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震撼するもう一つの事件


 エリンスがシドゥの名前を聞いて頭を押さえたのと同時に、アグルエは立ち上がった。


「魔族の軍団? どうして……?」


 驚いたようにして声を上げて、途端に力が抜けたようにして腰を落とす。

 状況を聞くだけに、『魔王軍の進行』――そう捉えられかねない事態だ。

 レイナルは首を振ってからこたえる。


「詳しくはまだわからない。だが、幻英ファントムの姿が目撃されたことも報告に受けた。

 そう考えるとやつらの狙いは、セレロニアを襲うことも、一つの前座でしかなかったのかもしれない」


 それもまた幻英ファントムが絡んだ緊急事態。

 セレロニア公国でも姿を見せただけのシドゥとシャルノーゼのことは、ずっと引っかかっていた。

 その狙いが別にもあったということを意味するだろう。


「お父様が動いたとは考えられない……」


 呆然と目を見開いたまま、何かを考えるようにしたアグルエがそう零す。

 ツキノも机の上で尻尾を揺らし、「うむ」と力強く頷いた。


「あぁ、アルバラストの手の者じゃないだろう」


 レイナルも頷いてこたえる。


「……シャルノーゼの仕業だ。それに、魔界では一体何が」


 心配そうに考え込むアグルエに、エリンスは掛ける言葉を見つけることができない。

 現在の魔界が不安定な状態にあることはアグルエから聞いていた。とはいえ、アルバラスト、現在の魔王が失墜したとなれば話は変わってくる。


「やつらが何をしようとしているのかはわからぬ。じゃが、アルバラストもそう易々と魔王の座を明け渡すとは思えぬ」


 ツキノも顎に前足を当てて考え込むようだった。


「はい、それに魔界にはお兄様もいます」


 アグルエの唯一の肉親とも言える兄。魔界には魔王の側近、魔王五刃将まおうごじんしょうも存在している。一筋縄ではいかないことのはずだ。

 ただ、そうしてラーデスアに魔族が侵攻したということは、魔界でも何か重大な事態が起こったことを意味している。

 そう聞くと、ますます訳がわからなくなることがある。


「シドゥが……?」


 エリンスはその名を呟いて考えた。

 シドゥにしてみれば、ラーデスアは自分の国であるはずだ。

 魔族の軍団を手引きする手伝いをする理由がわからない。


「状況はどうなっておるのじゃ?」


 ツキノはツキノでそちらの話を気にしているようだった。

 レイナルは考えるようにしてこたえる。


「詳細は不明だが、ファーラスの騎士団も遠征に出てラーデスアの援軍に回っていると聞いた」


 ファーラスで起こった事件をきっかけに、互いに緊張状態であったはずの二国だ。

 だが、新たなる敵――魔族の軍団、それも強敵が現れたともなれば、人間たちは協力し合うしかなかったのだろう。


「伝説上の話みたいだ……勇者と魔王、魔王の再臨……」


 先ほど見た新聞の見出しが頭を過る。

 あれは、幻英ファントムのことを指しているものではあったのだが。


「激しい戦いになっておるか……」


 ツキノも心配するようだった。


幻英ファントムの狙いは、わたしの力じゃなかったの……?」


 不安そうにしながらもう一度立ち上がったアグルエは、船室の小さな窓より空を見上げる。

 エリンスはそっと立ち上がると、その横に寄り添って、アグルエの震える左手を右手で取った。


「ん」と声を漏らしたアグルエは、右手を重ねてくる。

 エリンスはぎゅっと握り返すと、二人は目を合わせて頷き合った。

 そうしていないと今すぐにでも飛んでいきそうだ、とエリンスは思ってしまった。


幻英ファントムの狙いはわかったようでわからない。掴めないということだ……」


 レイナルは俯いて「はぁ」とため息を零した。


「被害は? 戦争になるのか?」


 人間と魔族の軍の衝突――規模で考えれば、それこそあるいは200年前、伝説上の話みたいに。

 エリンスの中で生まれた不安が膨らんでいく。


「わからん、戦いがはじまっているのはたしかだろうが……」


 歯切れの悪い返事をしたレイナルに、エリンスは慌てて言葉を続ける。


「南に向かっている場合じゃないんじゃ……」


 今すぐにでも幻英ファントムを止めたい。

 エリンスはアグルエの手をぎゅっと握る。同じ強さで握り返してくるアグルエに、二人の気持ちは一緒だった。

 だが、レイナルは首を横に振ってから顔を上げた。


「いや、エリンス。まずは一つずつ越えていかなければならない」


 レイナルの力強い視線に、エリンスとアグルエは表情を強張らせる。


幻英ファントムが持つ勇者の力に対抗するためには、な。魔竜にも言われたんだろう?」


 真剣な表情に、エリンスもアグルエも頷いてから手を放して椅子に座りなおした。


 魔竜ランシャに言われた言葉――二人でなら軌跡のその先へ辿り着ける。

 そのためにも、全ての勇者の軌跡を巡る必要がある。世界の歪みを正すためにも、それは避けては通れない道である。


「ラーデスアにはルマリアも向かったはずだ。勇者協会も既に動いている」


 二人を安心させるように言うレイナルに、エリンスは声を上げた。


「シスターマリーが?」


 アグルエと顔を見合わせて、アグルエも「それなら」と頷いた。

 彼女が動いてくれているというのなら少しは安心できる、と。


「エリンス、おまえは勇者候補生としての使命を優先したほうがいい。

 いてはそれが、幻英ファントムを止める対抗手段に成り得る。

 幻英ファントムが持つ白き炎の力は、今やツキノの力だけ(・・)では止められない」


 レイナルが力強く語る言葉に、「あ、そっか……」と頷いたのはアグルエだった。

 ツキノも「うむ」とエリンスのことを見つめて頷く。

 エリンスは何をみんなして見つめてくるのだろうか――と考えて。


「エリンス、おまえの中にはツキノの持つ白き否定の炎と、勇者の残した白き破壊の炎の残滓が残っている」


 レイナルにそう言われて、エリンスは胸に手を当てて考える。


 アークイルの血を引くこと。

 勇者候補生となり、サークリア大聖堂で聖杯を手にしていること。


「二つの力が……?」

「あぁ、それが幻英ファントムに対抗する最大の手段と成り得る」


 レイナルは力強く頷いた。

 エリンスとしては未だ半信半疑ではあったのだが。


「本当は、俺としてはおまえを勇者候補生にしたくはなかったんだがな」


 レイナルがエリンスの思ってもいないことを口走り、「え?」と単純に疑問になった。


「シルフィスにまで頼みよって」


 小言をぶつけるツキノに、レイナルは笑って返事をした。


「そこはおまえと意見が割れたところだったな、ツキノ」

「エリンスはなるべくしてなると思っておった。止められるものでもないわ」

「まあ、その辺りはミレイシアに任せたからな。母の判断のほうが正しかったってことだな」


 勝ち誇ったように笑うツキノに、エリンスはすっかりと二人の話から置いてかれていた。


「……どういうことだよ」

「白き炎の力を二つ持つことで、どうなるかは全く想像ができない話だったというだけだ」


 エリンスが聞くと、レイナルは隠すようなことをせずにこたえた。


「中途半端な覚悟で二つの力を手にしたら、力に呑み込まれてしまう危険性まであった。燃え尽きるか、死ぬか。本当にどうなるかは想像ができなかったんだよ」


 何かとてつもなく恐ろしいことが自分の身に降り掛かっていた可能性の話をされて、エリンスは「は?」と言葉を漏らした。

 横で聞いていたアグルエも身体を震わせて、エリンスのことを見つめていた。


 神の叡智と呼ばれる力には、それだけの危険性まであったということだ。


「並大抵の覚悟でできることじゃない。でも今、二つの力を有しても、おまえが無事に旅をして、俺の立つ場所(・・・・・・)まで追ってきてくれたことを、嬉しく思うよ」


 考えていくうちに段々と頭の中で点と点が線で繋がっていく。それが――当初シルフィスが、エリンスを勇者候補生に推薦しようとしなかった理由。

 レイナルがシルフィスと一緒に旅をしていながらも、勇者候補生にならなかった理由でもあるのだ、とエリンスは悟った。


「白き否定の炎、白き破壊の炎……」


 今それが己の中にあるということをエリンスは噛み締めて、胸に手を当てて重みを確かめる。


「そう深刻に考えなくていい、旅の目的は何も変わらないさ」


 レイナルは笑って言う。


わらわもついておる」


 机の上より跳び上がり、エリンスの頭の上に飛び乗ったツキノが頼もしい。

 エリンスが不安に視線を泳がせても、目が合ったアグルエは目を細めて笑ってくれた。


 青の軌跡で願った答え――支えてくれる人たちがいることが、エリンスとしては単純に嬉しくもあった。


 ならば今――やるべきことは、やはり決まっているのだ。

 世界は揺れ動く。事態がどのように転がっていくのかは、今のエリンスたちにはわからない。

 ただ刻一刻と、船は南へ――サロミス王国にある緑の軌跡へと近づいている。


 話を終えて、ただアグルエが不安そうな顔をしていたことにもエリンスは気がついていた。だけど翌日、あんなことになるとは思いもしなかった――。


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