《神の火》
マッドグリズリーは歯牙を剥き出しにして突進を仕掛ける。
「これ持って離れていなさい」
杖をルチルに押し付け、応じるように進み出る。
丸腰で無防備となったルビィの瞳が妖しく光った。
──《神の火》ッ!
彼女の魔法紋が開放される。両者の間でなにもないところから火花が生じ、火炎が発生した。
突然の現象にマッドグリズリーもたちまちブレーキをかける。
さきほどの魔法具で射出された【火炎】とは比べ物にならない質量と熱量。並大抵のモンスターでもたまらず逃げ出すだろう。
しかしマッドグリズリーは熊のモンスター。獣の中でも火を恐れない生物の特性を有していた。
強靭な両腕で炎を振り払い、こちらへの攻撃を諦める気配はない。
「食らいなさい!」
今度は熊の身体に視線発火の追撃。たちまち火達磨に包まれた。
──ゴァアアアアアアア!
断末魔が洞窟内に響き渡った。灼熱に身を焼かれて地を転がりもがいている。
敵を寄せ付けず、一方的に敵を圧倒していた。
「す、すご、丸焼きだ……」
「う、うん」
鮮烈な光景に目を奪われた狼魔族と猪魔族の少年。自負するだけあって凄まじい火力である。
彼女の実力をもってすれば魔導師としての将来が約束されていると言っても過言ではない。
やがて炎の中でうずくまり熊は動かなくなる。
「いっちょあがり。楽勝だったわね」
熱気から背を向け、涼しい顔をするルビィ。
しかし一瞬ふらつき倒れそうになるのを堪えた。
「……っと。どうやらかなりの魔力を食うみたい、まぁこれだけ威力が出せるなら当然かしら」
「大丈夫?」
「平気よ。アタシを誰だと思っているの」
だが、その油断が命取りだった。
「じゃ──」
彼女が言い掛けた時、炎に包まれた塊が突進してきていた。
体当たりを受け、幼い身体がバタバタと地面を転がり息をひそめる。
「え?」
事態を理解できず茫然としているルチルをよそに、倒したはずのマッドグリズリーは二本足で立ち上がる。
まとわりついていた炎が霧散した。至るところの毛皮が焼け焦げ、酷い火傷を負ってはいるが健在。
「ル、ビィ……ルビィ!」
「ぶ、ぎ、ぃ」
腰を抜かした彼をよそに、ルチルは今しがたハネ飛ばされたルビィに注視する。
熊は返事のない彼女のもとへとにじり寄っていく。トドメを刺すつもりなのか、食い殺すつもりなのか。
燃やされるのを警戒してか、一気に襲い掛からずゆっくりと接近していた。
「……やめ……ろ……」
喉の奥を絞り出し、ルチルは制止を呼び掛ける。しかしこちらには目もくれない。本能でわかるのか脅威とも思われていない。
助けなくてはという葛藤と恐怖がせめぎ合い、託された杖を握り締めた。
そうこうしてる間に倒れたルビィの目前まで迫っていた。
そして緊張の糸が切れたルチルは遂に声を張り上げた。
「やめろよォおおおおおおお!」
無我夢中で杖を振り上げ、熊の背に向けて躍りかかる。
その勢いで叩きつけるもビクともしない。子供の非力な腕ではたとえ何十回何百回何千回と叩こうと効き目はないだろう。
ただ、マッドグリズリーの気を惹くには充分であった。
威嚇の唸りをあげるなり、反撃の一撃を受けた。
幸運にも鋭利な爪を頑丈な杖で防ぐことができたこと、体重が軽かったせいかほとんど衝撃もなく吹き飛ばされたことで難を逃れることはできた。
「ぁがはっ」
しかし地面に激突して息が詰まる。思考が酩酊する。
痛い。今にも泣き出したい。
でもこのまま蹲っててもすり潰されるかなぶり殺されるだけだ。
以前サーフィアが冗談で怖がらせようとした時の話を思い出す。人食い熊は生きたまま内蔵を食い荒らすのだとか。そんな死に方嫌だ。怖い。
霞む視界の中、離れた場所で意識もなく横たわるルビィの顔が見えた。口の端から血を垂らし、ピクリとも動く気配はない。
気丈で、高飛車で、勇敢な態度を振りまいているけど、女の子だ。あの子に自分はまかせっきりで胡坐を掻こうとしていた。
情けなさにまた泣きたくなる。無力な自分が恨めしくて悔しい。
彼女は出会った時、泣き喚いていた自分を叱咤した。男の子だからみっともない顔をするなと。
(ボク、だって……!)
助けなくちゃいけない。男の子だから。
なにくそ、と歯を食いしばる。杖に体重を乗せながら強く打った全身を奮い起こして立ち上がった。
マッドグリズリーが四足で地を蹴り、容赦なく接近する。
自他共に認める魔法オンチであるルチル。手にしたばかりの魔法紋……《英知の利器》は道具の真価を発揮するというもの。
ならばこの杖を上手く使いこなせればこの場を打開することに繋がる可能性があるだろう。
だとしてもさっきの一撃でひしゃげて使えるかも怪しい。
だが、それを頼りにするしかない。ルビィが見せたあの内蔵魔法だけが唯一の武器だ。
一か八かの賭けに出た。杖を向け、遮二無二に突き出す。
学んだわけでもないのに、ルチルは自然とその扱いを知っているかのように発動した。
──【《超過火炎》】ッ!
そうして解き放たれたのは、炎の塊と形容するにはいささか歪な形状の内蔵魔法。
噴出だった。洞窟内を埋め尽くすほどの火炎の奔流が熊を襲う。
──グォッ……──!?
驚愕する暇も与えずマッドグリズリーはその最後を迎える。
†
ダンジョンの入り口まで届いた振動に、サーフィアは反応した。
「なんだ?」
なにかが中で起こっている。彼は嫌な胸騒ぎを覚えた。
猿魔族は付近で落ち込んだ様子で座り込んでおり、デイアが大人たちを呼んでくるのを待っている。
(ルチルたちが心配だ。オレも様子を見に行くか……? しかし……)
躊躇していたサーフィアの頭上に影が差した。
見上げた彼の目が驚きに見開かれる。
「なっ」
大きな帆船が空を覆う。しかもこの近辺に着陸するつもりらしい。
魔導帆船プライウェン。王都で移動手段として用いられる魔法具の一種である。
浮力を生み出す何本ものオールが生き物のエラのように波打ち、風をつかんでやってきた。
何故こんな場所に? いきなりどうして? 船と一緒に疑問が降って湧いてくる。
そうこうしている間に鎧に覆われた兵たちが降り立ち、ダンジョンの前で規則正しく整列を行う。
そして後から船を降り、サーフィアたちの前にやってきたのは瀟洒なドレスを着た女性である。
猫耳の生えた赤い髪には王冠を被り、立派な金飾の杖を手にしている。
「嘘、だろ……」
この国の女王グラナタス・フェリ・ベスティアヘイム。通称、魔女王。
もっとも偉大な魔導士の称号を持つ五芒魔星の一人である。
最高権力者直々のお出ましにもはや言葉を失う他になかった。
「おい、そこのガキ。正直に答えろ」
絶句したままの彼に向けて王笏を突きつけ、詰問する。しかもドスの利いた口調で、美人な顔立ちでありながらかなり険しい表情だった。
「まさかとは思うが、ウチのバカ娘たちがそのダンジョンに入っただなんてことはあるまいな?」
返答次第ではどんなことになるのかわからず、生唾を呑んだサーフィア。
そこで、入り口に吊るされた魔除けの鈴が鳴り響いた。たちまち一同の意識が向けられる。
そして、ダンジョンの出口からルチルたちが出てきた。
「さ、サーフィア! 助けて! ルビィがケガしているんだ!」
二人掛かりで少女を運び出す場面を大人たちに目撃され、騒動は収束するのであった。