魔獅子《ディアボロス》
三十人規模のキャラバンは、隊列を組んで砂漠を進む。
その先頭のほうに位置したエリンスとハシムとヨーラは、先導する長の引くラクラーダについて、砂丘を踏み締めた。
どこまでも続く砂色の海が広がって。代り映えのしない景色にうんざりする暇もなく、容赦ない暑さが襲いかかる。
だが、着実にサロミス王国は近づいているのだと、ハシムが教えてくれた。
垂れる汗を拭いながら、エリンスは憎いほどの眩しい日差しに包まれる青空を見上げた。
「もうすぐよ」
ラクラーダの手綱を引きながらそう言ったヨーラにつられて辺りを見渡してみれば、遠くに灰色の物体が見える。
砂色ばかりの景色に見えはじめた変化に、エリンスの肩の上ではツキノも尻尾を揺らした。
次第に、キャラバン全体がざわざわと騒ぎはじめて、エリンスは横を歩くハシムに声をかけた。
「どうしたんだ?」
ハシムは腰に携えるサーベルの柄に触れながら、手を肩程まで上げて返事した。
「あの岩山が、『砂漠のアサシン』の巣なんだよ」
要は魔物の襲撃に備えて陣形を整えるとのことらしい。
だが、長を中心として騒ぎが大きくなる様子を見て、エリンスもただ事ではない気配を察する。
ハシムとヨーラも足を止めて、何やら眉根を寄せて、騒ぎを見守っている。
ツキノも耳をぴくぴくと動かして、人々の動きに注意を払っているようだ。
「ツキノ、どうした?」
エリンスが聞くと、ツキノは「ふむ」と頷いてから言葉を続けた。
「話し声を聞く限り、どうも様子がおかしいのう」
そう言いながら尻尾を大きく振った。
「様子がおかしい?」
エリンスが質問を重ねると、「うむ」と頷いてこたえてくれた。
「魔物の気配などしないのじゃ」
こう広い砂漠の中ではエリンスにはさっぱり感じ取ることもできなかったのだが、ツキノがそう言うならばそうなのだろう。
ハシムたちも様子がおかしいことに気づいたようで、長に相談するためだろう、キャラバンの先頭へと駆けていく。
筋肉質な身体つきにハシムたちと同じような白いローブを身につけた中年のキャラバンの長が、顎に手を当てながらハシムと何やら相談をはじめた。
少々話し合って、何やら方針を決めたらしい長が、手を振り上げてキャラバン全体へ前進の指示を送った。
そうして進んで、岩山までは数百メートルといった距離へ近づいたところで、キャラバンは再び足を止めた。
「何やらこうも気配がないのは、逆におかしい。様子を見てくることにした」
ヨーラが引いていたラクラーダの手綱を受け取ったハシムが、エリンスに向かって言う。
「あたしは留守番ね」
「こっちは頼む」
ラクラーダがつけている革袋からゴーグルやら籠手やらを取り出して準備をはじめたハシムに、ヨーラはつまらなさそうに手を組んでいた。
「俺もいくよ」
エリンスは一歩前に出て、首元に携えたゴーグルを装着して返事をした。
「それを頼もうと思っていたんだ」
同じようにゴーグルを装着したハシムが口元を嬉しそうに吊り上げて頷いた。
岩山の辺りでは風の流れが強いようで、砂嵐が巻き上がっている様子が見て取れる。
長に何やらもう一度話を通したハシムに続いて、エリンスはキャラバンから離れて進行をはじめる。
数十分ほど歩いたところで、灰色の岩の塊が目前へと近づいてきた。
見上げるほどの岩山には穴が所々開いており、様子をうかがいながら進むハシムに続いて、警戒心を固めたままにエリンスは穴の一つへ足を踏み入れた。
ひんやりとした空気に洞窟の岩肌を撫でながら、少し進むと吹き抜けとなった広間のような場所に繋がっており、岩山の向こう側へと出た。
「うわぁ」と鼻を押さえて顔をしかめたのはハシムだった。
連れたラクラーダが逃げ出そうと暴れるのを宥めながら、「こっちへこい」とエリンスも呼ばれる。
洞窟の出口へ近づくと感じた微かな血の匂いも、近づけば近づくほどに濃くなった。
「なんだ、これ」
漂う腐敗臭と血の匂い。
岩山の壁には巨大な爪でつけられたような跡が目立ち、砂地の上には引き裂かれた巨大サソリの魔物、デザートスコーピオンの数々。
ひっくり返る死骸は、内臓を食い破られるようにして無惨にも転がっている。それも一頭や数頭の話ではない。この岩山に巣を作っていたという『砂漠のアサシン』は全滅しているようだった。
「人の仕業じゃないな」
鼻を押さえたエリンスに、ツキノも辛そうな顔をしながら頷いた。
「全滅しているのか?」
ハシムも驚いたようにして、血生臭い光景を呆然と見つめていた。
首元に巻くターバンの布地を口と鼻を覆うように巻きつけたハシムは、すっかり怯えてしまったラクラーダの手綱を引いて巣穴を進む。
エリンスも後を追うのだが、開けた砂も吹き込む岩山の中は、どこまでいっても無残な姿となったデザートスコーピオンが転がっていた。
「一体、何が……」
一頻り進んで、キャラバンが待機するほうとは逆、岩山の向こう側を眺めたハシムは考えるように足を止めた。
すると、どすん、どすん、と遠くから響く地鳴りが聞こえはじめた。
立っているエリンスが揺すられるような衝撃に、「砂漠でこうも大きな地響きが?」と不安にもなったのだ――。
相変わらずに広がる砂色の光景に、エリンスは目を凝らした。
「なんだ、あれは!」
大声を上げるハシムに、ラクラーダも再び怯えたように暴れ出す。
砂丘を走り回る巨大な影が見えたのだ。
強靭な四足で地を駆けて、太くしなる尾を振り回す。
黒い全身を覆う体毛に、小さく生えた翼の影。
鬣のように伸びる毛並み、どっしりとした体格。
見開く血走った金色の眼、口元より飛び出す牙。
跳ねるように駆け回るそいつに連動して、どすんどすんと地鳴りが響き渡る。
遠方から見てもわかる迫力に、すっかりハシムも怯んだように腰を落とした。
黒い獅子の姿をする魔物――だが、それよりも気にかかったのは、その魔物が走っている目的だ。
巨大な黒い獅子の魔物が追いかけているのは、小さく見える影――四足で駆けるラクラーダの背にしがみついている人影が見えた。
「あれは、もしや……まずいのう!」
ツキノも肩の上で叫んだ。
エリンスは尻餅をついたハシムの手からラクラーダの手綱をかっさらう。
「エリンス、何を!」
「ハシム、借りるぞ!」
流砂が見えて、逃げる人影のラクラーダが足を取られて減速する。
振り上げられた黒い獅子の大腕、鈍く光る爪がエリンスにも見て取れて、振り下ろされたそれがラクラーダを切り裂いた。
滑り落ちた人影は吹き飛ばされながらも、受け身を取って起き上がり、振り返ることなく走り出す。
――迷っている暇もない!
手綱を引いて暴れようとするラクラーダに寄ったエリンスの肩の上から、ぴょんと跳ねたツキノがラクラーダの頭に飛び乗った。
ツキノが何やらラクラーダに言い聞かせるように語りかけて、その隙にエリンスはその背に跨る。
馬のように走ることができる魔物ではないものの、人の足で走るよりは幾分か速い。
再び巨大な爪を振り上げる黒い獅子の魔物。近づいて目視すれば、4メートルはあろうかという巨体。
ラクラーダの頭の上にしがみついたツキノが口を開いた。
「魔獅子、どうしてこんなところに!」
エリンスもその姿は、書物の中で見たことがあった。
魔獅子。通常、人が立ち入るような場所には姿を現さない伝説上の魔物だ。
暗い森や山奥、または地底で暮らす魔物の中でも上位種の存在。一説には、魔竜に匹敵するほどの力を持ち合わせているとも言われている。しかし、その性質は凶暴そのモノ。
対話ができる魔竜とは比べていけないものだ、と、目の前の血走る眼を見つめてエリンスは確信する。
「『砂漠のアサシン』が喰われたのって!」
「こいつの仕業じゃ!」
ラクラーダの背に跨って駆け寄ったエリンスは、速度を落とさないままにラクラーダの背を蹴って跳び上がった。
その隙にラクラーダを言い宥めて操ったツキノが、走る人影に追いついた。
「乗るんじゃ!」
灰色の外套を頭から被って顔を隠した人影は、急なことに驚いたようにしたものの頷いて、ツキノが言った通りラクラーダの手綱を握る。跳び上がった外套はラクラーダに跨った。
その姿を横目にしたエリンスは、跳び上がった勢いで腰に携えた願星を鞘から抜いた。
蒼白に煌く剣身が、眩しいほどの陽光を反射して――その輝きに気を取られたらしい魔獅子は標的をエリンスへと変えた。
――ゴゥルルルルゥゥゥ!
牙の隙間より聞こえる腹の底まで響く唸り声には、恐怖を伴う衝撃があった。
だが、エリンスは怯むことなくその眼前へ飛び出して、口元を吊り上げながら真っすぐと剣を構える。
外套を狙って振り下ろされた腕、生まれる僅かな隙をついて、エリンスが剣を振るう。
身体を捻らせた魔獅子は、その強靭な尻尾を振り払い、エリンスの斬撃を防いだ。
吹き飛ばされそうになる衝撃も、ただ下方へ着地する勢いに任せて相殺し、エリンスは口元を押さえながらゴーグルを外して首にかけた。
砂に目を取られる危険性はあるが、ゴーグルをした視界越しでは一瞬の間合いを見逃しそうだった。
対して、体勢を立てなおした魔獅子は血走る眼を向けたまま姿勢を低く構える。
――ゴゥルルル!
再び耳をつんざく唸り声に、エリンスは注意を払ってその体躯を改めて眺めた。
鋭い牙、巨大な爪、しなる尾。全身の筋肉が獲物を狩るためだけに発達している。
理性を全く感じない凶暴さ、野生を体現するような威圧感。
だが、今のエリンスにとっては、そんなもの恐怖するに値しない。
「命の取り合いをやろうって言うんだ、恨みっこはなしだ」
――ガウゥルゥゥ!
口を大きく開けて返事をするように声を上げた魔獅子に、エリンスも砂地を蹴って跳び上がった。
長い尾を振り払い攻撃を仕掛けてくる魔獅子。
素早い攻撃だが、それを見切ってエリンスは跳ぶ。
続けて振り上げられる巨大な右腕に、空中でエリンスは願星を振り抜き応戦する。
鈍く輝く鋭い爪だが、その力に圧し負けず、エリンスは横一閃――肉を断つ。
噴き出すどす黒い血飛沫に、呻き声を上げた魔獅子。
しかし冷静なままにエリンスはもう一度身体を捻って勢いをつけると、斬り払って振り抜いた。
「蒼星波!」
込める魔素は、心の内より溢れる白き炎。
衝撃波となった蒼き斬撃が、魔獅子の胴体へ突き刺さる――ように思えた。
魔獅子は飛び退き、辛うじてといったところでその攻撃をかわして、エリンスも同時に着地した。
だが、魔獅子も避けきれはしない。巨体に掠めた衝撃波が、その硬い皮膚を貫いて、再びどす黒い血飛沫が散る。
――動きは早いが、身体が大きい分、避けることもできない!
姿勢を低く構えたエリンスは、冷静に魔獅子の動きを見定めた。
続いて、魔獅子は怒りに身を任せるようにして、牙を突き立て噛みつこうとする。
単調な本能任せの攻撃は、今のエリンスにとっては見切るのも容易い。
駆け寄って砂の上を滑ったエリンスは、その足元へ転がり込むようにして牙をかわす。
腹の下へ滑り込んだところで、上体を上げた魔獅子は左腕を振り上げた。
薙ぎ払われる巨体に、エリンスは地面を蹴って跳び上がる。
先ほどつけた右腕の傷と胴体の傷が響くのか、魔獅子の動きは初動ほど早くない。
地上からは3メートルといったほどの高さまで跳び上がったエリンスは、まさに眼前に迫った巨大な瞳を睨みつけた。
血走る金色の獣の眼が、驚くように見開かれた。
エリンスは迷いも捨てて腕に力を込める。そのまま振り抜くは、蒼白に輝く縦一閃――。
眼球を抉る刃、飛び散る血飛沫。
唾を垂らす大きく開かれた口からは、地を震わせるほどの悲痛な叫び。
エリンスはすかさず着地をすると、姿勢は低くしたまま、後方へと倒れそうにもなる怯んだ巨体へ駆け寄った。
蹴る砂に慣れない感触はあったものの、しっかりと芯は捉えて、もう一度跳び上がる。
構えた願星は、蒼天の蒼へと一際輝く。
そのまま腹に向かって横に振るうは――「魔導霊断!」――『白き否定の炎』を纏う鋭い剣閃。
魔物であろうと魔素が体内を駆け巡っている。その流れを断ち切りコアを砕く白き衝撃波を伴う一撃に、魔獅子の身体は真っ二つに切り裂かれた。
――どすん、どすん。
最期の地響きを鳴らして、黒い体毛に覆われた魔獅子の岩山のような巨体が二つ横たわる。
「悪いな」
その様子を横目に見たエリンスは、言葉を交わすことのできない魔物にせめてもの一言を添えた。
魔物の使命も、魔竜には聞いている。それでも人を襲うというのならば、わかり合うことができない以上、こうするしかないのだ。
鮮血を浴びた願星を力強く振るって血を払うと鞘にしまって、エリンスはツキノと『逃亡者』が乗るラクラーダの元へと駆け寄った。