湯上り団欒
大きな柱に沿って、木のベンチが並べられただけの簡易的な待合室。
右と左に分かれて続く通路には、それぞれ『ゆ』と描かれた青い暖簾と赤い暖簾が目に入った。
エリンスはミルファシアより借りた浴衣と呼ばれる服に袖を通して、ベンチに腰掛ける。
生地に模様の入ったグレーの浴衣に紺色の帯。
薄着過ぎないかとも思ったものだが、温泉上がりの空気にはちょうどいいものだった。
ポカポカと身体の芯から込み上げる温かさに心まで解される。
目を閉じて、先ほどの温泉内でのやり取りを思い出す。
ロンドウのことを誤解していたのかもしれない。
「先に部屋へ戻っているよ」と脱衣所を出ていったロンドウは、エリンスが思ったよりもあっさりとしていた。
彼も彼なりに背負うものがあるはずで――だが、全てを受け入れている物腰の柔らかさには、彼なりの信念を感じた。
エリンスとしてはさっぱり理解ができないものだったが、だからこそ、苦手意識を持ってしまったのかもしれない。
アグルエが初対面で『悪い人ではなさそうだね』と言った言葉を思い返し、それもそうだ、と納得するのだった。
「気持ちよかったのう」
「うん、ポカポカだよ!」
エリンスが一人考え込んでいると、通路のほうよりツキノとアグルエの楽しそうな声が響いてきた。
「セレロニアでも、ここにしかないものだからね」
赤い暖簾をくぐって顔を見せたマリネッタに続いて、アグルエとその腕の中に抱かれたツキノが姿を見せる。
二人が着ている浴衣もエリンスが着ているものと同じ、グレーのモダンなものではあるのだが、女性陣が着こなすだけでまた違ったものに見えるものだ。
乾かした青い髪をアップにまとめて、キリッと浴衣を着こなすマリネッタ。
浴衣の上からえんじ色の半纏を羽織って、同じように金髪をアップに後ろで結うアグルエ。
頬を上気させるアグルエは満面の笑みを浮かべている。
すっかり気も抜けている無防備な様子で、エリンスとしてはドキドキとしてしまった。
アグルエの腕の中に抱きかかえられるツキノも満足そうに耳をぴくぴくと動かして、毛並みもふわふわで幸せそうな顔をしている。
「待たせた?」
マリネッタに聞かれて、エリンスは慌てて立ち上がりこたえた。
「いや、全然」
「髪を乾かすのに時間が掛かっちゃうからね」
マリネッタはアップにした髪を撫でながらそう言う。
温泉のおかげで顔が熱くなるのを悟られないことが、エリンスとしては救いだった。
「ゆっくりできた?」
解れきったゆるゆるなアグルエの笑顔に、エリンスはつい笑ってしまって、優しく返事をする。
「休めたよ」
そうこたえたエリンスの顔を見て、アグルエもツキノも嬉しそうに笑った。
アグルエもゆっくりできたのだろうことは、その顔を見れば一目瞭然だ。
そのエリンスとアグルエのやり取りを、マリネッタは薄っすら笑みを浮かべて眺めていた。
◇◇◇
温泉で休んで一息、その後エリンスとアグルエを待っていたのはミルファシアとブレイルズ家によるおもてなしの連続だった。
髭を蓄えて厳格な様子で浴衣を着こなす初老の当主、ベルロウの厳しい目には緊張したものだが、エリンスたちのことを快く迎え入れてくれた。
「今宵は盛大に、ゆっくりとしていってくれたまえ」との言葉に、エリンスはアグルエと顔を合わせてから頭を下げた。
大広間に集められた一行は皆同じ、ブレイルズ家手製の浴衣姿。
この日、ブレイルズ家に滞在することとなったのは、エリンスとアグルエ、ツキノ、マリネッタに加えて、ロンドウと勇者協会の使いであるゼルナ。
ロンドウの父であるベルロウ・S・ブレイルズ。
伯母であるミルファシアにミルファシアの夫であり、ベルロウの弟、バクロウ・ブレイルズ。
執事のデントやブレイルズ家の仲居さんも加えて、夕食会は大勢の人が集まる一大イベントとなった。
並べられた座椅子は十を超え、既にそこにはそれぞれ小さな机に乗せられた料理が並んでいる。
小奇麗な細かいそれらが一見食べられるものなのか、エリンスには判断できなかったのだが、マリネッタが「全て食べられるわよ」と笑いながら教えてくれた。
エリンスの隣の席にはアグルエとツキノ、その向こうにマリネッタ。
畳敷きの空間を開けた向かいの席では、ロンドウが胡坐を掻いて座っている。
皆一様に料理を前にして席へとつき、当主ベルロウの声を合図にわいわいと酒などの飲み物を手に、盛大に乾杯を上げた。
次から次に出てくる料理にアグルエは目を輝かせっぱなし、ツキノもツキノで浮かれた様子で、マリネッタの連れている水瓶様と戯れていた。
特別祝い事があったわけでもない。
むしろ『緊急事態』という言葉を前に、重苦しいものを感じてしまいはする。
だが、広間はそのようなことを感じさせない賑わいを見せている。
こういう時間もいいものだな、とどこか他人事のようにその光景を目に焼きつけたエリンスは、隣で笑うアグルエを見て、昼間のことを少し反省したのだった。
強くなると星に誓った気持ちを思い返し、明日に向けて意識を強く持つ。
父親との再会。
そこに何が待ち受けていようと、全て受け入れる。
追ってきた友や、知り合った友の背を見て、エリンスはその強さを知ったのだから。
◇◇◇
賑わいを見せた夕食会から一段落して、エリンスは客室の布団の上で一人、胡坐を掻いて座っていた。
部屋の脇に置いた荷物――柱に立て掛けた剣、願星を見つめて一息吐く。
そこには昼間から見せていたような湿った空気はなく、決意を据えた眼差しがあった。
「どうじゃ、落ち着いたかの」
神出鬼没な親友の声に、エリンスは驚くようなこともせず返事をした。
「おかげさまでな、落ち着いた」
布団の上に飛び乗ってきたツキノはエリンスの横に座って、エリンスの横顔を見上げた。
「ふむ、それはよかったのう」
心配して様子を見にきたのだろう。
エリンスもそれを悟り、親友を抱き上げて膝の上に乗せた。
「なんじゃ」
揺れる尻尾が浴衣の隙間、脹脛に触れてくすぐったかったが、気にはせず。
まだ温泉の温もりが残っているような温かさが心地よく、エリンスは笑みを零してから返事をした。
「父さん、なんて言うかな」
「どういうことじゃ?」
背中を追ったこと、勇者候補生になったこと。
勇者の意味を知って、世界のことを知って、ツキノのことも知って。
そして横に、アグルエがいること。
「いや、いい。明日、会えるんだから」
吹っ切れた笑みを浮かべたエリンスの顔を見て、ツキノは珍しく不思議そうな顔をしていた。
一時、静かな間が合って――エリンスのその表情を見たツキノは満足そうに笑ってから口を開く。
「くふふ、そうじゃな。どうせ、進む道は変わらんのじゃろう?」
「変わらない。アグルエと出会ったときに、そう、決めたから」
ツキノはふぁさふぁさと尻尾を揺らし、「いいこたえじゃな」と笑う。
「全部、ツキノのおかげだよ」
「妾?」
「ツキトと出会わなければ、俺は、憧れを憧れのままで終わらせていた」
思いを吐き出したエリンスに対して、ツキノは少し考えてから返事をした。
「……そうじゃろうか。妾は、ただのきっかけに過ぎなかったと思うがの」
意外な返答に、エリンスは膝の上で丸まったツキノのことを見下ろす。
「知らなければならぬ時は、いずれくるじゃろう。
偶然なんて、ありはしないのじゃから。
たとえそれが、人の手で遠ざけられたモノだったとしても……。
エリンスは、勇者候補生になるべくしてなった、と妾は思うぞ」
珍しい言い様にエリンスは疑問に思った。
その間にもツキノはひょいっとエリンスの膝の上から飛び降りて、畳の上に座り向きなおる。
「まあ、明日を楽しみにしておくことじゃ。妾もあやつを一発殴ってやりたいからのう」
そう言って背を向け、襖の向こうへと気配を消したツキノを見送って、エリンスはボーッとその言葉の意味を考えた。
「なんだ、あの時の会話、聞いてたのか」
聞かれて困るようなことを話してはいないのだが、自分のことを心配してくれる親友の厄介さにエリンスは一人、笑ってしまった。




