依頼人――山本洋子さん
Y家のリビングは、思わず息を呑むほど広かった。
十五年前、当時の家主だった目の前の女性――山本洋子さんの両親が、もともと寝室として使っていた和室をリビングへと改装したという。隣接する洋室との間仕切りを取り払い、さらに壁をぶち抜いてキッチンを移設し、現在の形になったのだ。
結果として、約二十畳にも及ぶ広大な空間が生まれた。天井は高く、梁がむき出しになっているせいか、さらに開放的に感じる。日中の陽射しが大きな掃き出し窓からたっぷりと差し込み、部屋の奥まで光が届いていた。部屋の真ん中には八人がゆうに囲める四角い座卓がぽつんと置かれている。それ以外に目立つ家具といえば、画面のないテレビ台が一つ。生活感を感じさせるものはほとんどなく、隅には時間が止まったように置かれた古びた段ボールがいくつか積まれているだけだった。
「えぇーと。四人、でいいのよね?」
洋子さんが座卓に湯呑みを並べながら、ひい、ふう、みい、と指で人数を数えている。日野さんがいないことに気づいたのか、首をかしげた。
「すみません。用事があって今、外に出ているんです」
俺が答えると、洋子さんは「ああ、いえ」と首を振り、少し恥ずかしそうに笑った。
「そんなつもりじゃなかったのよ。最近、物忘れがひどくてね。ちゃんとお茶を出せたか心配になっただけなの」
物忘れ、というには少し若く見えるが、自分の母親も最近は老眼が進んできたと言っていたのを思い出す。そういう年齢になれば、誰しも思い知ることなのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていると、不意に脇をつつかれた。
「もしかして、慶太くん。緊張してる?」
雪乃さんがふふっと笑い、三日月のように細めた瞳で俺を覗き込んでくる。ふわりと柑橘系の香りが鼻をくすぐり、胸の奥がどきりと跳ねた。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、雄介先輩がすっと口を開く。
「もしよろしければですが、依頼内容の確認をしたいので、お話を伺ってもよろしいですか?」
キッチンの方で新たに湯を沸かし始めた洋子さんが、驚いたようにこちらを見たあと、思い出したように微笑んだ。
「そうだったわね。私ったら……。では、お話ししましょうか」
彼女はお盆をキッチンに戻し、すっと座卓へ戻ってくる。
「何からお話しすればいいかしら。ちょっと恥ずかしいんだけど、私があなたたちのファンだってことは、もうご存じよね?」
こんなおばちゃんがファンなんて、おかしいわよね、と洋子さんが困ったように笑っている。
「いいえ。僕たちのチャンネルは、むしろ四十代以上の方の視聴者が中心で、ファンと名乗ってくださる方の多くは主婦や年配の会社員の方なんです。逆に、十代の視聴者は少ないんですよ」
雄介先輩が軽く笑いながら言うと、洋子さんは「まぁ」と少し照れくさそうに頬を染めた。
「では、さっそく聴き取りをさせてください」
そう言うと、先輩は背中のリュックから何かを取り出し始めた。机の上に並べられたのは、ボイスレコーダー、ノート、ペン、スマートフォン、そして筒状に丸められた紙。
「雪乃、それを開いてくれ」
「はいはい」
雪乃さんが、先輩の指示に従い紙を広げる。A4サイズほどの大きさで、見取り図のようだった。
「事前に送っていただいた図面をプリントアウトしたのですが、こちらで間違いはありませんか?」
洋子さんは少し身を乗り出し、紙を確認すると深く頷いた。
「はい。この家で間違いありません」
「ありがとうございます。では、録音を開始します。収録内容については、個人情報や実名、場所の特定につながる部分はカット、もしくはぼかしを入れます。事前に送付した契約書通りの対応になります」
契約書、という言葉に驚いた俺の耳元で、雪乃さんがそっと囁いた。
「最近、不法侵入とかで逮捕されてる動画配信者が多いでしょ。うちは絶対に犯罪行為はしないって決めてるから、ちゃんと許可を取って、契約書を交わすの。だから採算は合わなくなるんだけど、お兄ちゃんのポリシーだからね」
契約書まで取り交わしているなんて初耳だった。再生数とチームの規模を考えれば、収益はほとんどないはずだ。それでも、きっちりとした手続きを踏むあたり、先輩の信念がうかがえる。
呆気に取られているうちに、雄介先輩と洋子さんのやり取りは続いていた。
「では、具体的にどのようなことが起きたのか、お聞かせいただけますか?」
雄介先輩がノートにペンを走らせながら問うと、洋子さんは少し表情を曇らせ、口を開いた。
「そうね……。どこから話せばいいのか……」
そう言いながら、彼女は遠くを見つめるような眼差しで、とつとつと語り始めた。