霊峰への道
翌日、町を出て薄っすらと雪が積もる山道へと足を踏み入れれば、澄んだ朝の空気が二人を迎え入れた。
優しい陽の光は温かいが、そよ風に吹かれる空気はやや冷たく肌をなでる。
木が生えておらず道幅も広く見通しが良いため、山道というよりは緩やかな丘といった雰囲気ではあるのだが、右手を見れば急勾配。底には流れる川も見え、滑り落ちたら無事では済まないだろう。
「おぉ来たね、おはよう」
約束の時間よりやや早めに到着したつもりだったが、ディムルは既に目印になるオブジェの横で二人のことを待っていた。
掻き分けられて積まれた雪の塊が町の境目に立ち、子供たちの仕業だろう、目や鼻を模した木の実で顔が描かれて、突き刺さった枝と掛けられた手袋が、まるで旅人を見送って手を振っているかのようだった。
「おはようございます」
シャキッとした顔で気を引き締めたアグルエが返事をする。
昨夜はよく眠れたようで、エリンスも同様、船旅でたまった疲労感はすでに吹き飛んでいる。
ディムルも昨日とは打って変わって、酒に酔った様子もなく引き締まった顔つきをしていた。
あれだけ飲んでも二日酔いというやつをしないようだった。
「おはようございます」とエリンスも返事をしたところで、ディムルは満足そうに頷く。
ディムルは大きなバックパックを背負って、昨夜は背負っていた武器である薙刀を杖代わりといったようについて手にしている。
「重くないんですか?」
アグルエが訊ねるとディムルは「慣れているから大丈夫だ」と返事をした。
そのままディムルが言葉を続ける。
「アグルエは魔導士だろ?」
「そうですが……」
「シムシールの魔霧の話は聞いたか?」
バートランが語っていた霊峰特有の魔素が濃い霧。
「聞きました」
「あれを避けるためには魔素を操れる力が必要になる。だから道中は魔力の管理に気をつけておいてくれ」
「わかりました」
霊峰シムシールへ登るには、魔力が多い魔導士の力が必要だということだろう。
その辺りアグルエであるならば、心配はいらないだろうともエリンスは考えた。
「よし、道中魔物も出るかもしれないから、エリンスはいつでも剣を抜けるようにしておいてくれ!」
エリンスが腰に携えた剣を一瞥して、ディムルがそう言った。
「わかった!」
テキパキとした指示に慣れたものを感じる。
力強い返事をしたエリンスを見て、またも満足そうにディムルは頷いた。
「まずは霊峰中腹の町を目指す」
「そこまではどれくらい?」
アグルエが聞いたところで、少し考えるようにしてからディムルが説明を続けた。
「日を越えることにはなる。一日目はどこか山の洞穴を見つけて、火を絶やさずにテントだな」
過酷な旅は想定されていた。それなりに時間もかかるようだ。
エリンスも頷いて返事をする。
「じゃあ、出発!」
気合を入れるように発したディムルに続いて、エリンスとアグルエも上り坂を歩きはじめた。
◇◇◇
緩やかな上り坂が続く山道はまだ比較的平坦な方で歩きやすい道だった。
薄っすらと積もる雪に雪解けの水に輝く背の低い草花。
時折吹き下ろされる風が冷たいものの、鳥のさえずりが聞こえる平和な山道。
道に雪が積もっていない跡が見える辺り、人通りもある道なのだろう。
エリンスは斜め後ろを歩くアグルエのことを心配したのだが、機嫌が良さそうに手を振って、肩の上のツキノと何やら楽しそうに喋りながら歩いている。
ここまでいろいろなことがあった。一月前とは違う表情だ。
歩くことにもだいぶ慣れたようだった。
そうして――町を出て数刻したところで看板が突き立てられた分かれ道へと辿り着いた。
「へへっ、ここであっちへいけば東へ抜けられるぜ」
前を歩いていたディムルは立ち止まって背の丈ほどある看板へ寄り掛かると、二人のほうへと向きなおる。
エリンスは自然とディムルが指差すほうを眺めた。
ここまで歩いて来たのと同じような緩やかな上り坂が一直線に続いている。
「今ならまだ、そっちにルートを変えられる」
試すような言い方が引っ掛かった。
「いえ、わたしたちは確かめなければいけないことがあるので!」
ただアグルエは迷いなく返事をする。
「いい返事だ。ここからは少し道も険しくなるからな」
アグルエを見て頷いたディムルが腰に装備したポーチより小ビンを一つ取り出した。
「それは?」
エリンスが訊ねると、ディムルはキラキラとした小さな石粒が詰め込まれた小ビンを振って見せてからこたえた。
「魔晶香って呼ばれる鉱石の欠片さ」
ディムルはビンの蓋を外して一粒の欠片を取って、エリンスとアグルエに見せるようにと手を出した。
薄っすらと光を放つ鉱石の欠片。
「これに魔力を反応させるとな」
そう言って力を込めるように目を閉じたディムルに呼応して、鉱石の欠片は青く光を放った。
「わわ! ディムルさんの魔力を感じる」
アグルエが驚いたように口にする。
「さすが魔導士、その通り。少しの間使用者の魔素を溜めて置ける。まあ、三日ってところだが」
そう言って魔晶香を地面へ投げるディムル。
ディムルの手を離れても、鉱石の欠片は光を放っていた。
「この石は特別なもので魔物も反応を示さない。魔導士にのみわかる痕跡が残る。要は道しるべ。おかげで雪が積もっても来た道を見失うことがなくなる。雪山で迷わないようにするためのおまじないさ」
アグルエは「わかりやすい」と頷いていた。
魔素を感じることのできないエリンスにはいまいちピンと来ない話ではあったのだが、理屈は理解できた。
魔晶香をたびたび投げて進むディムルに続いて、エリンスとアグルエもやや急になった坂道を歩きはじめた。
木々も生い茂り、道らしき道も細くなる。
積もった雪の高さはどんどんと増していき、行く先より吹き下ろされる風も冷たくなってきた。
次第に、空には雲が増え、山の天気は変わりやすいと何かの本で読んだことをエリンスは思い返す。
険しい山道は進めば進むほどに、道なきものへとなっていった。
足が埋もれるほどに積もった雪は真新しく、誰も踏み入れたことのない一面の白い世界が広がっている。
幸いなことに天候は曇り空を保っていたが、それでも空は次第に暗くなりはじめ、夜の気配を漂わせていた。
「ここらで今日は休もう」
そうディムルが口にしたとき、辺りはすでに真っ暗で、アグルエが手元に出した黒い炎だけが三人のゆく先を照らしていた。
立ちはだかる岩壁にちょうど見つけた手頃な洞穴の中へと入り込む。
冷たい山風も凌げそうだ、とエリンスが考えている間にも、ディムルが手際よくバックパックより取り出した道具を並べてキャンプ地を立てた。
バチバチと音を立てながら燃える焚火を洞窟の入口に、加えてアグルエが起こしてくれた黒い炎が洞窟内を包み、寒い山の中にいることを忘れさせる。
湿った岩肌を炎の灯りだけがぼんやりと照らしている。
「なんか、落ち着いちゃった」
コートの上から寝袋へと包まって座り込んだアグルエは焚火を見つめて呟いた。
その目もぼんやりと、とろけるように眠たそうだ。
「温かいしな」
滑り出しは順調、一日目の進み具合は好調だとディムルも言っていた。
どれほど歩いたのかあまり実感は湧かないが、心なしか足が張っているような気配をエリンスも感じていた。
「どうして霊峰、『聖域』なんか目指すんだ?」
温かそうな湯気が立つカップを手にしたディムルがふいに聞いてきた。
目線はカップの中に注がれている携帯食のスープへと落ちているが、嘘をついても見破られそうな鋭さを感じた。
正直に全て話すわけにもいかないところだがある程度ならいいだろう、とエリンスは考えて口を開く。
「魔素の声を聞いたんだ」
「へぇー」
ディムルは大げさな返事をした。
ふーふーとスープの湯気を冷まそうと息を吹きかけながら、ただ耳はエリンスの話へ傾けたままのようだ。
「そこは、『聖域』と呼ばれる場所と似たような場所で……」
そこからはなんと説明をすればいいか迷ってしまった。
「だから『聖域』も気になる、と」
ただディムルはその空気も読んでか、ちょうどいい塩梅の距離を取ったままに返事をする。
アグルエの腕の中で丸まるツキノは尻尾を揺らしている。
「あまり話し過ぎるな」という合図であることはエリンスにもわかった。
ただ、エリンスにもそれ以上のことを話すつもりはなかった。
「はい」
静かに返事をしたエリンスに、ディムルは「なるほどー」と納得したのかわからないような返事をした。
立ち上がったディムルは未だに手にしたカップのスープを冷まそうと必死だった。
「魔竜について、何か知っていることはないですか?」
話が途切れたところで、アグルエがディムルを見上げて聞いた。
「ん-酒場で言った見た目のことくらいだよ。魔物の王ってくらいだから、凶暴なのかねぇ」
考えながら返事をしたディムルがカップに口をつける。
まだ湯気が立っているところを見るに熱そうなものだが、「あちっ」と小声で零したところを見るにそのようだった。
「凶暴……」
アグルエがぽつりと呟く。
「知り合いの傭兵に、向かい合ったやつがいるんだが、大きく開いた口は人を丸呑みにするようで、大きな牙が鋭く光っていて……轟く咆哮にちびったって笑って言ってたな」
「そんな、至近距離で対峙したんですか?」
エリンスが思わず聞き返した。
「らしい、突然のことでそいつもビビったってさ」
一説には幻の存在、伝説として語り継がれた時代もあった魔竜。
最近は人前に姿を見せることも増えたと聞いたが、だとしても人に近づくことがあるとはエリンスも思わなかった。
ディムルが本人から笑い話として聞いたということは、実際に襲われたわけではないのだろう。
魔物は――魔素を持つ人間を襲う。魔素を喰らうからだ。
アグルエもディムルから魔竜の話を聞いて何かを考えるように焚火を見つめていた。
静かな夜、考え事をするにはちょうどいいように思えた、その時だった。
――グググググゥゥゥゥオオオォォォォ!
耳を貫き、大地を震わせ、腹の底より響くような強大な咆哮が辺りに響いた。
エリンスもアグルエも慌てて立ち上がり、ディムルは手にしたカップを置いて立て掛けてあった薙刀を手にする。
「静かに!」
ディムルは洞穴の入口の焚火の火を厚手のブーツで踏んで消して、外をうかがうように顔を出してから二人に言った。
「外にも出ないほうがいい」
小声でそう言いなおしたディムルに頷いて、二人は息を潜めるように再び腰を下ろす。
ドスンドスンと重量感がある足音が響く。
風を裂くような尾を振る音も聞こえた。
息も止めたエリンスは、洞穴の外より溢れ出るただならぬ気配に緊張感を覚えた。
再び風を切るような音が聞こえたかと思った次の瞬間には、外をうろついていた大きな気配が消えていた。
「ちょっと見てくる」
ディムルは武器を手にしたまま、脱いで畳んであったコートを羽織って洞穴から出ていった。
アグルエの肩の上より飛び降りたツキノが洞穴の入口より外をうかがうように顔を出す。
「泣いていた……」
「え?」
ふいにそう言ったアグルエの言葉に、エリンスは思わず聞き返してしまった。
「泣いていたの」
悲しそうな表情で洞穴の外を眺めるアグルエの横顔には嘘や冗談を言っている色は見えない。
気のせいではない何かが、聞こえたということだ。
魔素の声――エリンスの脳裏にあの時聞いた、あの声が思い起こされた。
『ナガレ ヲ タダセ』
「そんな気がしたの……」
俯いて何かを考え出したアグルエに、エリンスはそれ以上聞くことができなかった。
見回りにいったディムルが帰ってきて、結局その日はそれ以上二人で話す機会は訪れず、引っ掛かる気持ちは残ったままエリンスは寝袋に包まった。
気配が去ったことはたしかなようだ。
「明日も早い」と一言口にして、すっかり冷めたスープを飲み干したディムルの言葉を合図に、三人は眠りについた。




