第4話:絆の代償
海斗のハンカチが消えた翌日から、僕の家の空気はさらに重くなっていた。
夕食の席、母は僕の食事の介助に追われ、母の再婚相手である父は幼い弟と妹の世話に奔走している。 「……お兄ちゃんばっかり。僕の宿題も見てよ」
不意に漏れた弟の不満に、食卓が凍りつく。母の申し訳なさそうな顔と、自分に向けられる純粋な「羨望」が入り混じった弟の視線。僕は、自分が家族の時間を奪っているという負い目に、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
(……僕は、誰かに何かを返せているんだろうか。迷惑をかけるばかりで、何も……)
翌日、僕は学校の廊下で凛に呼び止められた。彼女の視線は、昨日海斗のハンカチを飲み込んだ、あの板張りの床に注がれている。 「海斗、笑わない。……山にお願い、する。海斗の大事、返してって」
凛は、自分の作ったお菓子がきっかけだったことを、彼女なりにずっと悔やんでいたのだ。 「凛……。でも、中村先生は、山は一度受け取ったものは返さないって」 「だから、もっといいもの、あげる。みんなで、作る」
その言葉に、僕の胸が小さく脈打った。昨夜の弟の、寂しそうな顔が脳裏をよぎる。 自分も、家族に、そして仲間に、もらいっぱなしでいたくない。誰かを守り、誰かの力になりたい。「分かった、凛。僕も手伝うよ」
放課後、二人が家庭科室で試作を始めようとしていると、中村先生が静かに入ってきた。
「……お供え物を作るつもりか」
先生は窓の外、黒々とそびえる幸江山を見つめた。
「藤雅くん、昨日のことは怖かっただろう。だが、この島の人々が不自由なルールを守り続けているのは、ただ怖いからだけじゃないんだ」
中村先生は、かつてこの島を襲った未曾有の土砂崩れの話を始めた。町を飲み込もうとした濁流を、山から伸びた巨大な「影」が、一夜にしてせき止めたという伝承。その代償として、町中の家財道具が消えたが、人々の命は一つも失われなかったこと。
「島の人々は、それを『迷惑』だとは言わなかった。むしろ、自分たちの命を繋いでくれた山への、畏れと感謝を込めた契約だと思ったんだ。影と島は、そうやって互いに代償を払いながら、守り合って生きてきた」
僕は、中村先生の言葉を噛み締めた。 家族が自分を守ってくれること。島が影に守られていること。それらは全て、誰かの「時間」や「想い」という代償の上に成り立つ絆なのだ。 (だったら……僕も返したい。いつも守ってくれる家族のために、そしてこの島のために。迷惑の代わりに、感謝を形にしたい)
しかし、凛一人での作業は難航した。完璧な「正解」を求めすぎるあまり、彼女の手は止まり、生地は無残に乾いていく。焦る凛の呼吸が荒くなる。
「凛、一人で背負わなくていい。……4人で協力しよう」
僕は、努めて静かな声で言った。 「僕の目でバランスを見て、陽向に明るく声をかけてもらって、海斗の力で生地を練ってもらう。僕ら4人の力を合わせれば、きっと最高のものができる」
凛がゆっくりと顔を上げた。僕は、うまく指が動かない右手を、精一杯机の上に置いた。「僕に任せろ」と伝えるように、司令塔として凛に微笑みかける。
身体が不自由な自分だからこそ、誰が今疲れているか、誰が迷っているかがよく分かる。それは、「人の手を借りる」ことしか知らなかった僕が、初めて手にした「誰かを支えるための力」だった。




