迷いなき一刀
「あの日とは、もう違うんだ」
思わずエリンスの口から飛び出た言葉だった。
悪夢――その元凶も魔族との遭遇だ。
状況的に似通っている部分があって、どうしても思い出してしまう。
エリンスはひたすらに自分の中で否定を続けながら走り続けた。
森の中はどこをどう走っているのかわからなくなるような、木々が立ち並ぶ似通った光景が続く。
ただ幸いなことに、爪痕によって傷ついた木や足蹴にされて凹んだ枝など。
エムレエイが木から木へと飛びながら追い掛けていただろう痕跡が、そこかしこに残っていた。
だからエリンスは、アグルエが逃げた先、行方を見失うことなく追い掛けることができた。
草木の間を抜けた先、そこだけポッカリと森に穴を開けるように空が見えていた。
木の生えていない踏み固められた土剥き出しの広場――。
辺りの地面には、魔法で着いたような黒焦げた痕跡、爪痕や剣による斬撃の後が広がっている。
その場にいなかったエリンスにも、二人の激闘で荒れた様子が垣間見えた。
そしてその中央。
突っ伏して動けなくなったアグルエの髪を――、
爪のない左手で鷲掴みにして首を持ち上げて――、
その首筋に剣のように長く伸びた右手の爪を添えて――、
下卑た笑みを浮かべた、エムレエイ。
まるでエリンスの到着を待っていたかのように、止めは刺さずに笑っている。
「バカだよねぇ全く。魔力を使えば、ぼくとも渡り合える実力を持っておきながら、手を抜いてむざむざとやられちゃうなんてさぁ」
無理やりに首を持ち上げられて、呼吸も落ち着かない様子――その体勢でいるだけで、もう辛そうだ。
背中に見える傷が生々しく痛々しい、血が流れ滴り落ちるさまに――目を覆いたくもなる。
綺麗だった髪は土埃や血を被って、今や見るに堪えないほど汚れてしまっている。
苦しそうな表情を浮かべるアグルエは、目を開けるのですらやっとといった表情で、エリンスのことを見つめていた――。
「おまえを待っていたんだよ、名前なんて知らないけどさぁ。勇者候補生!」
エリンスの中で――何かが、一気に爆発した。
それは今までに感じたことのないほどの怒り――。
「その汚い手を、離せ!」
自然と地面を蹴って飛び出したエリンスは、既に抜いていた剣に力を込めて横一閃、距離を詰める。
アグルエとエムレエイとを遠ざけるかのように、間に割って入る。
その手を離してかわしたエムレエイは、すれ違い際にエリンスに向けて爪を構える。
だがエリンスは反撃をもらってしまう前に、エムレエイの腹目掛けて足を出し蹴り飛ばして、地面に倒れたままであったアグルエを抱えてから距離を取った。
――バキィンッ!
鈍い金属音が当たりに響いて、エリンスの持っていた鈍らの剣身が宙を舞い、地面へと落ちた。
エムレエイもただ蹴られるだけではなかった。
振るった長い爪による反撃は、エリンスの使い古しの剣をへし折った。
しかし、エリンスは剣が折れたことなど目に入らない。
「大丈夫か! アグルエ! しっかりしてくれ!」
エリンスは未だ鮮血が垂れるその背中を抑えながら、アグルエが呼吸を取りやすいように仰向けにしてやり、腕の中に抱きかかえた。
「だ、だいじょう……ぶよ、大丈夫、じゃないけど、だいじょう、ぶ」
息も絶え絶えといった様子だったが、先ほどより表情は柔らかい。
アグルエは笑って見せてくれた。
「アグルエは、魔素を使わず耐えてくれたんだろう……」
「えぇ……さっき吸収した、魔素も……出し切らせてやった……おかげであいつは……今、素の力よ」
エリンスの胸を締め付けた想いは――そのアグルエの想いもあってのことだ。
――アグルエが自分を信じて耐えてくれていた。周りの被害を顧みずに本気を出して相対していれば、こんなにも傷つくことはなかったはずなのに。
エリンスが怒りと同時に感じたのは、無力さだ。
勇者候補生になって、力を得た気になって――でも結局守りたいと思ったものを、きちんと守り切ることができない自身の無力さだ。
何がいい策を思いついた――だ。
アグルエを囮にした時点で、そこにまだ己の弱さがあったんだ。
ただ、ただ――それが悔しい。
エリンスの頬を伝って流れた一粒の水滴は――アグルエの頬を伝って流れ落ちた。
「……立てるか?」
「えぇ」
腕の中、抱きかかえたままだったアグルエを支えながら、エリンスは立ち上がる。
「歩けるか?」
「なんとか」
アグルエは支えから離れて、立って見せてくれた。
「エリンス、これ」
アグルエが差し出したのは、ずっと手放さないように右手に握っていたメルトシスよりもらった剣だ。
エリンスはそこでやっと気がついた。
剣身を失いグリップ部分だけとなってしまった剣であったものが落ちていることに。
エリンスは――アグルエから託された想いを受け取った。
「あとは任せろ」
アグルエは辛いだろうに笑みを浮かべて「うん」と頷いて――
ヨロヨロとゆっくりとした足取りでその場を離れ、来た道を歩き出す。
「長々とつまらないものを見せてくれちゃってさぁ」
ようやく起き上がったエムレエイは、そこまでのエリンスとアグルエのやり取りを本当につまらなそうに眺めていた。
「そのままホイホイ見逃すとでも思ってるのかぁ?」
そして、背を向けたアグルエに飛び掛かる。
だが、そのような隙を――エリンスは与えない。
同時に飛び出したエリンスは、想いを乗せて剣を一振り――アグルエへはもう近づかせはしない。
――ヒュンッ!
風を切る剣撃が、飛び掛かるエムレエイを弾く。
エムレエイはその迫力に怯んで飛び退いて、エリンスもまた驚いた。
それまで自分が振るっていた鈍らとの違い――その軽さに。
鋭く磨かれた名剣が、想いにこたえるよう輝いた。
その驚きが――エリンスを冷静にさせた。
アグルエは、傷ついた背中を向けたまま振り返ることなく離れていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、でも確実に離れていく。
血が流れ、痛みはあるだろう。
服が裂け、寒くもあるだろう。
アグルエの気持ちを考えると――痛くて震えるように心を締め付けられる。
「俺は、バカだ」
その言葉に――エムレエイは「へ?」と戸惑ったような声を上げる。
だがそれもつかの間、「ズハハハ」と下卑た笑いを上げて、エリンスにこたえた。
「そうだな、おまえはバカだ。一人でぼくを足止めできるとでも?
おまえを仕留めて、手負いのアグルエは後から追えばいいだけなんだよぉ」
エリンスはエムレエイの嫌みったらしい言葉は無視して続ける。
「あの日とは違うと何かを守れる力を得た気になって、結局、何も変われてなんかいない。
いくら剣の修業をしたって、勇者候補生の資格を得たって、俺は何も守れてなんかいないんだ」
エリンスが言っていることを理解できていなさそうなエムレエイも、その言葉を無視して続けるのだった。
「アグルエを逃がして勝った気にでもなったのかぁ?
アグルエは何やらぼくに借りられるのを恐れて、魔法を使わないと決めていたみたいだがぁ。
ここには、おまえの魔力もあるんだよぉ!」
二人の噛み合わない会話が続く――
その間にもエムレエイは右手を前に出し、魔素を集めるようにその手を光らせる。
借乗と呼ばれる力を発揮し、エリンスの魔力を使おうとするのだが――
「は? なぜ、勇者候補生にもなる人間の……魔力が借りられない!?」
驚いたエムレエイとは対照的にエリンスは冷静なままだった。
「俺は落ちこぼれでも最下位でも、なんと呼ばれようとも気にしてなかったんだ。
だけど今日、逆に今は、自分が落ちこぼれでよかったとすら思えるよ。
魔法を使えないってことは、弱点だと思っていたんだ」
焦ったような表情をしたエムレエイを一瞥し、エリンスは続けた。
「それも含めて……おまえが相手でよかったよ、エムレエイ。
相手がおまえじゃなかったら、俺はまた大切なものを失うところだった」
剣を下段に構えて、エリンスは睨みつける。
「最初に斬る相手がおまえでよかった」
『どうして剣を手にするか。その信念を忘れるな』
それは遠い日、悲しき想いを乗り越えて修行に明け暮れた日々――師匠に言われた言葉。
『半端な気持ちで剣を握ればいつか痛い目を見るぞ』
これは先日、不思議な縁で知り合った――勇者候補生第1位アーキスに言われた言葉。
あぁ、本当にそうだった。
この気持ちは全て自分の甘さが招いたことだ。
勇者がなんのために剣を振るうのか――その答えはまだわからない。
だけど今、剣を振るう理由は――たしかなものとして、ここにある。
――もう目の前で何も失いたくないんだ!
口にはしないエリンスであったが、本気の覚悟を持って剣を構えた。
「教えてやるよ、俺はエリンス・アークイル! おまえを斬る者の名だ!」
――覚悟を決めろ、エリンス・アークイル!
そう自分に言い聞かせ名乗ったエリンスは、剣を振り上げ一歩を踏み出した。
そのエリンスを見て、エムレエイはイライラしたように応戦した。
「エリンス……覚えてやるよ。ぼくもなめられたもんだ。
『借乗』の力がなくたって、ぼくはおまえとは違う! 魔族なんだよ!」
そこで間を取ってから、魔素を腕に集めエムレエイも構えた。
「爪備換爪!」
そう魔法を唱えたエムレエイの左手の爪が、右手同様剣のように伸びて鋭い光を放つ。
相手がどんな魔法を使おうと、関係ない。
エリンスはただ目の前の敵を、睨みつけ、蔑み、後悔の念に駆られる想いを断ち切った。
――ハァ!
強く息を吸い振るった一撃に全身全霊を込めた。
エムレエイは応戦するように両手の爪を構え、その一撃を弾き返そうとする。
だが、エムレエイは弾くことができなかったのだ。
両手を眼前に構えた必死の表情で受け止めるだけ。
鍔迫り合いのようになり、お互いの顔がグッと近づいて――エリンスの視界に入ったのは、怯んだような眼をした哀れな異形の姿だった。
――どうして、ただの人間とぼくの力が拮抗するんだよ!
エムレエイが口にしたわけではない。
ただ、エリンスにはわかってしまった。
『剣を合わせた相手の気持ちがわかるものだ』と師匠はよく口にしていた。
剣士同士の戦いにおいて、剣捌き、視線、そのどれもが会話なのだ、とも聞いたことがあった。
決闘にもそういう意味合いが含まれていることをエリンスは知っていた。
だが今の今まで、それがどういうことなのか、理解できないでいたのだ。
はじまりの街でアグルエとメルトシスが果たした決闘。
メルトシスが楽しそうに剣を振るった傍らで、アグルエもまた楽しそうに剣を振っていた。
あれもそういった会話の一種だったのだ。
エリンスはこのときはじめて、本気で剣を振ったことでそれを体感した。
気持ちの上で既に勝敗は決していた。
エリンスがエムレエイをそのまま斬り伏せようと、両腕にさらに力を込めた――そのときだった。
アグルエから託されて振るった剣、その刃が白く輝いたのだ。
陽光を反射したわけではない。
不思議なことにエリンスの目から見てもその光は、魔力のようなものに感じられた。
何故だかはエリンスにもわからない。
だけど、その輝きが決意を後押ししてくれた。
白く輝く刃の影で――エムレエイは酷く混乱した。
エリンスの剣に圧され、魔素で作り伸ばした爪にヒビが入る。
目前へと差し迫る白い輝きに恐怖を感じたように、「ひぃ」と小さく悲鳴を上げた。
このままでは何かとてつもない力によって、存在が消し飛ばされる。
エムレエイはその瞬間――本能のままに死を悟った。
――ハァァァァァッ!
エムレエイの力が圧され弱まったのを感じたエリンスは、息を吐いて声を上げ、剣を持つ腕にさらに力を込めた。
一閃――そのままの勢いで振り抜く。
白い軌跡を描いた剣先が、爪胴体もろともエムレエイを両断する――
エムレエイと呼ばれた魔王候補生は、そのまま白い輝きを放つ斬撃に飲み込まれる。
「どうして、この、ぼくが、こんなやつに……」
死に際のその声は、光の中へと消えていく。




