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第2話:失われた供物

 放課後の家庭科室は、甘くて少し香ばしい、懐かしい匂いに包まれていた。 千歳凛は、西日が差し込む調理台の前で、彫刻家のような厳しさで作業を続けている。彼女が作っているのは、明日の『名無しの祭り』で使われるという、独特な渦巻き紋様が刻まれた焼き菓子だ。


「……綺麗だね、凛ちゃん」陽向が感心したように覗き込む。凛は答えないが、その手つきには迷いがない。ASDの彼女にとって、決められた手順で完璧な形を作り上げるお菓子作りは、世界と繋がるための大切な手段なのだろうと僕は思った。 僕は車椅子を寄せ、トレイに並んだ菓子を見つめた。食べるのがもったいないほど精巧なそれは、工芸品のようにも見える。


「これは、凛にしか作れないな。すごいよ」僕の言葉に、凛のまつ毛がわずかに揺れた。肯定も否定もしないが、彼女の集中力はさらに高まっていく。


 その静けさを破ったのは、荒い鼻息だった。「……いい、匂い」 いつの間にか、教室の入り口に磯崎海斗が立っていた。 海斗の目は、トレイの上の菓子に釘付けになっていた。プラダー・ウィリー症候群――常に激しい飢餓感に晒される彼の脳にとって、その香りは暴力的なほどの誘惑だ。


「海斗、勝手に食べちゃダメだ! それ、凛が一生懸命作ってたんだから」僕が声を張り上げた、その時だった。


「あ……」凛の声が、かすかに漏れる。 海斗の太い指が、トレイの中央にあった最も大きな菓子を掴み取った。そして、獲物を仕留めるような速さで口に放り込み、噛み砕いた。ガリッ、という乾いた音が、静かな教室に酷く不吉に響き渡る。


「おい、海斗! 何やってんだよ!」僕が叫ぶが、海斗はすでにそれを飲み込んでいた。満足げな笑みを浮かべる海斗。しかし、次の瞬間、教室の蛍光灯がジジジ、と音を立てて激しく点滅した。


「……影」凛が床を指さした。海斗の足元。そこにあるはずの影が、まるで意思を持った生き物のように、ズルリと海斗の本体から分離し始めたのだ。

 影は板張りの床を這い回り、本来お菓子があったトレイの場所を爪で掻きむしるような動きをする。海斗自身は呆然と立ち尽くしているのに、影だけが狂ったように「失われた何か」を探し求めている。


「なに、これ……どうなってるの?」陽向が僕の車椅子にしがみつく。影は壁を登り、天井を黒く塗りつぶしながら、飢えた獣のような気配を撒き散らしていた。


「下がりなさい!」 扉を蹴破るようにして、中村先生が入ってきた。その顔は、今までに見たことがないほど険しい。「海斗、食べたな。それがどういうものか知らずに、お前自身の腹に収めたな!」 中村先生は、荒れ狂う影を睨みつけながら海斗の肩を掴んだ。 「山は騙せない。失われたものの代わりに、お前が今、一番大切にしているものを差し出しなさい。さもなければ、お前の影は二度と戻らず、お前自身も山に引き込まれてしまうぞ」


「そんな……僕、何も……」 恐怖に震える海斗。しかし、中村先生の視線は海斗のズボンのポケットに注がれていた。 「海斗、それだ。お前の心を支えているものを出しなさい」


 海斗が震える手で取り出したのは、ボロボロに色あせた、青い縁取りのハンカチだった。 僕は息を呑んだ。それは海斗がパニックになりそうな時、いつもお守りのように握りしめていた、亡き母の形見だ。


「海斗、それを床に置くんだ。早く!」 中村先生の怒声に押され、海斗は泣きながらハンカチを床に置いた。

 瞬間、天井を覆っていた黒い影が、雪崩のようにハンカチへと収束していく。飢えた影が、新たな供物を飲み込もうと口を開けた。


「……やっぱり嫌だ! お母さん、ごめんなさい!」 海斗が叫び、ハンカチを取り戻そうと手を伸ばした。  だが、影の方が一瞬だけ早かった。


 ズルリ


 海斗の指先が布に触れる寸前、ハンカチは液体のような影に包まれ、そのまま古い木の床板を透過するようにして沈み込み、消えてしまった。

 後には、使い古された木材の木目だけが、何事もなかったかのように残されていた。


「……あ、ああ……」  海斗がその場に泣き崩れる。

 暴れていた影は、何事もなかったかのように海斗の足元に静かに収まり、ただの動かない影に戻っていた。


 放課後の教室に、海斗の泣き声だけが響く。

 騒ぎを聞きつけた羽宮先生が慌てて駆け込んできたが、僕らと中村先生の間に流れる、冷たくて重い沈黙を破ることはできなかった。


 僕は、自分の車椅子から伸びる影を見つめた。朝、中村先生が言っていたことは本当だったのだ。この島には、僕たちがまだ知らない、そして決して侵してはならない「境界」がある。僕、陽向、海斗、そして凛。4人の視線が交差した。そこには、言葉にならない共通の戦慄と、この島で生きていくことの不気味な現実が刻まれていた。

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