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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

何度でも貴方を殺します。理由? 楽しいからですわ

作者: 満月丸
掲載日:2026/02/23

※流血・人体損壊の描写があります


 憎い相手を何度も殺せたら、どれだけ気持ちがいいだろうか。

 私は赤黒い本心を押し隠しながら、今日も淑女の香りを纏う。


「伯爵令嬢リシェル・ヴァルフェルト。お前との婚約を、ここに破棄する」


 アルベルト殿下、王家の第二王子であり、私の婚約者であるその人は、どこか軽い眼差しで言い放った。

 彼の父である王は見下ろし、謁見の間の背景がざわめくのに、殿下の言葉は透き通って響いている。


「かの公爵令嬢を貶め、嫉妬から罪を犯した。王宮からの追放刑に処す故、領地にて静かに暮らすがいい」


 安心させるように、優しく私へ眼差しを向ける殿下。心配はいらない、すぐに助け出して見せる、と、そう言わんばかり。


 嗚呼、その瞳を何度抉り取ってやろうと思ったことか。

 煮詰まった悪意が腹の底から溢れ出ようとするが、この身に纏う浄香が許しはしない。


「承知いたしました、殿下」


 口から出た声は、自分でも驚くほど澄んでいた。


 かつては愛していた。

 しかし今残っているのは、真っ赤な憎しみだけだった。



◇ ◇ ◇



 ヴァルフェルト家は、王宮御用達の調香師の家だ。

 空気を清め、人々の意識を整える。香水のような隠す匂いではなく、人の精神を引き締めたり鎮める、癒やしとしての香り。

 調香師として王宮へ来た私は殿下に見初められ、婚約者になった。


 しかし殿下は、私を見ない。

 私の言葉など受け止めず、ただ我慢しろとだけ命じる。私が行動を起こそうとすると、必ず先回りして止めに入る。

 余計なことはするな、と。

 今もそうだ、殿下の我儘で私が婚約者となったのに、こんな冤罪ごときを晴らすこともできずに唯々諾々と公爵家に従う。

 私が被る汚名に苛立つくせに、私の心を気にしていない。


 最初の頃は、信じていた。

 殿下が私を婚約者にしたのだから、少なくとも私の声くらいは拾ってくれると。

 父である伯爵とは不仲で、後ろ盾の弱い私は、王宮では格好の的だった。

 あからさまな態度があるわけではない、常に悪意に晒されるわけではない。


 私だけ招待状が届かない、開始時刻が私だけ違う、席順表に私の名だけがない。


 どれも些細で、立場の弱い私が声を荒げれば「過敏」になる種類のもの。失礼であるはずなのに、誰もそれに疑問の声を上げない。

 だから私は、一度だけ殿下に言った。助けてほしいと、礼儀を踏まえた貴族的な言い回しで。


「殿下。私……最近、少し怖いことがあったのです」


 殿下は書類から目を上げ、優しく眉を下げた。

 きっと、私の話を聞いてくれると、その表情に救われる気がして――


「大丈夫。すぐ慣れる」


 それで終わった。

 は、と口が開いて、音は出なかった。


 何が怖いのか、誰が何をしたのか、ひとつも訊かれない。

 私の『怖い』は殿下の中で『お前の気のせい』に丸められて消えた。

 でも、と私が続ければ、殿下は困ったように眉をひそめて言い放つ。


「我慢しろ。お前は賢いから、分かるよね?」


 そして殿下は、慰めるように私の手を取った。

 握る力は強くないのに、じっとりと確かめるように撫でられる。


「外の声なんて聞かなくていい。お前は僕の婚約者だ。僕の言う通りにしていれば、誰もお前を傷つけられない」


 ――守る、という言葉の形をした檻。

 私は笑って頷くしかなかった。


 ……そして茶会で私が恥をかいて、屈辱で震えるままに帰った後。


 殿下は私をサロンに呼び、何事もなかったかのように、銀の小皿を差し出した。

 上に乗っていたのは、色とりどりの菓子。殿下の手で甘い味わいが口に入れられ、喉の奥へ張り付くレモンの香りが満ちていく。


「今日はよく耐えたね、偉いぞ」


 ……幼子へ宣うようなそれに、褒められたのだと理解するまで、少し時間がかかった。

 殿下は満足そうに頷いて、私の髪を指先で撫でてから、砂糖より甘い声で囁く。


「そう、お前は賢い。ちゃんと我慢できる」


 私は淑女の微笑みを保ったが、胸の奥で何かが蠢いた。

 そのまま、殿下は細い鎖のチョーカーを取り出した。

 華奢な金属の輪に、小さな王家の紋章が下がっている。


「これを着けていれば、誰もお前に失礼な真似はできない」


 そう言って、殿下は私の首にそれを着けた。


「似合うよ。お前は本当に、僕の理想だ」


 殿下は私の頬を撫でる。

 冷たい金属が肌に触れて、小さく音が鳴った。


「外すのは禁止、無くしたら大変だからね。僕が、管理しているんだから」


 優しく、当然のように。私の尊厳を全否定する。

 鉄の香りに、微かな目眩がした。


 まるで、首輪みたいだと――仄暗く、思った。



 私は、彼の愛玩動物。

 彼を癒やすためだけの香りを作るペット、王子妃としての役目を期待されていない愚か者。

 そう理解するまで、さして時間は掛からなかった。



 一度だけ、父に手紙を書いたことがある。

 助けてほしい、とは書けなかった。代わりに、遠回しに状況を並べた。

 招待が届かないこと。侍女の不注意にされること。殿下が笑って済ませること。


 ――私が、少しずつ削られていること。


 返事は早かった。

 中身は短く、冷たく、いつもの伯爵家の文章で、

 読んだ私は、衝動的に手紙を破り捨てていた。


『王宮で恥を晒すな。お前は伯爵家の名を背負っている』


 それだけ。


 私は『娘』ではなく、『名札』なのだと理解した。


 助けを求める相手がどこにもいないのだと、拳を握って一人、耐えた。


 その夜、寝台の中で思った。

 私がどれだけ正しくても、私がどれだけ傷ついても、彼らには関係がない。

 私は、誰かの体面を保つために、静かに押さえつけられる。犬のように"待て"を命じられる。


 胸の奥で、黒いものが静かに香りを持った。

 絶望が熱を持って、血の匂いに変わっていくのが分かった。



 私は我慢した。

 淑女の鑑として、耐え抜いてきた。

 殿下の言う通りに、何も出来ずにただ黙って耐えた。



 ……だから、こうなるのは必然だった。



◇ ◇ ◇



 処断された私は馬車に押し込まれ、身一つで領地へ向かわされる。弁明も裁判もない、一方的な通告、王家の体裁のための生贄。

 窓の外、忌々しい王都が遠ざかっていく。

 それを眺めても、不思議と何の感情も抱かなかった。

 ただ、あの殿下が私を追いかけてくるのが確定していることに、気が滅入った。


 馬車が領地へ近づく頃、空が暗くなった。

 雨だ、自然はいつだって自由に顔色を変える。それが羨ましい。  


 ぬかるみが振動を大きくすると、不意に、馬車が大きく傾いた。

 ぐらりと傾く衝撃、馬の嘶き、護衛の叫び。

 視界が回転し、身体が宙に浮く。


 ……嫌な音が響いて、全身に衝撃が襲った。


 私は思った。ああ、これが終わりか、と。

 痛みが来るより先に、冷たい香りが胸を満たした。


 ――悔しい。

 ――許せない。

 ――私が何をした?


 最後に、殿下の顔が脳裏をよぎる。

 あの、気色悪い瞳。私を装飾品としてしか見ていない目。


 掠れた笑い声が、喉の奥からこぼれそうになった。

 血の匂いを感じながら、私は――


(……殺してやればよかった)


 その決意だけを握りしめて、血の中で闇が落ちた。



◇ ◇ ◇



 ――大きく、息を吸った。


 一つ、意識して吐いてから、私は目を開ける。

 自然、一筋の涙が眦から落ちていった。

 ここはどこ? ……と、心のどこかで呟く。


 天蓋付きの寝台、薄いカーテン越しの朝日。

 部屋の空気は夜会の香水よりずっと淡く、故郷の香りと同じく懐かしい。

 王宮の自室、私が唯一安らげる場所。


 寸前の記憶が、指先からほどけるように戻ってくる。


(……何故かわからないけど、理解できる)


 時間が巻き戻った。そう、夢のように確信できていた。


 心臓が、静かに高鳴った。それが恐怖なのか歓喜なのか、自分でももはやわからない。

 私はゆっくりと起き上がり、鏡台へ向かった。

 そこに映るのは、微笑み。無口で、おとなしい、我慢を礼節と勘違いした、淑女の微笑み。

 鏡台の上の紙片、今日のスケジュール表を一瞥し、"今"を確認する。


(冤罪で死ぬ少し前かしら。確か、殿下と公爵令嬢に会う日)


 私を蔑ろにした殿下、横柄で、自己愛が深く、いつも「お前のためだ」と私に強要する。

 そして私に冤罪を掛け、蹴落として王子妃の座を得ようとした令嬢。


 ふわり、と、香りが一つ、浮かんだ気がした。


 何故巻き戻ったのか、そんなことはどうでもいい。誰の意思なのか、私に何を求めているかも、知ったことではない。


 これは、機会だ。現状を変える、チャンス。

 既に一度死んだ身、何を恐れる必要があろうか。

 どうせ、私の死を本当に悲しむ人間なんて、どこにも居ないのだから。


 侍女が入り、私の姿に驚いてから淡々と身だしなみを整える。


「ヴァルフェルト伯爵閣下よりお手紙が届いております」

「見せて」


 月一で届けられる定期報告。トレーの上の封筒を手に取り、シトラスの香りを感じてから、中身を読む。

 事務的な内容、簡素な文章。伯爵家の恥にならぬよう心得ろ、という文言。

 それに、笑ってしまう。

 母が死んでから、父は私を避けている。おそらく憎んですらいる。だから娘を道具扱い出来るし、興味を示さない。私の様子を見にすら来ない。

 だから、私は軽んじられた。否、今現在も軽んじられている。

 王子妃なのに侍女が一人だけで、装飾品も必要最低限しか与えられない。

 殿下はそれを気にもしない、最低限の装飾があるのだからいいだろう、と宣う。


 嗚呼、忌々しい。


 手紙を放り、準備を終えた私は殿下の元へと向かう。



◇ ◇ ◇



 自身で調香した香りが満ちるサロンで、いつものように待っていれば、扉が開く。

 入ってきたのは、アルベルト殿下。精悍な姿の印象通り、王宮の政治も外交も、そつなく回す有能さが全身から滲んでいる。


 それなのに。目が合った瞬間、肌が粟立った。

 視線が、全身を這い回ってくるのだ。

 出来のいい人形を眺めるみたいに、値踏みして、満足して――。


「おはよう、リシェル」


 完璧な微笑みなのに、声は酷くねっとりしていた。


「お前は朝が弱いから心配していたよ。僕と会うから緊張して眠れなかった?」


 私は遅刻など一度もしたことがないのに、そう侮辱を宣う。

 それは心配ではなく、“自分がリシェルの中心である”という前提の確認。

 無自覚なマウント。


「いえ、殿下。お気遣い痛み入ります」

「うん。お前はそうでなくちゃ。僕の婚約者は、どこに出しても恥ずかしくない完璧さが必要だから」


 その言葉の言外に含まれるのは、ひとつだけ。


 "お前は、僕の飾りとしての価値しかない"


 私は微笑みを深くする。

 この男は、有能で、周囲の信頼も厚い。

 だからこそ、実家を頼れない私には逃げ場がない。


(気持ち悪い)


 殺してやりたいと、心底から思った。


 そこで応接室の空気が、ふっと柔らかくなった。

 公爵令嬢が、白に近い淡い色のドレスで現れたのだ。

 スズランの香り、しかし何かが混じった鼻につく香り。


 流石は公爵令嬢と言うべきか、挨拶の後の殿下への受け答えも見事なものだった。

 だからか、殿下は私を軽んじるように言い放つ。


「リシェルも、彼女を見習うといい。彼女は誰かのために動くことができる有能な人物だから」


 ――誰かのため


 それは、“リシェルのため”と聞こえるように言っているが、実際は“自分のため”。

 自己愛の化身である、この男らしい物言い。

 私は微笑んだまま、公爵令嬢を見返した。


「ええ。精進いたしますわ」


 公爵令嬢は、ほんの一瞬だけ口角を上げた。

 スズランの中の匂いが、明確に異臭となって鼻に掛かった。


 あれは、嘲笑だ。


 殿下は気づかない。気づけない。

 だって彼は、世界が自分を中心に回っていると信じている。自分は愛されて当然だと、信じ切っている。だから、私という他人への、公爵令嬢の悪意に気づかない。


 その笑みを見て、私は良いことを思いついたように、内心で呟いた。


(殺しましょう、二人とも)


 淑女の微笑みの下で、私は決めた。



 ……初めて、自身から鉄の匂いが漂った気がした。



◇ ◇ ◇



 私は動いた。一度目の死で起こったことを起点に、公爵令嬢の信用を失墜させた。


 殿下は、私へ愛着を持っている。ペットへの愛着だが、確かな感情だ。だから、公爵令嬢の根回しを逆手に取って、私への冤罪告発の場を逆に利用して、公爵令嬢の仕業だと判明させてやった。

 両者の言い分の間で、殿下は私を信じた。

 公爵令嬢の絶望に沈む顔を前にして、初めて溜飲が下がった気がした。


 彼女の処遇が決まり、処刑という重い罪が発表された夜、彼は私の手を取った。


「愛しいリシェル、これでもうお前を煩わせる敵はいない」


 その敵にまんまと騙された勘違い男は、無様な勘違いを続ける。


「これで、もう誰もお前を傷つけない」


 甘い香り、素敵な香り、


 鼻につく腐敗臭のような、香り。

 

「僕が守ってやったから、お前はもう何も心配しなくていい。そうだ、もう二度とこんなことが起こらないよう、部屋を移動させて僕の部屋の隣にさせよう。いつでもお前の元へ駆けつけられるように」


 その言葉の裏に、私の意志はどこにもない。

 私の境遇を知っていたくせに、我慢しろとなじったくせに、今更になって媚を売り始める。

 否、管理しようとしている。

 ペットが傷つけられたから、首輪を着けて、柵の中で飼うつもりなのだ。


 私は微笑んだ。


「ありがとうございます、殿下」


 殿下の瞳が蕩けた。

 自分に酔い切った、初恋を拗らせた少年のような目で、私を見つめてくる。


「リシェル。僕は……ずっと、お前だけを愛していた」


 知っている。

 貴方が私を好きだったことも、冷たくしたのも、犬のように"待て"と我慢させたのも全て、拗れた子供のような独占欲だった、と、知っていたけれど。

 もう、私の心は擦り切れていた。


 彼は私を抱き寄せ、私の首の鎖を、確かめるように撫でた。


「お前はもう、僕だけを見ていればいい。二度と、外なんて出なくていいんだ。全て、僕がやるから」


 粘着質な腐敗臭が、一層強く漂った。

 まるで私へ、その匂いを移そうとしているかのように。


 私は、ぼんやりと思った。


 この人は、私を救えない。


 父も。

 殿下も。

 誰も、私を救えない。


 それは最後の、仄かな絶望だった。


「殿下」

「なんだい?」


 私は、ふわりと香るように、心から笑った。

 それを見た彼は、思わず目を見開いて、


「貴方のこと、大嫌いですわ」


 殿下の表情が止まる。


「……何を」

「我慢しろと言った貴方が、見て見ぬふりをした貴方が、私を消費して、犬のようについてくる姿に満足していた貴方が、心の底から大嫌い。私を愛玩動物あつかいして、愛でるだけの人形に貶そうとしている貴方が、怖気が走るほどに大嫌い」


 殿下の瞳が大きく揺れて、微かに涙の膜が張った。

 それを目にして、初めて思う。


 ……嗚呼、綺麗。


「リシェル、違う。僕はお前を――」


「死んでしまえ」


 そして私は身を翻し、懐から小さな刃を取り出して、自身の喉へと突きつける。

 きっとこれが、一番この男が傷つく方法だ。

 殿下が震えるように叫んだ。まるで警笛のように。


「やめろ、やめろリシェル!!」


 刃が、喉に触れる。

 殿下の叫びが、遠くなる。


 強烈な激痛が全身を駆け巡り、首から吹きこぼれる血の温かさに、口端を歪めた。

 首元の鎖が、血の重みで皮膚に張り付く。

 倒れる身体、迫る床、こちらへ手を伸ばす殿下の姿。


 そして甘ったるい、鉄の香り。


(もしまた、次があれば)


(次は、もっと上手に殺そう)


 そして意識が、闇に沈む。



 ◇ ◇ ◇



 ――目を開ける。


 天蓋付きの寝台に横たわる自分、見上げるのは見慣れた天井。

 喉に触れて、そこに傷はないことを確認する。

 しかし、指に鎖の感触が落ちた。


 ゆっくりとベッドから起き上がり、裸足のまま鏡台へと近づく。

 鏡越しに、私を見る。

 そこに居たのは、傷一つ無い自分。

 けれども、漂う香りには、微かな異物があった。


 胸が、どくん、と鳴った。


(……また、戻った?)


 鏡台にはスケジュール表、殿下と公爵令嬢との対談。


 私はゆっくりと、笑みを作る。

 鏡の中の私は、昨日と同じ顔、無口で、おとなしい伯爵令嬢。

 それが今、歪んだ笑みを貼り付けていた。


(何度でも)


 私は立ち上がる。


(何度でも、殺せる)


 殿下を。

 壊して、追い詰めて、何度でも殺せる。

 だって、私が死ねば、全て戻るのだから。

 

 サロンの扉が開かれれば、殿下がそこにいた。

 まだ何も知らない顔で、笑みを浮かべて私を眺める。

 まるで、ペットの調子を見るかのように、ねっとりと香る、腐敗臭。


「おはよう、リシェル」


 私は、淑女の微笑みで答える。


「おはようございます、殿下」


 公爵令嬢はもう、どうでもいい。邪魔だから破滅させるけど、既に溜飲は下がっている。

 私を長らく苦しめ続けた男、私の尊厳を一つ残らず奪おうとしている、この男。

 こいつだけは、まだ許せない。


(今度は、どうやって殺そうかしら)


 喉の奥から、笑いがこぼれそうになる。

 世界の香りに、鉄が混じる。


 何度でも、何度でも、


 何度でも何度でも何度でも殺せるなんて――



 ――嗚呼、なんて素敵!



◇ ◇ ◇



 最初は、まだ礼節は保っていた。


 微笑んで、礼を尽くして、言葉を選んで、殿下へ相応しい態度を心がけた。

 公爵令嬢の足元をすくうのも、殿下の面子を潰すのも、貴族的な手順で行った。

 けれども、だんだんと面倒になっていった。

 だって、死ねば戻ってしまうから。 


 喉に刃を入れても、階段から落ちても、冷たい水に沈んでも。


 目を開ければ、同じ朝、同じ回廊、同じ殿下の、同じ顔。

 そして王宮の嗅ぎ慣れた、艶やかな同じ香り。


 繰り返すたび、私の中の良心が薄くなった。

 薄くなるたび、代わりに何かが濃くなった。


 ――それは、まさに甘露の如く。


 「次はどうしよう」と考える時間が、破滅的に甘く。

 殿下の顔が歪む瞬間は、たまらない蜜の香りで。

 心を満たす唯一の快楽、彼が苦しむ姿はまさに悦楽。

 世界に、血の匂いが徐々に満ちていく。


 最初の数回は、殿下の心だけを殺した。

 目の前で他の令息の名を呼んでみせる。親しげに、好意を持っているかのように陶酔の眼差しを見せてから、殿下に向き直って作り笑顔を向ける。

 彼の眼前で婚約指輪を外し、床に捨てる。まったく未練が無いかのように優しく微笑む。

 彼が優しく触れた手を、布で拭って「汚い」と囁く。きっと顔には、亀裂が走ったような笑みが浮かんでいた。

 殿下は怒り、困惑し、私を責めた。


「どうしてそんなことを言う」

「僕が何をした」

「リシェル、落ち着け」

「お前はそんな人間ではないはずだ」

「僕を愛していた筈だろう?」 


 的外れの指摘、必死に縋る愚かな情愛。

 彼は有能だから、私を傷つけることはしなかった。ただ、彼の香りに異物が混じっていく。鼻が曲がりそうな腐敗臭から、徐々に侵食するようにタバコのような枯れた匂いが。

 だから私は、やさしい声で言う。


「殿下。大丈夫、貴方を捨てませんわ」


 その瞬間、殿下の顔がほっと緩む。

 その緩みが、私を更に気持ち悪くさせた。


 ――だから次は、もっと壊した。鉄の香りが際立つように。


 殿下が『正義』に酔えるように舞台を整えて、最後にそれを裏返す。公爵令嬢を断罪したその口で、殿下自身が『悪』に見えるように鏡を置く。彼の味方を増やして、味方が自分を裏切る瞬間を見せつける。

 広がる香りは、まさしく脳が溶けるほどに甘ったるい。


「僕は間違っていない!」

「お前のためだ……」

「お前は僕の婚約者だろう……!!」


 そのたび私は、微笑んだ。

 彼の正義なんて結局は、ちっぽけな物でしかなかった。


 そして調香は、更に鉄の香りが深まっていく。


 泣きながら殿下に抱きついて、次の瞬間に笑って罵倒する。

 「好き」と言って、すぐ後で「嘘」と言い放つ。

 目の前でわざと倒れて、彼が膝をついた瞬間だけ穏やかに微笑んだ。


 殿下は、喜びと恐怖を同時に覚え始めた。

 私に優しくされると、顔が緩む。

 私が本当に笑うと、肩が震える。

 私は、その震えが好きだった。彼の香りがいっそう、際立っていくから。

 繰り返すうちに、自分の言葉を整えるのもやめた。

 香りを隠す礼儀の皮が剥げていく、淑女の微笑みだけが残って、醜悪な香りが露になる。

 私はとうとう、殿下の前で口にした。


「殿下。私、貴方を殺したいの」


 殿下の瞳が凍った。

 それでも彼は、縋るように言った。


「冗談だろう? お前はそんな――」

「冗談ではないわ」


 私の声は静かだった。静かに、相手の唇に指を寄せた。

 部屋に充満する、甘くて鉄臭い腐敗の香りが、私たちにとても合っている。


「貴方が私に我慢しろと言った日から、ずっと。私を蔑ろにし続けた分まで、延々と」


 殿下は唇を震わせた。

 何かを言いかけ、言えないままに止まる。


「貴方を、殺したかった」



 嗚呼、その顔、なんて美しいのかしら――!!



◇ ◇ ◇



 そこから、私の復讐は方法を選ばなくなった。

 上品さも、体裁も、どうでもよくなった。

 殿下の書類をひっくり返し、護衛の前で頬を叩き、跪かせ、泣くまで褒め続けた。


「殿下は素晴らしい」

「殿下は正しい」

「殿下だけが私の世界!」

「殿下、この世界で唯一愛しい御方」


 そう言って、首の鎖を握りしめながら、最後にこう付け足す。


「――だから壊したいの」


 私の気が狂った、と一室に幽閉されても、私は止めなかった。

 時には自分の指を切り取って、殿下に愛の証だと言って送りつける。

 痛みよりも想像した快楽が上回り、周囲の喧騒よりも楽しみの方が勝った。


 殿下の心は、どんどん擦り切れていく。私へ怒鳴ることも、命じることも、できなくなった。

 できるのは、見つめることだけ。

 濡れた犬みたいな目で、私を見つめる。

 私はそれを見て、ますます笑みが深まる。


 そして最後の"調香"へと向かう。


 殿下の自室は、鮮血に塗れている。

 結婚し、初夜を迎えたこの夜に、私は鍵を掛けてからナイフを手に殿下を刺した。

 胴を刺されて蹲る彼は、痛みに呻いて私を見上げる。

 私はその前に立ち、恍惚とした笑みを浮かべて見下ろす。

 淑女の微笑みではない。もっと剥き出しの、熱のある笑み。喉の奥から、笑いが溢れて止まらない。

 部屋中に甘ったるい、血の匂いが満ちている。


「ねえ、殿下」


 殿下の顔が歪む。

 そこにあるのは、理解と絶望だった。

 

 ええそうよ、そうなの。

 私はとっくの昔に、壊れていたのよ。

 殿下、貴方のせいで。貴方が私を侮辱し続けたせいで。


「この世界で、貴方を何度も何度も殺せるなんて素敵だわ!」


 まるで結婚式場の教会のように、声が響いて散っていく。

 殿下の瞳が揺れ、崩れ、濡れて、水滴が落ちる。


「やめてくれ……」


 それはもはや命令でも正義でもない、ただの懇願。私をペットとして扱った男の、無様な哀願。


 嗚呼、胃の底が甘く痺れる。

 なんという、目眩がする程の素敵な香り……。


「ねえ、殿下。次はどうしようかしら?」


 指先で刃を弄ぶ。殿下の血が指先に付いて、ついでに自分の指を切った。


「火にする? 水にする? それとも――貴方が一番嫌いなやり方にする?」


 殿下は首を振る。泣きながら、血塗れのまま。

 だから私は、そうする事にした。


「大丈夫」


 優しい声。あの頃と同じ声。

 そして続けるのは、血の匂いに塗れた赤い笑い。


「私が死ねば、また戻るから」


 殿下の顔が、真っ白になった。

 私は最後に、心から笑う。


「大嫌い」


 殿下の香りが、血の香りに沈んだ。

 私はその匂いを抱きしめるように、恍惚のまま、刃を喉元に当てて、


 無造作に、掻き切る。


 痛みすら、もはやない。

 殿下が叫び、手を伸ばす。

 でも刺された彼の腕では、私に届かない。


 鉄錆の香りに包まれながら、笑って言った。


「またね」


 世界が暗転する直前、私の笑い声だけが最後まで残って、そして――



◇ ◇ ◇



 眼前から血の匂いがする。

 床に広がる赤黒い色が、カーペットの赤を汚している。


 彼女は最後まで笑っていた、恍惚の笑みで、壊れた玩具みたいに、楽しそうに。


『貴方を何度も何度も殺せるなんて素敵だわ!』


 その叫びが、まだ耳の内側で反響している。

 僕の鼓膜に、僕の脳に、僕の心臓に、釘みたいに打ち込まれている。

 彼女は、微笑んだ。あの淑女の微笑みを、一瞬だけ取り戻して。

 それが余計に残酷だった。


 僕は、女同士の争いを軽く見た。

 陰口や無視や視線の刃を、取るに足らないものだと笑った。

 少しばかりの嫌がらせなど、気にすべきじゃないと言い放った。


『我慢しろ。お前は賢いから分かるよね?』


 彼女の心を推し量らず、ただ面倒だからと切り捨てた。

 彼女の笑顔が作り物になったのはきっと、あれからだった。



 あの夜。

 公爵令嬢の暗躍によって彼女は断罪され、一時的な避難として領地へ返すことにした夜。

 領地へ向かう馬車で事故が起こり、彼女は意識不明の重体となった。


 領地へ運ばれた彼女を見舞いに行って、僕は言葉を失った。

 白い寝台に横たわる彼女の顔は、真っ白で、まるで死人のように静かだった。いつもの甘く爽やかな香りなどなく、病人特有の薬の匂いで満ちていた。

 あの微笑みを浮かべはしない、僕が呼んでも返事をしない。

 それに、僕は狂ったようだ。


 時間稼ぎだった断罪を経て、公爵令嬢の不正を明るみにして、彼女の名誉を回復させた。

 そしてそのまま、僕は王宮の宝物庫へと入り込んでいた。


 王家の秘宝、"幻心鏡"。

 人の心を鏡に閉じ込めて、現実と同じ幻想世界で暮らせる秘宝。

 触れてはいけないもの、代々の王が、禁じてきたもの。


 僕はそれを、手にした。


 ――彼女を取り戻すために。

 ――彼女の心を、僕の手の中に戻すために。


 現実に近い、偽物の世界でなら。

 死にかけている彼女の心を映し出し、そこに入った僕と共に永遠の世界で愛し合える。

 そう信じて、僕は彼女のことを願いながら、鏡を覗き込んだ。




 僕は、愚かだった。

 こんなにも憎まれていただなんて、気づいてすらいなかった。


 この世界で、僕は自由に行動できない。

 だってこの世界は彼女の心の世界だから、僕に選択肢はほとんどなかった。


 彼女は何度も何度も、僕を傷つけた。

 そのたびに世界は巻き戻った。

 彼女の傷は消え、血の匂いは消え、僕の絶望だけが積み上がった。


 最初は、耐えられると思った。

 彼女が怒っているなら、当然だ。僕が壊したのだから、当然だ。

 だから壊れた彼女が満足するまで、僕は罰を受けようと思った。

 でも彼女は、


 彼女は――楽しんでいた。


 憎悪が快楽に変わっていくのを、僕は見た。

 甘い香りが血の匂いに変わるのを、僕は感じた。


 僕が見たかったのは、彼女の心からの笑顔だった。

 でも僕が見せられたのは、僕を殺す彼女の笑顔だった。


 僕が許されるのは、目の前を感じることだけ。

 彼女が壊れていく過程を。僕が壊した結果を。

 僕の罪が調香した、その匂いを。


 喉の奥から、嗚咽が漏れた。


「……頼む。もう、やめてくれ」


 僕が望んだ世界が、僕の心を食べている。

 かつての僕の自己愛が、今まさに僕の首を締めている。


 最初から、耐えられるはずがなかった。

 愛した相手に、殺したいほど憎まれて、そして擬似的に何度も殺されるなんて。

 ……耐えられるはずが、なかったんだ。


 僕は、この檻を終わらせる方法だけは知っている。

 でも手を離した瞬間、彼女はどうなる? 眠りの中で、彼女の心はどこへ行く?


 そんなことは、もう考えられない。

 ただ、終わらせたかった。


 視界が白くなる。

 秘宝の中心が、冷たく脈打つ感覚。

 僕はそれを掴んで、現実へ戻るために、細い鎖を引き千切った。





 次の瞬間、息が喉に刺さった。

 悍ましい血の匂いが張り付いて、肺が更に引き攣れた。 


 人気(ひとけ)のない宝物庫、そして僕の傍の地面に、黙した鏡が転がっている。

 指が痙攣している、呼吸が苦しい、涙の跡で、頬が冷たい。


 冷たい現実に、僕は笑った。


 戻った。

 戻ってしまった。

 戻ってしまった以上、もう逃げられはしない。

 僕は彼女を眠らせたまま、ここにいる。彼女を見捨てて、ここにいる。

 そして彼女の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。


『貴方を、殺したい――』


 僕の心臓が、ひくりと跳ねた。血の匂いが満ちて胃が捻れ、吐き気が込み上げる。

 もはや耐えられない。何もかも見たくない。


 僕は震える手で、壁に掛けられた短剣を取った。

 鈍いそれを、自分の首に当てる。無意識に、涙が溢れていた。


「……ごめん」


 何を謝ったのか、自分でも分からない。


「ごめん……」


 僕は、目を閉じた。


 嗚呼、匂いがする。

 切っ先が沈む直前、最後に見えたのは、彼女の、笑顔。



 僕を見下ろす、あの血のような鉄錆の笑みが――



◇ ◇ ◇



 目を開けた瞬間、世界は明るすぎて眩しくて、思わず瞳を眇めていた。


 見慣れた天井に、薄いカーテン越しの春の光。窓の外で呑気に小鳥が鳴いている。

 聞き慣れた、けれども王宮では長らく聞いていなかった気配。

 香る匂いは、穏やかで嗅ぎ慣れた、故郷の色。


 ――静かだ。


 無意識で、首に触れる。そこにはもう、何も無い。鉄の匂いはしない。


 それがどこか、寂しかった。


「……リシェル様?」


 誰かの声がして振り返る。

 部屋に入ってきていたのは、侍女だった。生家での、わたし付きの侍女。

 彼女は目を丸くしてから、次の瞬間には涙をこぼしていた。


「……っ、よかった……! 本当に……!」


 わたしは驚いた。泣かれる理由が分からなくて、同時に現状も分からないことに気がつく。

 わたしは何をしていた? どこにいた? どうしてここに? どれくらい眠っていた?

 でも、目の前で泣き崩れる侍女が気になって、枯れた喉を動かした。


「……あなた、大丈夫?」


 思ったより明るい声が出て、まるで自分じゃないみたいだった。

 侍女は涙を拭い、何度も何度も頷いた。


「はい……はい、すぐに旦那様に……! お医者様にもご連絡を……!」


 侍女が叫びながら部屋を飛び出して、また静かになる。

 ぽつん、と取り残された私は、ベッドの上で思った。

 胸の奥が、変。痛くない、苦しくない、ただ、ひどく軽い。

 長い間、重いものを抱えていたはずなのに、今はそれがこれっぽっちもない。


 わたしは自分の手を見た。

 誰かに大切に扱われた手。

 でも、この手で何をしたのか、分からない。


 わたしは、何をしていたんだっけ?


 物思いに耽る中、甲高い足音が幾つも響いた。


「リシェル――!」


 飛び込んできたのは父だった。以前と違う、浄香のような爽やかな匂い。

 髪に白いものが増え、目の下が深く落ち、必死の顔で私を見つめてから、涙を一筋零した。

 それだけで分かった。

 この人は、王子妃ではなくわたしを、"リシェル"を心配していた。

 父はわたしの枕元まで来て、膝をつき、わたしの手を握った。強く、痛いほど。


「……すまない、本当にすまなかったっ……!」


 掠れた謝罪の声。

 わたしは、ぼんやりと父を見つめた。

 何を謝っているのか、さっぱり分からない。


「……お父様?」

「……ああ。そうだ。お前のお父様だ」


 泣いている父を見て、わたしは困った。

 どう慰めればいいのか分からない。

 代わりに、思ったことをそのまま言った。


「……痛い」


 父がはっとして手を離す。


「す、すまない……!」


 わたしは手をさすりながら、少し首を傾げた。


「お父様、わたし……どれくらい寝てたの?」


 父の顔が固まって、それからゆっくりと口が動く。


「一年だ」


 一年。

 数字は理解できた。でも、その一年の重みに、実感が湧かない。

 父は震える声で続けた。


「事故のあと、お前は……ずっと昏睡状態だった。医者は、目覚めない可能性も――」


 事故。

 その単語が頭の奥で小さく鳴って、反復のように呟く。


「事故……」

「ああ。帰郷の途中で、馬車が横転して……」


 言われるが、何も思い出せない。

 まるで、最初から存在しなかったみたいに。


 父が、恐る恐る言った。


「……それと、あの断罪劇のことだが」


「……だんざい? って、何?」


 父の顔色が変わった。

 まさか、記憶が……と呟いてから、尋ねてくる。

 

「……婚約のことは?」


 婚約。


 誰と?


 分からない。

 でも、分からないことに、恐怖が湧かない。

 ただ、他人事みたいに遠い話のようだった。


 父は目を伏せ、声を絞り出した。


「……公爵令嬢は罰せられた。そして、殿下は……亡くなられた」


 殿下。

 公爵令嬢。

 覚えのない単語の羅列。

 けれども香るのは、仄かな鉄の匂い。


「……誰だっけ?」


 声に出した瞬間、父の目が大きく揺れた。

 悲しみと、救いと、後悔が混ざったような目だった。

 その視線が居た堪れなくて、空気を変えるようにわたしは言った。


「ねえ、お父様。わたし、……王宮、向いてないと思う」


 我慢ばかりしていた自分でも不思議なくらい、はっきり言えた。


「……そうか」

「それに、お父様のこと……たぶん、わたし嫌い」


 父の顔が、真っ白になった。

 わたしは驚いた。自分がそんなことを言うと思っていなかったのに、口が勝手に動いた。

 でも、嫌悪ではない。ただ、距離を取りたい感じ。

 父は息を吸い、吐いてから、震える声で頷いた。


「……すまない」


 その謝罪が、もう一度落ちる。

 わたしは肩を竦めて受け取った。


「うん。いいよ」


 言ってから、自分で目を丸くして、違和感に小首を傾げる。

 「いいよ」なんて、こんな軽い言い方――わたし、使ってたっけ?


 父が声を殺して泣いている。

 わたしは泣かなかった。

 泣くべき理由が心のどこにもなくて、何も無かったかのようにさっぱりしていた。


 窓の外で鳥が鳴いて、風がカーテンを揺らす。

 それを見ていたわたしは、ふと脳裏で小さく呟いた。


(……殿下って、誰だっけ)


 顔も、声も、名前も、思い出そうとしても、何も浮かばない。

 空っぽで、肩の荷が降りたように軽い。無臭のように、ただ軽い。

 わたしは、その軽さのまま微笑んだ。


 生きている。

 それだけで、もう十分だと思った。



◇ ◇ ◇



 ああ、忘れたのね。辛かった王宮の全てを。


 よかった、壊れたままでは、生きづらいもの。

 あの血も、笑いも、喉を裂く感触も、鉄錆の香りも。

 この首にぶら下がっている千切れた鎖も。

 全部、私が預かっておくわ。

 貴方は、明るく笑っていればいい。何も知らない香りの中で、生きていけばいい。

 幸せになれるわ、だって、私は何もしていないのだから。


 でも、


 もしまた、必要になったら。

 もしまた、貴方を傷つける誰かが現れたら。


 そのときは、呼んで。

 ちゃんと香りのように、出てきてあげる。


 次は、もっと上手に、もっと優雅に。

 社交ダンスのように、音楽に合わせて一歩ずつ"壊す"から。


 壊すのは、得意なの。



 ――心の奥で、気配だけがくすりと笑った。



 おやすみ、またね。


 "私"が必要になる、その日まで。






ゆるい登場人物設定:(読後感が薄れます)


リシェル:

 元来、かなり気が強く荒々しい性格をしていたが、家族の不仲と淑女教育によってその気性を隠して生きていた。王子の溺愛という愛玩動物あつかいに内心でブチ切れかますレベルでプライドが高く、何年掛けてでも相手へやり返そうとするほど根に持つタイプだった。

 精神世界だと無意識で理解していたので「じゃあ好きにやっていいわね!」と好き放題やった結果、タガが外れて猟奇大好きドSの女王様という性癖に目覚めてしまった。なんという事をしてくれたのでしょう。

 精神世界での耐久レースで王子に勝ち、支配という鎖をブチ切って彼女は自由を謳歌する。人格が分離したのは精神の防衛機能なのか、それとも秘宝の後遺症なのかは、神のみぞ知る。

 現実側では何もしていないので、"わたし"は幸せになるだろう。

 彼女の前に"敵"が現れさえしなければ、だが。



アルベルト殿下:

 仕事はできるのに人の心がわからないタイプの、"理想の彼女"というペットを求める俺様王子。相手が依存型だったらスパダリになっていたのかもしれないが、お相手が潜在的女王様だったので破局した。

 愛した相手へ一途にはなれるのだが、支配型の執着タイプというヤンデレ気質なので家族や一般人からはドン引きされている。家族にやめろと言われていたが、貴族女性へ外すなと言ってチョーカーを贈ることの意味はまったく理解できていない。妄想拗らせてるナルシストなので「理想じゃなくて私を見て」タイプのリシェルとは徹底的に反りが合わないのは当然であった。

 リシェルの狂気に呑まれた結果、彼女を救うことから逃げ出して自ら命を断つ。お前が始めた物語だろ。



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