている。ソラの視線の先には、トトオの水槽があった。
「あれっ?」
トトオの水槽に何か浮かんでいる。
「これ、目薬? 何でこんなところに目薬が浮かんでいるんだろう」
私はソラを床に下ろすと、水槽の中の目薬をつまみ上げた。
「なんだか、トトオの水槽の水かさが、増えているようにも思うけど、気のせいかな」
ソラが、私をチラリと見たようだった。トトオは黒い水槽のすみっこで、相変わらずじっとしていた。
数日後。その日は少し下校時間が遅くなった。新しいクラス委員がなかなか決まらず、 学級会が長引いたからだ。
なかなか、決まらなかったのは女子の学級委員と、美化委員だった。結局、学級委員にはマサヨが立候補した。新聞委員に決まったマイが、「美化委員、やりなよ」と私に目配せする。内気な私が、委員に立候補するなんて考えられなかった。でも、この転校を機にもっと明るく積極的な女の子に変わりたいと、私は願っていたんじゃなかったのだろうか。
私は思い切って、それこそ3階のこの教室の窓から飛び降りるくらいの気持ちで、美化委員に手を上げた。
すっかり舞い上がっている頭の片隅で、マイが私に笑いかけているのを感じた。美化のポスタ-を描いたり、掃除の点検表を作り集計したりするのは、なんとかできると思う。 問題はみんなの前で、意見を言うことだ。
家に帰る途中、あれこれ考えながら、児童公園に差しかかった時、私はベンチに見慣れた人影を見た。
マサヨが給食のパンを小猫にやっていた。
ふと顔を上げたマサヨと、しっかり目が合ってしまったので、私はその場を立ち去りがたくなった。
マサヨの後ろ側にある池の金網に、『のら犬やのら猫にエサをあげないでください』と書いたポスタ-が貼ってある。何気なく眺めていると、
「ばっかみたいだろ?」
と、マサヨが大きな声で言った。
「じゃあ、このポスタ-を書いた人が、この子の面倒、見てくれるって言うのかい? きれいなこと言っている間に、誰もエサをあげなければ、この子はすぐに死んじゃうんだ」
それから、私の方を見て、言葉を続けた。
「あんたは、猫好き?」
「うん。家でも飼ってる」
すると、マサヨはぱっと顔を明るくして、
「へえっ、いいなあ。あたしの家はマンションだから、動物は飼えないんだ」
と、ソラのことをあれこれ尋ねた。
私は隣に座って答えながら、ランドセルから残したパンを取り出して小猫にあげた。
ニカリと笑うマサヨは、全然怖くなかった。なぜマサヨを怖いなんて思ったんだろう。
「今日、あんた美化委員に立候補しただろう。ちょっとびっくりした。あんた、人前で話したりするの、苦手そうに思ってたから」
マサヨが急にぽつりと言った。
「うん。苦手だよ。でも、ずっと苦手なままでいくのも、苦手だなあと思って」
私の返事に、マサヨは大笑いして、言った。
「やっぱりあんた、変な子だわ。でもあたし、その考え方、嫌いじゃないよ」
足取り軽く、自分の部屋のドアを開けた時、ソラは両手を水槽の縁に乗せ、トトオをのぞき込んでいるところだった。なぜか、水槽からは水があふれ、床には水溜りができている。
「ソラ!」
その時、私の声に驚いたソラは手を滑らせて、頭から水槽に突っ込んだ。私はあわててソラの両脇をかかえ上げた。その拍子に、トトオも水槽から飛び出し、床の水溜りでピチピチ跳ねた。
今度は、両手でトトオをすくい上げる。
なぜかみるみる手の中に水が満ち、それはすぐにあふれるほどになった。
手のひらの水の中で、トトオが小さく跳ねると、ピリッと電気が走ったような気がした。
『トトオを抱きしめてあげて』
ふいに声が聞こえた。びしょびしょに濡れたソラが、青い瞳で私を見上げていた。
「ソラ?」
ソラは私の問い掛けには答えなかった。ただ堰をきったように、言葉ばかりがあふれてきた。
『だって、トトオは一人ぼっちでずっと泣いていたんだもの。トトオは目立たないし、水の中に住んでいるから誰もその涙に気がつかなくって、だからとても悲しくて、そのうち涙が止まらなくなってしまったんだ』
水槽の目薬。
増えている様に思った水かさ。
「そうだったんだ」
ソラだけトトオの涙に気づいていたんだ。
『トトオもきっと誰かに抱きしめてほしかったんだ。君が僕を抱きしめるように』
でも、手の中のトトオはガラス細工のようで、ちょっとでも力を入れたら、その命ごとつぶしてしまいそうだった。『夜の魚』のように、気づかれない寂しさを一番知っていたのは私のはずだったのに、実は私は何ひとつ気づいていなかったのだ。
こんなにすぐ側で、こんなに切なく、助けを求めている魂があった事に。まるで無責任に、自分のことだけに精一杯で。
私は缶ペンケ-スの中にあった筆記具を机の上にぶちまけると、水槽の水をはり、トトオをその中に放した。
トトオは少し窮屈そうに、でもおとなしく、その中に収まった。しかし、水かさはみるみる増え、すぐにあふれてしまいそうになる。私は、缶ペンケ-スを注意深く持つと、階段を駆け降り、玄関を飛び出した。
「抱きしめてあげるだけじゃ、きっとダメなんだよ」
トトオも涙の海から出て変わりたいと思っているのだ。私がずっと、そう思ってきたように。
「それに、きっと私はトトオが望んでいるようには、トトオを抱きしめてあげられない。トトオを抱きしめてあげられる者がいるとしたら、それは同じ水に住むお魚だけだよ」
学校の帰り道に通った公園が、さっきまでマサヨと座って話したベンチが、目の前に現れる。『のら犬やのら猫にエサをあげないでください』というポスタ-の貼られた金網をくるりと迂回すると、金網が手すりに変わり、池の噴水がよく見える場所に出た。
池の真中を、大きな錦鯉が悠々と泳いでいる。その少し離れた場所で、トトオのような小さな目立たない魚が、遠慮がちにひと固まりになって泳いでいるのが見えた。
『ねえ、どうするの? まさかこんな所にトトオを放すの?』
追いかけてきたソラが、私を見上げている。
『そんなのダメだよ。トトオは自分でエサなんか取ったことがないんだよ。あの大きな魚を見てよ。きっとトトオなんてひと飲みにしてしまうよ』
「だけど………」
もうあの水槽の中にもトトオは戻れないんだよと言おうとした時だった。それまでおとなしかったトトオが、突然パシャっと跳ねた。トトオはそのまま放物線を描いて落ちて行き、小さな水音とともに、池に飲み込まれた。
あわてて水の中をのぞき込んだが、黒い小さな魚は何匹もいて、どれがトトオなのかはもうわからなかった。
「きっと大丈夫。この池の中ではトトオはもう一人きりの『夜の魚』じゃないもの。抱きしめてくれる相手もきっと見つかるよ。ねえ、ソラ?」
ソラは「ニャア」としか答えなかった。
トトオがいなくなって、いきなり魔法がとけてしまったかのようだった。
ちらりとマサヨの顔が浮かんだ。
きっと彼女なら「その考え方、嫌いじゃないよ」と言ってくれる気がした。