不安と湯けむり
祭典準備の最中、飛び込んできた『緊急事態』の一報。
そこに居合わせる勇者協会の若き先鋭と父親の背中。
エリンスとしては、落ち着かないことの連続だったのだが、ミルファシアやマリネッタの勧めもあり、二人はこの日、祭典の手伝いを中断して火の都の街を見て回った。
浮かない顔をしたエリンスの手を、今度はアグルエが引く形で――。
独特な雰囲気ある白と黒の石畳模様の道を進み、アグルエに引っ張られるまま連れ回らされて――。
アグルエが不安な気持ちを察してくれているのだろうことは、エリンスもわかっていた。
ただ、エリンスの頭の中から幼き日、肩車をしてくれた父親の後姿が消えることはなかった。
一日中街を回って――アグルエは楽しそうに笑っていたが、時折見せる愁いを含ませた表情に、エリンスが気づかないはずもない。
心配を掛けたくはなかったが、片付かない気持ちがどうしようもなかった。
夕刻を過ぎてブレイルズの屋敷へと戻った二人を、ミルファシアは優しい笑顔で「おかえり」と出迎えてくれた。
今日は火の都で一晩明かして、明日はマリネッタ共々土の都へ向かう手筈になっている。
そして、ミルファシアの提案でブレイルズ家に泊まることが決まっていた。
夕陽を反射する黒い瓦屋根が厳格な雰囲気を醸し出す。
平屋建ての屋敷は高さがない分、広大な土地に堂々と構えられていた。
かくかくと曲がる長い廊下で一繋ぎにされて、小さな村ほどはあるのではないかというくらいに大きいものだ。
エリンスとアグルエは玄関口で靴を脱いで上がるという風習に慣れないものを感じて、ミルファシアは戸惑う二人を見て笑った。
「屋敷の中見たら、もっと迷っちゃうかもね」
疑問符を頭の上に浮かべて首を傾げた二人だったが、ミルファシアに屋敷を案内されるうちにすぐさま納得した。
住んでいるミルファシアですら、屋敷の中で迷うほどに部屋が多いらしい。
畳敷きの広間、襖で区切られた部屋の数々。
それぞれの部屋が隣り合い、規則正しく並ぶ様子はどの部屋を通っても似たようなものに見えた。
どこがどう繋がっているのか、一見しただけではわからない構造。
案内なしに一度足を踏み入れれば、来た道もわからなくなるだろう。
そうして一通り屋敷内の案内をされて、迷いづらい玄関口に近い客間を二つ貸してくれるということで、ようやくエリンスは一人になることができた。
「はぁ」と一息吐いて荷物を置いたところで、だが気持ちが晴れることもなかった。
腰に携えた剣を外し、軽鎧も脱いでも、肩の荷が下りることはない。
鞘に包まれる立て掛けた剣、願星をエリンスはボーッと見下ろす。
迷っているわけではない。
ただ、父レイナルへと近づくことが――知ってしまうことが、少し怖かった。
「エリンスー!」
と、襖越しにアグルエに呼ばれて、エリンスは慌てて顔を上げて返事をした。
「な、どうした?」
元気溌溂とした漲る声が、エリンスの不安をいつも吹き飛ばしてくれる。
下を向かないように――立ち止まらぬように、と背を押してくれるようだ。
スッと音を立て襖が開いて、エリンスが部屋の入口へと顔を向ける。
そこに立っていたのは、畳まれた大きなバスタオルがのぞく手提げ籠を手にしたマリネッタとアグルエの二人だった。
「いいところがあるわよ」
どこか上機嫌で言うマリネッタに、後ろでは嬉しそうな笑顔を浮かべるアグルエ。
早速なのだろう、と考えて、エリンスは二人に連れられ部屋を出た。
ミルファシアに案内された時目に入った、『ゆ』と描かれた暖簾を思い出して――。
◇◇◇
――カポーンッと桶のひっくり返るような音が、寒空の下に響き渡った。
暗くなりはじめて漂う夜の気配。
高く峙つ竹柵に、白い煙の立つ岩に囲まれた乳白色の湯。
一度湯に浸かれば、身体の奥底から温まるような熱が込み上げて、溜まった疲労感を吹き飛ばしてくれるようだ。
湯をすくい上げ、これが噂に聞く温泉というものか――とエリンスは納得した。
鼻を通る慣れない硫黄の香りは、温泉の匂いなのだろう。
広い洗い場に、広い露天風呂。
何十人という人が同時に利用できるような設計の温泉を独り占めして、エリンスはちょっとした優越感に浸りながら、湯の中で足を延ばした。
アグルエが嬉しそうにしていたのは、ミルファシアに『大きな温泉がある』と話を聞いた時からだった。
竹柵の向こうの女湯から聞こえる「わぁ」「きゃぁ」と騒ぐアグルエやツキノの声に耳を傾ければ、無意識のうちに頬は緩んだ。
しかし、一人になって夜空を見上げると、どうしても明日のことを考えてしまった。
「すぅ、はぁー」
誰にも聞かれないだろうと一際大きくため息を吐いてから、湯に鼻まで浸かるのだが――。
「ここに湿っぽいため息は合わないよ」
突然聞こえた声に驚いて、エリンスは思わず立ち上がる。
湯の中に聳える岩の向こうより、波を立てぬように姿を現したのは声の主、ロンドウだった。
「い、いたのか……」
落ち着きを取り戻したエリンスはゆっくりと湯に浸かりなおす。
冷やりとした外気に触れた身体へ再び温泉の熱が沁み込んだ。
「ごめん、驚かせるつもりもなかったさ」
エリンスと向かい合って、岩に背を預けて肩まで湯に浸かるロンドウは憎めない笑顔を浮かべてそう謝った。
全く人の気配が掴めなかったのは、温泉というこの場の空気、白い湯気と香りのせいだろうか。
エリンスは顔を合わせはしたものの、やや気まずい雰囲気に俯いた。
勝手に気まずさを覚えているのはエリンスのほうなのだろうが。
「悩みがあるのなら、聞こうか」
そう申し出てくれるロンドウに、ただエリンスはこたえることができなかった。
父親のことを相談したところで、きっとこの不安は解決しそうにない。
それに、他人に話すことはできない話でもある。
「いや、平気……」
顔を上げたエリンスを見て、ロンドウは「ふーん」と何を考えているのかわからない表情でこたえた。
黒髪の優男は濡れた髪を静かに掻き上げて、言葉を続ける。
「きみも三つの軌跡を回ったんだってね」
ここにいるのは二人きり。
返事をしないで余計に気まずくするわけにもいかない。
エリンスは一息吐いてから、「……回ったよ」と静かに言葉を返す。
ロンドウがどうして突然そのような話をし出したのかと、疑心暗鬼のままにエリンスは身構えるのだが。
「すごいじゃないか」
ただ、ロンドウはエリンスの警戒とは裏腹に、砕けた笑顔で心の底からそう思っているかのようにしてこたえた。
エリンスはその笑顔にドキリとしてしまった。
「マリネッタに聞いたよ。ぼくはまだ二つさ」
無邪気にそう言うロンドウに、エリンスはなんとこたえていいかわからず黙ってしまう。
だが、返事をしないエリンスのことは気にしてないかのように、ロンドウはさらに言葉を続けた。
「彼女も三つ回ったんだってね……ぼくなんかより、よほど……勇者候補生にふさわしい」
その言葉には何やら意味が含まれる気がして――エリンスはやや伏せられたアンバー色の瞳を見つめながら聞いた。
「ロンドウは、第4位だろう……セレロニアの統主を継ぐのか?」
昼間見たマリネッタと並んだ立ち姿に覚えた違和感。
ルインより聞いた統主を巡る話。
勇者候補生のシステムを利用する制度。
こたえづらいことを聞いてしまったかもしれないという不安はあったのだが、そのエリンスの不安とはまたもや裏腹にロンドウは笑顔のままに口を開く。
「あぁ、誰かからこの国の制度を聞いたのかな」
そして、そのまま軽やかな口調で続けた。
「ぼくは――、ブレイルズ家は辞退するつもりなんだよ」
「え?」
そのような重大なことを部外者に軽く言っていいものなのか、とエリンスは疑問に思って戸惑った。
「ぼくは勇者候補生のシステムを利用して、伝統なんてものを続けることが間違っていると思うんだ」
ルインと同じことを語るロンドウに、エリンスはそのまま言葉を返した。
「いいのか?」
セレロニア公国として長年続いてきた伝統。
200年もの間、セレロニアはそうして次の代表を決めてきたのだ、とルインは語っていた。
それをそのような軽い一言で、覆せるものなのだろうか。覆していいものなのだろうか。
エリンスは単純に、疑問に思ってしまったのだ。
「マリネッタにも相談してある。もちろん、ルイン様にも打ち明けてあるよ。
父上もはじめは怒ったけれど、ぼくとルイン様の考えを受け入れてくれて、一応納得はしてくれた。
それにルイン様にはまだ統主を続けてほしくもある。
あれほど国のことを考えられる人は、他にはいないんだよ」
ルインの功績など知らないエリンスではあったのだが、ルインの人柄を考えてみるとわかる話でもあった。
真っすぐに国のことを考えて、10年という歳月をセレロニアのために尽くしたのだろう。
ルインが持つ強い意志の力というものは、その優しさの中でも一際輝くようにして見えていた。
「それでもグンブートの爺さんには何か言われそうだなぁ」
怒られる様子を想像でもしたのだろうか。
軽く口にしたロンドウは笑っていた。
「四家で話を通しているわけじゃないのか?」
そういった大事な話こそ、四家会談というものを行うべきことなのでは――と部外者であるエリンスは思ったのだが。
「通してない。通したところで、あの伝統を大事にしすぎる爺さんが納得するとも思えないからね。
ルイン様がこの国の制度を変えようとしているのも、ぼくらは知っている。
だから、祭典でサプライズ。突然明かしてやるのさ。三対一じゃ、いくらグンブートの爺さんでも反対しようがない」
面白そうに笑って話すロンドウに、エリンスは笑うことはできなかった。
大勢の人が集まるという祭典の会場で、突如、次期統主が辞退を示す。
前代未聞の事態であろう。
四家のうちの三家がそれに賛同しているともなれば、事実をひっくり返すこともできない。
そこまで考えて――ルインも、ロンドウも、マリネッタも動いているのだろう。
マリネッタのため息の原因が垣間見えた。
「大騒ぎになりそうだな……」
緊急事態とは別件で、祭典が混乱することは決まり切っているようだ。
「そうならないためにも、手は回してあるさ」
ロンドウは相変わらず笑って言う。
エリンスは返答に悩んで、空を見上げてしまったのだが――。
――「エリンスー! そっちは、どう?」
アグルエの声が、柵を飛び越えて聞こえてきた。
「ほら、彼女が聞いてるよ」
「そんなんじゃ……」
ロンドウは憎めない笑顔を浮かべたままでいて、エリンスは小恥ずかしくなって慌てて否定をする。
「そうかい? まあ、そういうことにしておこうか」
だが、ロンドウはエリンスの否定の言葉など聞いていない様子で笑っている。
エリンスはやれやれと首を振りながら、アグルエへと返事をするため、声を張り上げた――。




