第3話:黄昏の境界線
「……ない。どこにも、ないんだ」 海斗の掠れた声が、放課後の教室に虚しく響く。 僕たちは、海斗の影がハンカチを飲み込んだあたりを必死に探していた。陽向がスマートフォンのライトで床板の隙間を照らし、僕も車椅子から身を乗り出して、手の届く範囲の床を何度も何度もなぞった。
僕は分かっていた。あんな不気味な沈み方をしたものが、この床の上に残っているはずがない。けれど、隣で必死に床を掻く海斗の、今にも壊れそうな背中を見ていると、「もう無駄だ」なんて言葉は、喉の奥に押し戻すしかなかった。
中村先生は、その光景を苦渋の表情で見つめていた。やがて、重い口を開く。 「……一度、職員室に戻って対応を考える。お前たちはここで待っていなさい。いいか、勝手に外へ出ようとするんじゃないぞ」 そう言い残すと、中村先生は足早に教室を去っていった。
「床下へ落ちたのかしら。でも、隙間なんてどこにも……。ねえ海斗くん、本当にこのあたりで落としたの?」
羽宮先生が戸惑いながら壁際を探る。彼女にとって、これは単なる『お気に入りの紛失』に過ぎない。だからこそ、彼女の呑気な声が、僕にはどこか遠くの世界の出来事のように聞こえた。
数分後、廊下から激しい足音が近づいてきた。 「全員、そこを離れなさい!」
扉を蹴り開けるようにして戻ってきた中村先生の顔は、先ほどよりもさらに蒼白だった。
「羽宮先生、今すぐ窓を閉めて鍵をかけろ! カーテンもだ。一筋の光も外に漏らすな!」 「えっ……でも、まだハンカチが見つかっていないんです。それに、もうすぐ帰宅の時間ですし、外で探した方が……」 「いいから早くしろ! 黄昏時が来る。影が山に届くぞ!」
中村先生のただならぬ気迫に、羽宮先生は弾かれたように窓へ駆け寄った。ガタガタと音を立てて窓が閉められ、厚手のカーテンが引かれる。教室は一瞬にして、息苦しいほどの闇に包まれた。
「中村先生、一体どうしたんですか……? 説明してください。ハンカチが見つからないくらいで、どうしてこんな……」 羽宮先生の声が震えている。島外出身の彼女にとって、中村先生の豹変ぶりは異常にしか見えないのだろう。
中村先生は、教室の中央にある机にどっさりと腰を下ろした。 「羽宮先生。この島には、決して破ってはならない二つのルールがある」 暗がりの中、先生の声が低く響く。
「一つは、定期的に『影供え』をすることだ。山を敬い、身代わりの品を差し出すことで、私たちは影に見守ってもらっている。だが……山は欲深い。供えられるはずだった菓子を海斗が食った瞬間、契約は崩れた。山は足りなくなった供物の代わりに、海斗の影を引きずり出し、最も大切な形見を直接奪っていったんだ」
先生は、海斗が泣きじゃくっていた床の闇を指差した。 「本来、ルール通りに置かれた供え物は、そこにあるだけでいい。藤雅がみかけた道に点在していた置物なんかがそれだ。だが、影供えされたものや影供えされるために作られたものを奪った者への罰は別だ。影が直接飲み込んだものは、あちら側の世界へ引きずり込まれ、二度とこの世には戻らない。これは、島に昔から住んでいる者なら島の年寄りたちから教わることだ。お前たちは聞いたことはなかったのか?」
海斗が小さく首を振りながら、声を上げて震える。陽向も知らなかったらしい。ただ凛は知っていたみたいで一人俯いていた。そして、中村先生は一つため息をつくと、さらに険しい顔で窓の外を見やった。
「そしてもう一つ……影供えをしているかどうかにかかわらず、黄昏時に外を出歩いてはいけない。この時間、長く伸びた僕たちの影は、山の影と交じり合うほどに深くなる。もしその影が山の影と同化してしまえば、魂ごとあちら側へ持っていかれる」
中村先生は静かに、自身の過去を語り始めた。
「私には、仲のいい友人がいた。ある日の夕暮れ、海辺で遊んでいたんだ。影が長く伸びて、山の裾に触れたその時だった」
先生の拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「友人が、急に動かなくなった。……いや、体は立っていたんだ。だが、足元から影がするりと抜け出し、山の方へ走っていった。それっきり、彼の影は二度と戻らなかった」
「……そのお友達は、どうなったんですか?」 陽向が小さな声で尋ねる。
「……死んだわけじゃない。だが、影を失うというのは、魂の器を失うということだ。彼はそれから一言も喋らず、表情も消えた。まるで中身が空っぽになった木偶のように、ただ座っているだけの存在になってしまった。……今も、島の奥の施設で、何も分からぬまま生き続けているよ」
教室に、冷たい沈黙が落ちた。海斗が自分の肩を抱いてガタガタと震えている。もし、あの時ハンカチを差し出さなければ、今頃空っぽになっていたのは海斗自身だったのだ。
「黄昏時は、この世の影と、あちら側の影が混ざり合う時間だ。外にいることは、自分の魂をどうぞと差し出すのと同じなんだよ」
外から、カタカタと窓を叩く音が聞こえた。風の音ではない。何かが、道に置かれた家財道具の「影供え」を一つずつ確認しながら、校舎の周りを歩き回っているような……重苦しい気配。
一時間ほど経っただろうか。完全に日が落ち、外が真の闇に包まれると、中村先生はふう、と深く息を吐いた。 「……もう大丈夫だ。夜になれば、連中も山へ帰る」
その後、中村先生の指示で、二手に分かれて帰宅することになった。
羽宮先生は、不安げな表情のまま、家が近い凛を連れて車へ向かった。中村先生は、学校のリフト付き特別車両を出し、僕ら3人を乗せた。
夜の島道は、街灯もなく、底知れない闇に満ちている。車椅子の固定ベルトを締めながら、僕は窓の外を見つめた。あの床下の闇は、この島の深淵に繋がっていたのだ。海斗は隣で、何もなくなったポケットを何度も触っていた。
「……守ってくれたんだな、海斗のお母さんが」僕の小さな呟きは、エンジンの音に消された。僕らは分かっていた。自分たちが生きているこの島は、昼間の明るさだけでは測れない、恐ろしい「ルール」でできていることを。




