分かり合えない
今日はいつもよりランドセルが重く感じる。疲れているからだろうか。
車道を挟んだ向こう側の歩道を隣のクラスの男の子たちが走っている。私達は下校中だというのに、あの子たちは友達の家で遊んだ帰りだろう。
遠くから町内放送が聞こえる。
私はこの道の先の住宅街を目指して歩みを進めている。
「真奈、帰ったら何する?」
「何する?じゃないよ。
佳奈のせいで私はこんなに疲れ果ててるの。
何もせず休ませて」
私は呑気に話しかけてくる姉の佳奈に対して、漏れ出す怒りできるだけ内に押さえ込むように言った。
佳奈は私と違い明るい性格で、誰とでも一緒に騒げる人間だ。休み時間には男子に混ざって遊んでいることの方が多く、 今日の昼休みにも男子と鬼ごっこをしていた。
そして、その鬼ごっこ中の出来事が原因で私はこんな遅い時間に家に帰っている。
小学生の遊びには必ず最強技というのが存在する。私が通っている小学校の鬼ごっこにおいてはそれが花壇なのだ。グランドを逃げ回るのに疲れた人は、花壇の裏に逃げ込む。道徳教育のおかげか、いくら小学生男子といえど、花壇に踏み入るようなことはしないらしく、鬼が捕まえようと思えば、池の周りを歩く兄弟のごとく無駄な体力と時間を費やすことになる。しかし、そんなことをするわけなく、一種の絶対領域となるのだ。絶対領域といえど10秒という制限時間がありその時間を過ぎればそこから出なければならないらしい。
私がそれを初めて聞いた時は、よくできたゲームバランスだと感心してしまった。
しかし、今日そのゲームバランスを崩壊させてしまうものが現れた。佳奈は恐れ知らずというか、少しずれているところがあり、興奮のあまり絶対領域を見事踏破してしまった。
一緒に遊んでいた男子は予測を裏切る事態に爆笑したものの、花の面倒をよく見ていた男の子は泣き出してしまった。
悪気はなかった真奈はその様子を見て大変なことをしたと気づき、先生に自首をした。
問題はそこからで、いつも一緒にいる妹の私も、花壇の復旧作業を手伝わなくてはいけなくなったのだ。実際には佳奈はほとんど何もせず私と、佳奈に泣かされた男の子が頑張ったのだが。
はぁ、とため息をつきながら重い足を前に進めていると、真奈が言う。
「でも、正直言って今日のことは佳奈にとってはラッキーだったじゃん。気になってる男の子と仲良くなれたんだし」
バレていると思っていなかった私は、慌てて否定した。
「べべっ、別に気になってないから」
私から出た声はほとんど叫び声に近かった。
私にこんな声が出せたのか。私が自分自身に驚いていると佳奈が言った。
「ごめん」
佳奈は私以上に驚いたのだろう、普段取らないような気弱な声だった。
別に怒っているわけではなかったのだが、佳奈が明らかに落ち込んでおり、かなり気まずい。
しかし、こんな小さなことが尾を引いて私たちの関係性がギクシャクするのは嫌だったため、私はなんとか話題を振ろうと考えた。
「太一くんのこと確かに気になってる」
「佐藤くんの下の名前、太一って言うんだ。
よく知ってるね。
誰も下の名前で呼んでるところ見たことなかったから知らなかった」
佳奈にそう言われ突然恥ずかしくなった。
私も太一くんと声に出したのはこれが初めてだったからだ。
別に普段から仲がいいわけでもなく花壇を一緒になおしている時にも佐藤くんと呼んでいたのに、突然下の名前が口から出てきてしまった。
落ち着いた気なってはいたが実際には、自分の好きな人が姉にバレていたショックから立ち直れていないのだろう。
私は自分のコントロールを取り戻すために歩みを止め、顔に手を当てる。
熱い。
自分がこんな反応を起こすのは初めてだ。初恋だからだろうか。
私がその感覚を味わっていると後ろから声をかけられた。
「大丈夫?」
「えっ、あっ、はい。大丈夫です。」
いきなり声をかけられたことに驚きながら振り返ると、私のお母さんと同年齢ぐらいの女性が買い物袋を手に、こちらの様子を伺っていた。
「この辺の子?」
怪しそうな人ではないが、いきなり個人情報を訪ねられ少し不安に感じ、私はランドセルについた防犯ブザーを握る。ボタンを押しはしないがロックだけは外しておこう。
「ああ、ごめんごめん。
突然話しかけて怖かったよね。
私は東小学校5年の佐藤太一の母です。」
私の動作に焦ったのか、その女性はそう名乗った。
「太一くんの?」
佳奈がそう漏らす。
めずらしいことだ。それに佳奈が太一くん呼びしていることも気になる。
だがそれ以上に今は太一くんのお母さんに対応しなくてはならない。家に帰って同級生にあったけど変な子だったね、とでも言われたらおしまいだ。
「私達は太一くんの同級生の、加藤真奈と佳奈です。クラスは隣のクラスです」
好印象を与えようと、精一杯の明るい声で名乗った。
語尾にハートマークがついていてもおかしくないくらいの声だ。つける気はなかったが。
「ああっ。
真奈ちゃんと佳奈ちゃん」
太一くんのお母さんは、買い忘れを思い出したかのような驚き方をした。
どうやら私たちのことを知っているようだ。もしかしたら太一くんから聞いたことがあるのかもしれない。
うちの食卓でも佳奈の友達の名前が上がることがある。誰々がすごいことをしたとか、誰々が盛大に転んだとか。
もし、私の名前が上がっているのならば、いいエピソードであってほしい。そう思った私は作った声と口調のまま尋ねてみる。
「もしかして私のこと太一くんから聞いてますか?」
すると、太一くんのお母さんは首を横に振った。
「ううん、太一からではないけど、真奈ちゃんと佳奈ちゃんのことは聞いたことあるよ。
元気一杯の方が佳奈ちゃんで、言葉遣いが丁寧な方が真奈ちゃんってね。
いつか会ってみたいなって思ってたの。
あなたが佳奈ちゃんね」
「いや、違います。私は真奈です」
私は、相手は知らないはずなのだが、いつもと違う喋り方を指摘されたような気がして、恥ずかしさを感じながらも訂正した。
「こっちが佳奈です」と言い佳奈を前に押し出し佳奈の裏に隠れる。
佳奈は「私が佳奈です」といつものように元気な声で名乗った。
「あらそうなの、それはごめんね。
それで大丈夫?俯いて立ち止まってたから声をかけちゃったんだけど」
「大丈夫です。
恋バナしてただけですから」
佳奈が私の代わりにそのまま答えた。
「そうなの。
ならよかった。気をつけて帰ってね」
太一くんのお母さんは、そう言って振り返ると2メートルほど進むと、左に曲がり住宅が立ち並ぶ道に入っていった。
佳奈が今日花壇を荒らしたことはあの人に伝わるのだろうか。太一くんはちゃんと私と佳奈を区別できているだろうかと考えながら、太一くんのお母さんが曲がった角を見ていると佳奈が話しかけてきた。
「太一くんのおかあさんだって。
真奈、変な喋り方してたね」
佳奈はそう言ってきたが、私はそれに反応せず再び佳奈の前に出て歩き出した。
しばらく、からかわれながら歩き、ようやく家に辿り着いた。
「ただいま〜」
玄関のドアを開け、そう言うと廊下の奥にあるリビングからお母さんが出てくる。
「おかえり。
真奈は大変だったみたいね」
遅れて帰った理由は学校からの電話でお母さんも知っている。
「佳奈に変わってくれる?」
「悪気はなかったみたいだからあんまり怒らないであげてね。」
私はそう言い残して、主導権の弱い真奈を少し強引に前に押し出した。
「お母さん、ごめんなさい」
体の主導権が変わった途端に佳奈はそう言った。
佳奈の裏からお母さんを見てみるが特に怒っている様子はない
「別にお母さんに謝る必要はないのよ。
反省してるんでしょ?」
「うん」
「花壇のお世話してる人に謝った?」
「うん」
怒られないとわかったからか佳奈は元気に返事をしている。
声だけで嬉しそうなのが伝わってくる。
「真奈には?
真奈にも謝った?」
お母さんにそう尋ねられると、佳奈はそれまでと違いすぐに返事をしなかった。お母さんの瞳をよく見ると口が開きっぱなしの女の子が映っている。
「謝ってない」
「じゃあ謝ってきなさい。
マナにも迷惑かけたんだから」
お母さんはそう言って、左手で洗面所を指差した。
「わかった」
今度は即座に返事をすると佳奈は、その場でランドセルを下ろし、洗面台に向かった。
自分の意識と無関係に揺れる視界に我慢しながら、視覚を開いたままにする。
普段は違和感がすごいため、移動中は視覚を閉じたいのだが、すごそこまでだし我慢しよう。
5秒も掛からなかっただろう。佳奈が洗面所に到着し、私たちは鏡を見ている。
「佳奈、見えてる?」
「うん」
見えてはいるが、裏にいる状態では鏡の中に映る少女が自分なのか佳奈なのかは認識が曖昧になる。
「花壇なおさせてごめんね」
佳奈が鏡を見つめながらそう言った。
私は鏡の中の少女を佳奈だと信じ込もうとしながら「いいよ」と返した。
「ありがとう」
視界に映る少女は、はつらつとした笑顔を浮かべている。
私が表の状態で鏡を見たことはあるが、その時の顔と印象が全く違う。同じ顔を使っているのになぜこうも表情が変わるのだろうか、と疑問を感じながらも私は視覚を閉じる。