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追った背中


『ララン』とマリネッタが呼んだ名には、エリンスも聞き覚えがあった。

 ララン・Sセレロニア・グンブート。

 勇者候補生第9位、Sを冠する者。

 グンブート家を継ぐ一人娘であり、先ほど出会ったファリタスの孫娘でもある。


 ここ――セレロニア魔法学院で優秀な成績を修め、勇者候補生に選定されて、第9位のランクを取った候補生。

 マリネッタやロンドウに及ばなかったものの、優秀なはずである彼女は、軌跡を一つも巡ることはなくセレロニアへ帰ってきたのだという。

 それがファリタスの虫の居所が悪い原因の一つだということは、エリンスにも察することができた。


 マリネッタの案内でセレロニア魔法学院の廊下を進むエリンスとアグルエとツキノ。

 階段を下りて地下へと進み、清潔感ある白い大理石の廊下を進んで、とある一室へと近づいたところで声が聞こえてきた。


「では、わたし、取ってきますね!」


 ガラガラと開く横開きの戸。

 弾むような声を上げながら飛び出してきたのは、白衣を羽織った少女だった。


 赤茶色のセミロングの髪を揺らして、ずり落ちそうになる丸眼鏡を上げる仕草。

 眠たげに開かれた目に、陽の光を浴びていないような白い肌がやや不健康なように映る。

 吊り上げた口角は先ほどの弾む言葉同様嬉し気で、眩しいものを感じた。


 部屋から飛び出してきた少女は前を見ていなかったようで、ちょうど訪れたマリネッタとぶつかりそうになった。


「おっとと。マリネッタ! どうしたの?」


 声から発せられる活力、やる気に満ち溢れたような様子。


「どうしたのじゃない、ララン、あなたも呼ばれているのでしょう」


 マリネッタがどうして訪ねてきたのかその理由にもすぐ思い当たったらしく、白衣の少女――ラランは「あぁー」と唸ってから頷いた。


「そうだった、つい没頭すると忘れるの」

「全く、あなたらしいけれど」


 マリネッタは「はぁ」と首を振ってため息を吐く。

 ラランはずり下がる眼鏡を指でくいっと上げて、頭を掻いて恥ずかしそうにしていた。


 エリンスはただ横から二人のやり取りを眺めていたのだが、ラランは「おや? ん? んん?」と、マリネッタの横にいるエリンスに気づくなり、頭を捻るようにして顔を近づけてきた。

 エリンスが表情を強張らせ身構えると、再び眼鏡をくいっと上げる。目を丸くするラランは何やら不思議そうにしながらも、「ふふん」と笑みを零して嬉しそうだった。


「時間、もうすぐよ」


 マリネッタはラランのその様子も気にしないようにして言う。


「うん、でもちょーっと待って!」


 そこでエリンスから一歩距離を取ったラランはそのまま言葉を続けた。


「今、大先生(・・・)のお手伝いをさせてもらっているので!」

「大先生?」


 マリネッタが不思議そうに聞き返して、エリンスもその言い方にはちょっと引っ掛かりを覚えた。


「そう、すごい魔術知識を持っているの! ちょっと待ってて!」


 白衣の裾を揺らして廊下を走っていくララン。

 あっという間にその後ろ姿は見えなくなり、マリネッタが「あ! ちょっと!」と呼ぶ声も届いていないようだった。

「はぁ」と大きくため息を吐いたマリネッタを見て、アグルエが廊下に貼られていたポスターを指差す。


「廊下は走っちゃいけないって書いてあるよ」


 わかりやすいようなタッチで描かれるポスターには、大人に注意される廊下を走る子供の姿が描かれている。


「ほんと、いつも怒られてるんだから。あの子はそそっかしくて、危なっかしいの」


 マリネッタは困ったように笑いながら返事をした。

 エリンスのほうへと顔を向けるアグルエ。


「彼女も、勇者候補生?」

「あぁ、勇者候補生第9位」


 それにこたえたエリンスの横で、首を傾げたマリネッタが一歩を踏み出す。


「大先生って……」


 その言い方が妙に気に掛かって、開けっ放しにされた横開きの戸の向こう、エリンスもそこへと近づいて研究室の中へと顔を向けた。


 窓がない部屋がないラランの研究室。

 壁に向かって置かれた長机には様々な研究機材が並べられており、ガラス戸の棚の中には薬品や鉱石などが並べられている。

 机の上には散らかる書類、部屋の中の至る所には山のように積まれる本類。

 ただ、部屋の中心部は綺麗に整頓されているようで、狭い部屋という印象はなかった。

 廊下と同じような大理石の床の上には赤いカーペットが敷かれている。


 入口から部屋の奥に備えられた机に向かって一直線――研究室を眺めたエリンスの視点はそこに留まった。

 机の上に置かれた機材を触っている丸椅子に座った男の猫背な背中が見えた。


 首筋まで隠すように伸びた黒髪、隙だらけに見えて一切の隙が見えない後ろ姿。

 灰色のコートを羽織ったまま、熱中したようにして頭を下げて集中していて――。

 エリンスは一目見てその背中に――幼き日の記憶が蘇る。


『エリンスは、いつも何をして過ごしているんだ?』

『父さんの送ってくる本を読んでる!』


 小さい頃、負ぶってくれた背中。

 肩車をしてくれて、見下ろした頭頂部。

 一緒に過ごした時間は、決して長いものではなかった。

 だが毎度毎度、いつも自分のことを考えてくれているような優しい眼差しを、エリンスはその背中に見ていた。


 呆然として時間が止まったかのような感覚に一歩を踏み出せなくなったエリンスの横、アグルエの腕の中で尻尾を膨らませたのはツキノだった。


「この、たわけが!」


 勢いよくアグルエの腕の中より飛び出した白い狐は、見事なハイキックをその背中へお見舞いした。


「いてぇ!」と小突かれた男はびっくりしたように飛び跳ねて、ツキノは背中を蹴った勢いで男の頭の上に飛び乗った。

「って、なんだ、ツキノか?」


 不思議そうに頭上を見上げて振り返った男――レイナルはかりかりと頬を掻いて、分が悪そうな顔をしている。


「なんだ、ではないわ!」


 珍しく声を荒げるツキノに、エリンスはようやく意識を前に向けることができて、一歩を踏み出した。


「父さん……」


 口からようやく零れ出た言葉。

 もう何年も会っていなかった自分とよく似た顔の父を見て、エリンスは目を擦る。

 そこでようやく、レイナルもエリンスに気づいたようだった。


「……追ってきたか」


 口角を吊り上げるレイナルは嬉しそうにして、ただ、エリンスの横にいたアグルエを見て、驚いたように目を見開き視線を止めた。


「エリンスのお父様?」


 見つめ返したアグルエは首を傾げて、だが、レイナルのその様子には身に覚えがなさそうだった。


 時が止まったかのように感じた一瞬、エリンスには緊張が走った。

 旅の目的の一つになった父との再会。

 だが、そこには――それ以上の意味があったらしい。


 ツキノは怒ったようにレイナルの頭の上で飛び跳ねていたが、レイナルは呆然とした様子で立ち上がって、ただただアグルエのことを見つめていた。




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