忘れられた地
エリンスとアグルエは川沿いに下流を目指して進んでいた。
大きな石が転がる河原は、木々が生い茂る森の道とは違って、空が開けて明るい分視界がいい。
ざぁざぁと流れる川の音が心地よくも聞こえた。
エリンスが目覚めた地点より少し進んだ開けたところで、自分たちが今いるだいたいの方角がわかった。
デムミスア山脈と思われる山々――その中でも特に目立った形のしている尖った山、通称槍山を視認することができた。
港町ルスプンテルは、旅立ちの地ミースクリアよりデムミスア山脈を挟んで西の方角に存在する。
その中間地点である槍山の反対側が見えたということは、少なからず川を下ることで山脈越えには成功したということだ。
位置関係はわかったが、そこは人のめったに立ち入ることのない森のようで道なき道を進むしかないという状況。
しかし同じ場所に留まっていれば、いずれエムレエイに追いつかれるだろうし、魔物が現れるかもしれない。
エリンスはそう考えながら、アグルエに湧き出てきた疑問を投げ掛けた。
「エムレエイはどうやってアグルエのことを追って来たんだ?」
「そこの説明はし忘れたね。
魔族の魔素は固有のもので、空気中に存在する魔素とは別物なの。
だからそれが探知できちゃうやつには、探知できちゃうものなの」
「へぇ」という返事をしながらエリンスは、アグルエの手を取って足場の悪い川沿いの森を進む。
「この『魔封』と呼ばれる石を身につけていれば、その固有の魔素も吸収して蓋をしてくれるんだけどね……。
決闘のときに運悪く外れてしまったし……。
『魔封』は一度外してしまうと、体内の魔素を吸収してくれるまである程度の時間が掛かってしまうみたい」
アグルエはエリンスに胸元のペンダントの宝石を見せながら語る。
エリンスはその宝石に、最初に見たときと同じような意識すらも吸い込まれるような不思議な雰囲気を感じた。
それが、アグルエの魔素を吸収しているが故の現象なのだろう。
「それが言っていた『リスク』ってことか」
「わたしも決闘では上澄みだけの魔素を使ったつもりだったけど、それでもわかるやつにはわかっちゃったみたい」
そう言うアグルエの語り口で、エリンスは決闘のときのアグルエの魔力を思い返していた。
あれで上澄みだけ――本気を出したら一体どうなってしまうのだろう、と。
エリンスは「だったら」と思い、続けて疑問を口にした。
「エムレエイは俺らが逃げるときに使ったアグルエの魔素も追えるってことか?」
「あの川の流れは激しかったから、すぐに追うことはできないと思う。
けどエムレエイは魔王候補生の中でも魔素に関して長けたやつだから……。
念には念を入れて、エリンスが目覚める前に周囲にわざとわたしの魔素の形跡を置いてきた」
アグルエの言葉から推測するにそれでも完全に逃げ切れたと安心することはできなさそうだった。
「もう時間も経ったから『魔封』がわたしの魔素を全部吸収してくれはしただろうけどね」
話を続けながら、二人は手を取り合って大きな岩を乗り越えた。
そしてその先、森の中は踏み固められた土と平坦な道が続いており、空を覆う緑もやや薄い。
歩きやすそうな道についたか、と考えながら、エリンスが返事をしようと思った、そのときだった。
――キャャァァァァァァァァ!!
それまで静かだった森に鳴り響く叫び声。
「人の悲鳴だっ!」
エリンスは焦りを感じたのと同時に、その悲鳴に希望をも見出した。
この近くに人がいるということ。
それはすなわち人里も近いということ。
だがまずは、悲鳴の先にいち早く向かわなければならないだろう。
アグルエもエリンスと顔を見合わせて頷いた。
二人の考えは同じだった。
エリンスとアグルエは声のした方向へと開けた道を駆け出した。
◇◇◇
だいぶ川を下って来たからだろう。
立ち並んだ木々の合間が開けて、青空がのぞいている。
足元も踏み固められた土道ができており、走りやすかった。
駆け出した二人はすぐに、悲鳴の聞こえた現場へと辿り着く。
状況はまさしく危機一髪――。
3メートルはある大きな熊のような姿をした魔物、ギガントベアが両腕を広げて、木の下で丸く縮こまってしまった女の子を襲おうとしている瞬間だった。
エリンスとアグルエは背後を取った形となったため、ギガントベアは目の前の女の子に夢中でエリンスたちには気づいていない。
アグルエはその隙に右手の指先より、小さなガラス玉サイズの黒い炎の玉を作り出して発射する。
魔素の痕跡をあまり残したくないため出力は最小限――それでもアグルエの魔法は見事、ギガントベアの右腕に当たり弾丸のように突き抜け貫通する。
――グウゥゥォォォオ!
その痛みに耐え兼ねたギガントベアが雄叫びを上げると、エリンスたちのほうへと振り返った。
怒りの矛先が女の子からエリンスとアグルエに変わったようだ。
「大丈夫!?」
第一声、声を掛けたのはアグルエだった。
声も出ないほど怖い思いをしたのだろう。
アグルエのほうを見て、泣きべそかきながらこくこくと首を振って返事をした女の子は見たところ12歳くらい。
一人で魔物の出る森に入るものでもないだろう、とエリンスはやや違和感を覚えた。
それに、ギガントベアは明るい森の中に出る魔物でもない。
もっと暗く深い森の中または山中にいて、凶暴ではあるものの人里には近づかない魔物のはずだ。
それも――エリンスが覚えた違和感だった。
「エリンス!」
アグルエがエリンスを呼ぶ。
エリンスはただ一回、頷いて返事をした。
エリンスは覚悟を決めて剣を抜くと、そのままの勢いで剣をギガントベアに向けて放ち、投げ飛ばす。
それは到底人間相手には使うことのできない荒業な剣技。
ギガントベアもその速度に反応することができず、今度はアグルエの魔法が貫通した右腕とは逆――左腕に剣が突き刺さる。
――ウウゥゥオォォォグゥゥ!
両腕を貫かれ悲痛な雄叫びを上げると、目を血走らせたギガントベアは右腕を振り上げ、矛先をエリンスへと絞った。
鋭い爪を立て、そのまま押し潰そうともするような攻撃。
剣を投げてしまったエリンスはその攻撃を横にかわし、すれ違い際――左腕に刺さったままとなった自身の剣を引き抜いて、ギガントベアの背後へと飛ぶ。
身体の大きなギガントベアは、エリンスの速度に追いつけない。
背後に回ったエリンスは、そのままの勢いで身体を回転させて横一閃――剣を振り抜いた。
両腕のダメージと合わせて、エリンスが背中に与えた一撃は致命傷へと至る。
ギガントベアはそのまま地面に倒れると、息も絶え絶えといったように動きを止めた。
小さなころよりギガントベアを狩り慣れていたエリンスは、その弱点も知っていた。
背中の筋肉の下にある魔素の核、『コア』がギガントベアの弱点なのだ。
魔物とは体内に魔素を蓄えることのできる獣。
その魔素を蓄えるための器官、コアを破壊してしまえば、どんな魔物であっても生命活動が止まる。
「わりぃな」
エリンスはどこか人を襲う魔物相手であっても、そういう気持ちを覚えてしまう。
だから、小さく誰にも聞こえないように吐き出した。
エリンスとギガントベアの勝負は一瞬でついた。
その間にもアグルエは女の子の元へと駆け寄った。
「大丈夫?」
「うん……」
足腰立たず声も出ないほどに怖がっていた女の子が静かに返事をした。
アグルエは女の子を抱えて、エリンスのほうへと寄る。
エリンスは辺りに生えていた大きな葉を一枚拝借し、ギガントベアの血で汚れた剣の刃を拭った。
アグルエはそれを見てから口を開いた。
「わたしたち息ピッタリね」
「咄嗟だったしな、あはは」
エリンスはそれに笑ってこたえた。
その二人の様子と、横で動かなくなっていたギガントベアの顔を恐る恐る覗いていた女の子は、そこでペコリとお辞儀をしながら口を挟む。
「あの、ありがとうございました!」
「当然のことをしたまでだよ。無事でよかったけど、魔物も出る森の中一人でどうしたんだ?」
エリンスは女の子に返事をしながら剣を収めた。
「腰を痛めたおじいちゃんのために、薬草を取りに来たところだったんです。
いつもは魔物なんていない場所のはずなのに……」
妙なことを言っている、とエリンスは感じた。
しかしエリンスは、それよりも近くに人里があるということに安心する。
「近くに村でもあるのか?」
「はいっ! ありますよ!」
女の子はすっかり元気を取り戻したように明るい返事をしてくれる。
そこで「ふぅ」、と安堵のため息をついたのはアグルエだった。
河原で食事ができたとはいうものの、ゆっくり休めたわけでもなかった。
近くに村があるのならば助かるな、とエリンスは思った。
その二人の顔色をうかがって、女の子は再び口を開く。
「わたし、レミィって、レミィ・デミンスターって言います。
近くにはバレーズという村があります!」
よければ案内すると言ってくれたレミィにアグルエは「ぜひ!」と返事をするのであったが――。
エリンスはそこでも違和感を覚え、考えるのであった。
勇者協会が作った地図には、小さな町や村であっても記録されている。
記憶の中――エリンスが見たことのあるサミスクリア大陸の地図には、『バレーズ』という村は存在しなかった。