第1話:影の落ちる坂道
右手の指先が、レバーの冷たい感触を探る。強く握ろうとしても、脳からの命令は霧みたいに途中で消えてしまう。僕が思い通りに動かせるのは、肘から上の、頼りない腕の重みだけだ。 ウィィィン、と電動モーターの音が唸りを上げ、静まり返った坂道に響く。
瀬戸内海に浮かぶ幸江島。 島の中心にそびえる幸江山の裾野を縫うように伸びるこの坂道が、僕の通学路だ。 坂の下、港に近い平地には、潮風を浴びて白く光る県立高校の新校舎がある。町からやってきた自転車の生徒たちが、新校舎へ向かうために僕を追い抜いて坂を下っていく。
「あ、藤雅くん。おはよう!」
一瞬、声の主と目が合った気がしたが、返事をする間もなく彼らの背中は小さくなった。彼らが向かうのは、活気に満ちた明るい町の方。一方、僕「渡良瀬藤雅」が進むのは、朝だというのに山の影が深く落ちている、古い旧校舎の方だ。
かつて本校だったその場所は、今では僕たちのような「特別な事情」を持つ生徒たちが通う分校になっている。
(……自立したい、なんて。どの口が言ってるんだろうな)
傾斜が少し急になる。指先に意識を全部集めて、レバーを押し込む。 親の手を借りず、弟たちの時間を奪わず、ただ「普通」にこの坂を登り切ることさえ、今の僕には一つの戦いだった。
ふと、アスファルトの亀裂のそばに、奇妙なものが落ちているのが目に入った。 使い古された、木製の飯櫃だ。 誰かが捨てたゴミにしては、あまりに不自然な場所に置かれている。その数メートル先には、雨ざらしでひび割れた陶器の枕。さらに先には、中身の入っていない鳥籠。 どれもが、誰かの生活の欠片を無理やり剥ぎ取って、そこに並べたような違和感があった。
中学まで車で送り迎えをしてもらっていた時には、気づかなかった。いや、見ないようにしていたのかもしれない。一歩一歩、自分の手で坂を登るようになったからこそ、この島の「不気味な足元」が嫌でも目に入ってくる。
「……おはよう、藤雅くん!」
ようやく辿り着いた校門で、佐久間陽向がいつものようにニコニコと笑っていた。 「おはよう、陽向。……今日も早いね」 「うん。海がね、とっても青かったから!」
彼「佐久間陽向」は軽度の知的障害を抱えているが、いつもニコニコ笑っていて僕の気の置けない友人の一人だ。
陽向の屈託のない笑顔に、少しだけ心が軽くなる。だが、教室へ向かう廊下で、磯崎海斗が窓の外をじっと眺め、喉を鳴らしているのを見て、僕はまた言いようのない不安に襲われた。
「おはようございます。みんな、揃ってるわね」
担任の羽宮先生が、明るい声を響かせて教室に入ってきた。島外から赴任してきたばかりの彼女は、僕たちのことを一生懸命理解しようとしてくれる。けれど、その熱意が時々、僕には眩しすぎて少し痛い。
「あの、先生」 朝の会が終わる直前、僕は思い切って手を挙げた。 「道に落ちている……あの、古い家具みたいなものは何なんですか? 飯櫃とか、鳥籠とか」
羽宮先生は、ぱちくりと目を瞬かせた。 「えっ? そんなものあったかしら。私、車で来ているから気づかなかったのかも……。ゴミ……じゃないわよね、そんな大きなもの」 彼女は困ったように笑い、教室の隅で静かに書類を整理していたベテランの中村先生を振り返った。 「中村先生、何かご存知ですか? 渡良瀬くんが、変な置物があるって」
島出身の中村先生は、ゆっくりと顔を上げた。その眼差しには、羽宮先生の明るさとは対照的な、深い静けさがある。 「……ああ。あれか」 中村先生は窓の外、すぐ裏まで迫っている幸江山の深い緑を見つめた。
「藤雅くん、あれはね、落とし物じゃないんだよ。この島の人たちが、影を山に取られないように差し出している『身代わり』だ。……あれを『影供え』と言うんだ」
カゲソナエ。 初めて聞く言葉なのに、中村先生の声はずしりと腹の底に落ちた。
「影を奪われた者は、いつか自分自身も山に引き込まれてしまう。だから、みんな必死で供物を捧げるんだ。自分の魂を半分、守るためにね」
その瞬間、窓から差し込んだ朝の光が、僕の車椅子の影を長く床に伸ばした。 僕は思わず、自分の影を見つめ直した。 今まで当たり前だと思っていた自分の「影」が、どこか他人のもののように不気味に揺れている気がした。




